なもなきひとの、なもなき日記、第1日「レール」
自分の足跡を振り返ったとき、遠くに見えた2本の平行な白線は、まるでレールのようだった。自分のまだ小さな足跡は、なんの疑問もなく、しっかりとそのレールをなぞっていた。
そのレールは誰が用意してくれたの?
父親は公務員、母親はほぼ専業主婦、6つ上の兄は物心ついた頃にはかなりお勉強ができる人だった。
両親の仲は決して良くはなく、僕たち子供の前でも大喧嘩をしょっちゅうしていた。それでも離婚することなく、ありがたいことにお金で困るようなことはなかったように思う。
近くの幼稚園、近くの小学校、近くの中学校と、地方都市ではあたりまえのルート。
6つ上の兄はその頭の良さを活かし、地域で1番の進学校、そして旧帝大へと難なく進んだ。
そうなってくると、自然に僕の目の前に伸びるレールは、同じようなルートになる。両親もそれを期待するし、子供は親の思いをくみ取ってしまうものだ。
思い返すと、小学生のときも中学生のときも、明確な「夢」がなかった。
何になりたいのか、どんな仕事に就きたいのか、もちろんどんな人生を歩みたいのかなんて、全く想像していなかった。
ただただ、目の前のレールをなぞるように、ふわふわと、生きていた
そのレールは、明るい未来へと繋がっていると、なんとなく信じながら。
「小さい」挫折でもっと凹んでおくべきだった
中学校では、気がつけば常に上位の成績をとっていた。一生懸命に勉強していたわけではないけど。
そして高校入試。滑り止めで北海道の進学私立高もなんとか合格し、第1志望の公立進学校の試験は・・・これまたぎりぎりで合格し、入学できた。
ここまでは兄と同じレールに乗ってこれた(実はもうズレ始めていたと知ったのは、だいぶ後のこと)
高校には、地域のお勉強ができる人だけが集まっていた。中学校のころにろくに勉強に励んでいなかった僕は、どんどん「学力カースト」の最下部へ落ちるのに、時間はあまりかからなかった。
定期テストでは赤点続き、追試の日々。偏差値の数字が全てのこの学校では、僕はもうゴミくず同然。母親もこの成績は知っていたはずだが、僕に行かせたかった大学は兄と同じ大学。どう考えても無理でしょ・・
それでも僕はそんな状況に慣れてしまったのか、それほど危機感はなく、最後にはどうにかなるだろう、くらいにしか思っていなかった。
このとき、もっと落ち込んで、もっと凹んでいれば・・・
ずるずると見せ場もなく、最下位カーストのまま、大学受験シーズンへ突入。
センター試験も大失敗まではいかないけど、それなりの点数。でも旧帝大なんて夢のまた夢のレベル。
その時点でも「夢」はなかった。なんとなく行ける大学へ進んで、なんとなく過ごせば、なんとなくどこかに就職できる、となんとなく思っていた。
センター試験の点数で、比較的余裕で入れそうな地方国立大学を受験し、なんとなく合格し、入学した。
なんとなく理系に進んだので、なんとなく工学系の学科を選んだ。
この数年後、とてつもなく大きな挫折を経験するなんて、全く気が付かずに・・・
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