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マグロレンズ


「マグロレンズは人類史上最も不必要な発明である。しかし、その不必要性とは違う理由において、人類史上最も哲学的な発明でもある」 

               株式会社マグロレンズ 代表取締役社長 森 茂


マグロレンズはマグロの形をしていない。
いまさらそんなこと、という声が聞こえてきそうだが、一応説明しておく義務が私にはあると思う。これだけ世界中至る所でマグロレンズを見かけるようになった今でもやはり、その存在や概念に無関心な方はいるはずだ、というのが私の見解だ。

だからマグロレンズのことを知らない(かなりの少数であると思うが)読者のために、簡単に触れておこうと思う。

しかし、マグロレンズとは何か?と聞かれて、「これこれこういうものです」とすんなり説明できる人も少ないのではないだろうか。マグロレンズは私たちの生活を確かに変えはしたが、どのように変えたのかを説明できる人が少ないのと同じように。

私は「何かを説明する」ということを得意とする類の人間である。
元々小中高の教員免許を持っているし、全国各地を飛び回りそれこそマグロレンズなんかよりもっと馴染みのない「非ユークリッド幾何学」やら「ポスト構造主義」やらを講義して回っているのだ。受講者の満足度が90パーセントを下回ることはない。

そんな私が、マグロレンズのような、我々の日常生活にありふれた馴染み深いもの—いまさら説明する必要もない自明なもの—をうまく説明できないというのは、少々問題である。

私は思い切って株式会社マグロレンズに尋ねてみることにした。
株式会社マグロレンズのホームページを見ると、お問合せ専用窓口というリンクがある。
リンク先では「よくあるご質問」というところに幾つかのQ&Aが掲載されている。

Q「マグロレンズが起動しません。どうたらいいでしょうか」
A「マグロレンズ本体を再起動してみてください。かなりの確率で、正常に起動します」

Q「マグロレンズを紛失してしまいました。どうしたらいいでしょうか」
A「お客様のマグロレンズには追跡機能が付いています。アプリ『マグロレンズ』の『探す』機能を使ってみてください」

などなど。
そしてページの一番下に「問い合わせフォーム」というリンクがあり、質問内容を記入すると、メールにて個別に回答を得られる。
その下にかなり小さく薄い文字で、「お客様相談センター」というリンクがある。
リンク先にはコールセンターに繋がる電話番号が記載されている。
その下には注意書きで、*「マグロレンズとは何か」というご質問には、弊社ではいっさいお答えしかねます。ご了承ください。とある。

私はコールセンターに電話をした。
対応してくれたのは女性のオペレーターで、鼻にかかったような高い声の持ち主だった。

「お電話ありがとうございます。マグロレンズお客様相談センター、久石が承ります」
「少し伺いたいのですが」
「どのようなことでしょうか?」
「マグロレンズとは一体なんなのでしょうか?いや、私自身もちろんマグロレンズのことは知っています。いつも利用させていただいてます。しかし、マグロレンズを知らない人にマグロレンズを説明しようと思ったとき、うまく説明できなくて」
「さようでございますか。しかしながら、当センターにおいてもそのようなご質問に対しては一切お答えしかねます。申し訳ありません」
「そのような質問っていうのは・・」
「マグロレンズとは何か?というようなご質問です。弊社ホームページにも注意書きがあるはずです」
「はあ・・では一体このような質問はどちらにすればよろしいですか」
「弊社にはそのようなご質問にお答えできる窓口は一切ございません」
「しかし、マグロレンズとは御社の提供するサービスですよね?」
「さようでございます」
「おかしな話です」
「さようでございます」
私はここで、質問を変えてみることにした。
「では、御社はどのような会社ですか?何をなさっている会社でしょうか」
「弊社は主にマグロレンズの製造、および運営を行っております」
「マグロレンズとはどのような商品なのでしょうか」
「そのようなご質問にはお答えしかねます」
「なぜお答えいただけないのでしょうか?」
「それについてもお答えできません」
私は礼を言って電話を切った。

