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赤虫 #3

 少女は学校が嫌いであった。

 退屈で、ダサくて、うるさいからだ。
 少女は面白くて、カッコよくて、静かなもの(音楽を除き)が好きだった。

 しかし、放課後は別である。放課後はアンチテーゼだと少女は思う。

 砂漠のオアシス、アスファルトに咲く花、ローリング・ストーンズのシーズ・ア・レインボー、眠りゆく学校で活発になる爬虫類。
 科学室はもう夜である。ガジュマルの生い茂る暗い廊下を少女は進む。断続的なモーター音、消火栓に赤く照らされた突き当りに水槽がある。

 赤虫である。紐状の幼虫が水槽の底いっぱいにとぐろを巻き、もがいている。

少女は松葉杖を置き、ピンセットで以て一匹ずつシャーレに移していく。

 赤虫はユスリカの幼虫である。どぶ川に湧き、金魚や水中生物の生餌になる。釣り餌としても使われる。赤い身体を持ち、頭の方が黒くなっている。その赤はりんご飴である。軽やかでつやつやしていて内臓を持つ赤である。祭りで幼女が手にしたものをとろとろと溶かし、ロープ状の鋳型に押し固めて、わらわらと出来たのが赤虫である。赤虫はその経験を、ポケットに仕舞い込んで後生大事にし、、時折、太鼓の躍動と幼女の舌触りを思い出しては身体をくねらせているのである。

 少女は不揃いの四本足を鳴らして教室へ、幼虫湧き立つシャーレを恭しく運ぶ。

 科学室の窓際にアカハライモリの水槽がある。水草が茂る合間に、まだらに赤くなった腹が見える。少女は杖をそっと置き、水槽の天蓋を開ける。

 アカハライモリが水面に上がってくる。少女はピンセットで赤虫を摘まんで、落とす。嘆く間もなく、幼虫は両生類の口へ。アカハライモリはぱちっと瞬きをして、喉元をぷくりと膨らませる。数回の咀嚼。野蛮な行為とは裏腹に、良家の令嬢のような可憐さである。

罪の自覚のない、純粋な眼差しである。

 少女は水槽に頬を近づけてそれを見る。睫毛がガラスをくすぐり、産毛が逆立つほど近くでそれを見る。少女はその柔らかい喉元に噛みついてやりたい気分になる。ゴムのように弾力があるだろうか、豆腐のように崩れるだろうか。いやきっと背中は黒くごつごつしているから、タイヤのゴムみたいだろう。噛み千切ったら、中から赤いものが沢山出るだろう。先ほど食わせた幼虫はまだ生きているだろうか。きっとまだ生きているに違いない。あの紐状の身体は、生命そのものである。遺伝子そのものである。太鼓のビートに合わせて躍動する、心臓である。肺である。血である。存在である。太陽である。救え。彼を、我々を、救え。

 少女はそう演説をし、夢中になりすぎてシャーレを落としてしまう。シャツに、箱ひだに数匹の赤虫がへばりつく。少女は悲鳴さえ上げずに、赤虫をひっつかんで水槽へ放り込む。憑りつかれたように体をひねり、幼虫がいなくなったのを確認すると、臓器の沸騰に任せて箱椅子を蹴り飛ばした。誰かが「SEX」と彫ったそれは大きな音を立てて倒れる。それで少女は臓器を冷やす。慌てて教室を出る。

 水槽には死体が浮かんだ。

 少女は母親も嫌いであった。

 時折、母親の遺影を持ち、葬列を率いて熱い砂漠を歩く夢を見たほどであった。

 母親は食卓でよく喋った。

 母親が喋ると部屋は翳った。

 蛍光灯がヨーグルトの上澄みをちらちらし、薄い緑の透明が母親の口に合わせてよろよろと揺れる。少女はその液体におりものの様なカスが浮かんでくるのを眺める。

「周りの人はどう思うかしらね。」

 少女は母親が何を話しているのかについて、興味を持てなかったが、女親の言葉は、ないはずの臍の緒を介して少女の腹へ入ってくる。どんなに要らないと念じても、体が養分と勘違いするのである。

