つまずきが起こるのは避けられません~ルカの福音書17章~ゆっくり通読しよう
1.つまずきをもたらす者はわざわいです
今も誤りを教える宗教の指導者はたくさんいるし、無神論が正しいとして、創造論や神様を嘲笑ったりしている影響力のある人たちの姿は、パリサイ人たちが、疑わずに信じる『小さい者たち』を惑わせたのと同じことのような気がする。
『ひき臼を首に結びつけられ海に投げ込まれる』よりも、もっと悲惨な裁きが待っている。だけど、驚くことに神様はこのような人たちにも生きているうちに「考えを変えよ」と語りかけておられる。
人は人につまずきをあたえてしまう。
子どもには動機は愛から諭そうとするのだけど、訊かないとだんだん腹が立ってくる。そして言い争いになり、行き着くところは断絶となる。どうしてこうなるのか、苦しむけど、"自分自身に気をつけ、相手を戒め、赦し合う関係"には、たとえ家族であっても神様に間に立って頂くことが不可欠なんだとやっとわかった。祈りつつ神様の愛で包んでもらわないと、私の愛はなんと弱くて言い訳がましいものだろうかと思う。
弟子たちは戒めを守れないのは、信仰が足りないせいだと思って「私たちの信仰を増し加えて下さい。』と言った。
2.からし種ほどの信仰があれば
考えて見ると、信仰が弱ってるなと思う時は神様にしっかり向いている時間が少なく、満たされているなと思う時は絶えず神様を見上げている時だ。
何かを行うその時にちゃんと信仰があれば、自分では不可能と思えることもできるようになるよという約束の言葉のように思えた。信仰は、あるかないかのどちらかで、多い少ないではないということか。
3.十人のツァラアトの人の癒し
興味深かったのは、今までの癒しは、病気の人に触れ、優しさあふれるものだったけど、この十人の人の癒しについては遠くから「行って自分のからだを祭司に見せなさい。」と声をかけただけだった。
癒されたと知った時、ただ一人戻って来てイエス様を礼拝した人は、サマリヤ人だったので、そもそも祭司のところに行く必要はなかったのではないかとふと思った。律法に縛られたユダヤ人九人は治してくれた方の元には戻らず、祭司の元に行き一度は弾き出されたユダヤ社会へとそのまま戻って行ったのだろう。
イエス様はたくさんの癒しと奇蹟を行われたけど、その結果がここに凝縮されているように思えた。救いは異邦人に訪れた。
4.神の国はいつ来るのか
神の国への唯一の門であるイエス様が目の前にいるのだから、今神の国はあなたがたのただ中にあると言われたのかな。
5.人の子を見られない日、人の子の日
あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日がきます。
何かとても悲しい響きがした。
でもそのあと、十字架の苦しみの後、再びこの地上に来られると約束してくださっている。その日まで、神様を見上げて歩んで行きたい。
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参考---ルカの福音書17章(新改訳2017)---
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