マグロレンズのホームページには本社所在地が書かれてある。
東京都港区虎ノ門に、その巨大なビルはあった。
私はそのビルに向かった。

開発が進んでいるこの街はどこもかしこも工事中である。
3対7の割合で、完成しているビルより、建設中のビルの方が多かった。
人通りは思ったよりも少ない。

広い歩道では若い娘と、おそらくその母親がそれぞれ一匹ずつ犬の散歩をしていた。
プードルだかヨークシャテリアだか、犬種はよくわからないが毛がふさふさのやつだ。親子はそれぞれが全く同じ犬種の犬を連れていた。

親子は一切口を聞かなかった。
信号まちで、私はその親子の後ろにいた。信号の色は長い間変わらなかった。その間も親子は一言も口を聞かなかった。

母親の連れている犬が私の方を振り返り、ずっと私をみていた。長い赤信号を待つ間、ずっとだ。首を不自然に後ろに曲げ、まるであなたが私の本当の飼い主ですよねと言わんばかりの目だった。信号が変わり、無口な親子に引っ張られ歩き出してからも、その犬は何度も苦しそうに首を曲げ、私をみた。

株式会社マグロレンズの超高層ビルは厳重に警備されていた。
確認できる出入り口は、正面に一つしかなく、グリーンベレーを彷彿とさせるような、数々の極限的な訓練を乗り越えてきた精鋭の目を持つ警備員が8人いる。
私には、彼らが銃を携帯していないことが不自然に見えた。一人残らず、自分の従事する仕事に対して誇りを持っているようだった。

私は諦めて、近くのカフェのテラス席に座り、アイスコーヒーを飲んだ。
今回の仕事は、とある匿名のクライアントからの依頼によるものだ。我々ライターの業界では有名なクライアントで、誰も直接あったことはないが、なんせギャランティが高額である。そして彼の依頼する仕事はもれなく全てが、世間の脚光を浴びることになるのだ。

私の昔馴染みのライターも、最近彼から依頼を受けた。依頼内容は「テレビの通販番組で観客の声の効果音をつける仕事」を40年間続けてきた男がある日突然クビを言い渡され、次の日から突然アルツハイマーを発症し、一週間後に自殺したという事件に関する詳細な記事の執筆だった。
もちろんその記事も世間の脚光を浴びることとなり、書籍化され、考えられないような桁数の金額が私の旧友の銀行口座に振り込まれることとなった。

その匿名クライアントは「F」というペンネームを使い、仕事を依頼する。
Fは見返りを一切求めない。彼からの依頼で得た報酬は全て、依頼を受けたライターの収入になる。その代わり多くの指定があり、納期や文字数、フォーマットを守らなければ今後Fからの依頼が来ることはない。それどころか、どういうわけか他のクライアントからの仕事もほとんど来なくなる。
だからFからの依頼がきたライターは、受けるかどうか悉く悩まされる。

私が今回この仕事を受けることにしたのは、そろそろライター業を引退しようかと思っていたところだったからだ。特にマグロレンズに興味があった訳ではないが、最後のライター業としては申し分ないし、仮にうまくいかなかったとしても、失うものは何もない。

私は今後の作戦を考えていた。
アイスコーヒーは氷が溶け、水滴で覆われたグラスの中では前衛的なブラウンのグラデーションが創作されていた。

斜め前のテラス席に二人組の女が座った。どちらも30代半ばといったところで、一人は黒い髪の毛を肩の上の方で短く切りそろえ、もう一人はパーマされた茶色の、水分量の少ない髪の毛を背中の中央くらいまで伸ばしていた。
私は自分のアイスコーヒーのグラデーションに目をやった。そしてほとんど茶色の水と化したその液体を喉に流し込んだ。