「お母さん恥ずかしくって表へ出られないわよ。娘が線路に飛び込むなんて。」

 少女は白杖の少女について黙っていた。何となく触れてはいけないもののような気がしたし、少女だけが感じ取る、この街が狂っているということの一端であった。

「まるで母親失格って言われているみたいで、すごく傷ついたのよ。皆、やっぱりシングルマザーはだめね、とか、やっぱり両親揃っていないと、とか、夜遅くまで働いて娘に気が回らなかったのね、とかいろんなことを噂してる。私は何も悪くないのにね。」

 母親の言葉はどんどん取り込まれて、濃い脂肪のように少女の皮下に溜まる。乳白色の生臭いラードである。

「あなたはそこまで考えたの?私がどんな風に言われるか、ちゃんと考えたの?今まで散々あなたのために犠牲にしてきたのよ。あなたのためにあたしがどれだけのことをガマンしたと思っているのよ。」

 少女は臓器が重くなるのを感じている。脂肪が、心臓や膵臓や胃や肺の周りにべたべたと引っ付いて少女を太らせる。年頃の少女らの、乳房が膨らみ、腰回りや太ももが肉感的になっていくのは、彼女らの母親がその言葉で以て娘を肥らせているからである。

「あなたのためにネックレスもピアスも指輪もおしゃれも恋愛もぜんぶぜんぶ棄てたのよ」

 母親は老い支度として、娘を立派な女に育て上げる。

 内臓を肉を肥えさせて、娘たちがそのまた子供をつくり娘を持ったとき、その厚く柔らかな子宮と甘くべたついた乳で、言葉で、娘たちに受け継ぐのである。

「わたしのきらきらをかえしなさいよ!わたしのうけとるはずだったきらきらをぜんぶここへかえしなさいよ!ここへ、ぜんぶぜんぶぜんぶそろえてかえしなさいよ!」

 しかしそれは、同時に美を失うことであるのかもしれない。少女は青白い顔の女を思い出した。あれは食い尽くされた残飯ではないか。

「あんたらのせいでわたしのじんせいめちゃくちゃなのよ!なんであなたまでうらぎるのよ!わたしの、わたしのじんせいぜんぶぜんぶかえしなさいよ!」

 ぶくぶくと肥えた女はただの餌である。家畜である。甘く美味しそうな白い乳房に、男も子供も、ある意味母親もまして自らも、食らいつく。欲求を満たすだけの贋作のヴィーナス。

「絶対に逃がさない」

 母親は言った。そして娘が流すべき血の代わりに、ヨーグルトへイチゴジャムをかけた。

 この女が享受すべきもの、すべてを返すまで、離れることは許されない。

 母親が話す間、少女は自分の箱ひだを見つめていた。紺地に太いグレーの線が東からやって来て、北から被さるように太いグレーの線が降りてくる。その線と線の間を細い白線がつーっと縦横に張り巡らされ、折り目のせいで断続的なその一本を目で追い、箱ひだを一つ捲ってみたら、赤虫がいた。

 少女は母親が泣きながら席を立つのを見た。見た後で赤虫を摘まみ上げ、イチゴジャムへ放った。放った後、恐ろしくなって、雪崩れるように部屋へ駆け込んだ。窓を開けた。

 向かいの塀、キリストの黒看板のところに赤ランドセルが立っていた。

死後さばきに会う

 少女は宗教に明るくなかったが、その暗がりに浮かぶ白い文字に釘付けになった。

 母親は赤虫を食べただろうか。

 宝石を溶かしたような、赤くきらきらと透ける液体に、赤虫が沈む。世界で一番可愛い水死体である。

 裁かれるのは少女だろうか、それともあんなに綺麗なものを白く汚して、腹に収めんとする母親であろうか。

 少女は自分の体内もイチゴジャム入りヨーグルトのようにぐちゃぐちゃになっている気がした。

 赤ランドセルはいつのまにか闇に溶けていた。