長い髪の女が店員を呼び、カフェ・ラテを注文した。
店員は若くて背の高い、ハンサムな男だった。彼のパーマされた漆黒の髪には、十分な水分が保有されていた。
「アイスで」と髪の長い女が言った。
「かしこまりました。お一つでよろしいですか?」
「どうする?」と髪の長い女が、髪の短い女に聞いた。
「私はアイスコーヒーを一つ」と髪の短い女。

私が彼女たちに違和感を覚えたのは、その声だった。
私は舞台演劇に関する記事をよく書いていたから、俳優のように特別な訓練を受けた人間の声には多少敏感である。
彼女たちの声はまさに腹式呼吸のそれであり、訓練しなければ出せないようなプロの声であった。倍音が鼓膜に残り、よく通る声だ。そして何より、喉を傷つけない発声だった。
しかし虎ノ門は、舞台俳優や声優、ヴォーカリストやらが二人でお茶を飲むのに決してふさわしい場所ではない。

「ねえ、どう思う?」と水分量の少ないパーマの女が聞いた。
「なに?」と髪の短い女。
「久石さん。感じ悪いとおもわわない?」
「そう?」
「わたし、さっきあの人の言葉遣いを注意したの。ほら、まだ新人さんじゃない?だからきっとそういうことちゃんとわかってないんじゃないかと思って」

そこで水分不足の茶色い髪の保有者は、カフェ・ラテを大きくふたくち飲んだ。まるで髪の毛にカフェ・ラテを送り込もうとでもしているみたいに。
髪の短い女は飲み物にいっさい口をつけなかった。

「そしたら久石さん、あなたはわたしの上席にあたる方ですか?だって。それで、わたしびっくりしちゃって、『えへへ』って、なんか気の抜けたようなヘンテコな笑い方しちゃって、なんにも言えなかったわ」

私は思い切って彼女たちの席に歩み寄り、「失礼ですが、あなた方はマグロレンズのコールセンターで勤務されていますか?」と聞いてみた。
髪の長い方の女は目を丸くし、短い方の女を見た。
「ええ、そうです。それで、どういうご用件でしょうか」と髪の短い女は言った。
私は名刺をみせ、マグロレンズについて少し話を伺えないか、と聞いてみた。

少し間があり、髪の長い女が言った。
「どうして私たちがそうだとわかったの?」
「久石さん、という方に電話で対応していただいたものですから」
髪の長い女はまた目を丸くして、「えへへ」と気が抜けるような笑い方をした。

髪の長い女はハセガワさん、短い方はタナベさんというらしい。
彼女たちは今昼の休憩時間で、そろそろ戻らないと行けないらしい。
「7時に仕事がおわるの。そのあとだったら、わたしは平気だけど」と髪の短い女が言った。ハセガワさんは都合が悪いらしい。
「二人で楽しんできなよ」とハセガワさんはクスクス笑って言った。
「どうしますか?」とタナベさん。
「あなたがよろしければ、是非ともお話を伺いたいです」と私は言った。
「いいわよ。でも私は美味しいご飯が食べたいな。そのためにこの世に生まれてきたの」

私とタナベさんは、広尾にあるイタリア料理店で待ち合わせた。
プーリア州の郷土料理を扱うトラットリアであり、我々はディナーコースを注文した。プーリア州はイタリアという長いブーツのちょうど踵、ピンヒールにあたる場所に位置するのどかな地方である。料理は素朴な味わいで、おもてなしの精神が惜しみなく注がれている。太った気のいい、友達のお母さんが作るような、家庭的な安心感に満たされる。とても美味しいのだが、とにかく量が多い。おもてなしがあふれてしまっているのだ。

なぜそんな店を選んだかというと、タナベさんは本当にたくさん食べると聞いていたからだ。
「ほんと、びっくりするくらい食べるわよ」
タナベさんはよく笑った。白い歯がきれいに揃っていた。

「素敵なお店」とタナベさんは言った。「とても楽しみだわ」
「ほんとうに量が多いですよ」
「みくびらないで」

次から次へとコースの料理が運ばれてきた。タナベさんはそれらを全部ペロリと食べいった。控えめに言っても、彼女ほど美味しそうにご飯を食べる人間は日本に10人といないだろう。

「それで、そろそろ本題に入っても」私は聞いた。コースはデザートを残すのみだった。
「ええ、いいわよ。とっても満足だわ」
「あなたは入社してどのくらいですか?」
「もう4年になるわね」
「業務はずっと同じ?」
「そうね。ずっとコールセンターでオペレーターをやってるわ」
「何か特別な訓練を受けているのかな?ハセガワさんもそうだけど、訓練された声だと思ったんだけど」
「やるわね。そう、入社して半年はプロの演出家やボイストレーナーがついて、発声の訓練があるの」
「すごいね」

タナベさんはほんとうに全てを食べた。私が食べきれず残した、パッケリやらタリアテッレやらも平げた。

「会社に対する不満とかはない?」
「ないわ。とてもいい会社よ。少なくとも私にとっては」
「どういう点でそう思うんだろう」
「まず社内がとても清潔なの。嘘じゃなくて、ホコリひとつ落ちてないわ。後はそうね、マニュアルというものがないの」
「マニュアルがない?」
「そうよ。オペレーターはなにを話してもいいの。例えば水族館の話をしてもいいの」
「ちょっとよくわからないな」

他の客が徐々に減り始め、店内には我々と銀婚式をとっくにすませたであろう仲睦まじい老夫婦だけだった。老夫婦はどちらも、とても綺麗な白髪を上品に整えていた。厨房からは、店の締め作業が始まる音が聞こえる。

「例えば僕が、マグロレンズとは一体どういうものなのでしょう?と質問するとしよう。すると、その答えはオペレーターによって違うということかな?」
「その通り」
「マグロレンズは、水族館のことです。と言ってもいい?」
「そう。マグロレンズは水族館であり、自転車であり、ベテルギウス星でもあるの」
「でも実際は違う。マグロレンズは水族館でも自転車でもベテルギウス星でもない」
「どうしてそう言えるの?」
「それを説明するのは難しいな。それはどうしてこの世界は今にも消えてなくならないのか、を説明するのと同じくらい難しい。ただ、なくならないんだから仕方ない。違うから違うとしか言えない」
「そんなに難しいこと、私にはわからないわ」
「そして僕はそれを説明したいと思っているんだ」
「おかしな人ね」
「僕は真面目に話を聞きたいんだ。からかっているなら、無駄な時間だったということになる。お互いにとってね。ただ二人の人間の胃のなかにイタリアの郷土料理が溜まっただけのことだ」
「怒らないでよ」
そこでデザートが運ばれた。シンプルなバナナのパウンドケーキだった。我々は無言でそれを食べた。コースの中で一番素朴な味だった。

会計をすませ外へ出ると、タナベさんは私の腕をとった。
「ごめんなさい。怒らせるつもりなんてなかったのよ。でも私が言ったことに嘘は一つもないわ。ほんとは、全部言っちゃいけないことなのよ」

結局私とタナベさんは寝ることになった。
世の中にはあらかじめ決められている未来というものが存在するのだ。あらかじめ決められていない未来が存在するのと同じように。

長くて深い、そしてユーモアを多分に含む親密な時間の後、タナベさんは私の胸の上に頬をつけていた。私は胸でタナベさんの、綺麗に切りそろえられた黒い髪を感じていた。タナベさんの髪はとてつもなく軽く思えた。世界で唯一の、重力が適用されない物質のように。

「でも、いいわ。とっても美味しいご飯を食べさせてくれたから、あなたにはもうちょっと教えてあげる」その声はとても小さかった。しかし私の胸骨を通じて、鼓膜にしっかりと響く音だった。

「ぜひ聞きたいね」
「誰にも言っちゃダメよ」
「もちろん」
「マグロレンズはマグロの形をしているの」


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