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古伊賀と古備前 ~2つの「破格」~

前回のゴッホ展の際にちらっと書いた、五島美術館で開催されていた「古伊賀ー破格のやきものー」展の感想を今回は書いていく。


会場となった五島美術館


実を言えば、今回上京した目的はゴッホ展よりもむしろ古伊賀を見る方だった。『陶説』の特集記事で同展の情報を掴んですぐさま「これは何としても見に行かねば」と決意したものである。従って、まず古伊賀ありきで、次に梯子する美術展としてゴッホ展を選んだのである。他にも静嘉堂文庫美術館の「宋磁と清朝官窯」展や出光美術館の「青磁」展も候補だったが、時間的にも体力的にも苦しいということで今回は断念した。


今にも「ハーイ!」とか言い出しそうな古伊賀の花入


古伊賀に関する概要については例の如く各自調べてもらうとして、私は私の感想を述べることにする。改めて感じたのは、こういう意図的に歪ませた織部様式の陶器は写真で見るより現物をナマで見た方が遥かに面白いという事である。3次元空間上の立体造形物を2次元平面に落とし込むとどこかに無理が生じる。今回見る事の叶った古伊賀、特に水指や花入は美しい歪みと炎との激しい格闘の痕跡が伺え、さながら12ラウンド戦い抜いたプロボクサーのようであった。美しく歪む、これが難しい。ただ歪めること自体を目的として歪めた現代のナンチャッテ古伊賀風焼き粘土ではそうは行かない。逆に一角の彫刻家が古伊賀でも何でも織部様式の焼き物に手を出してみたら中々の物が生まれるのではないかという気がする。

「並んだ古伊賀がどれも同じに見える」というのも無理はない。なぜなら表面上の景色は全て異なっていても、それらの根底に流れる思想は同一だからである。同一の美意識に従って造形、焼成され、特に景色の優れるものが茶人によりピックアップされ現在に伝わっているのだから。古陶磁には代々人の手で受け継がれてきた「伝世品」と古い窯跡や地層から掘り出された「発掘品」の2通りがある。同展では発掘された古伊賀の陶片も展示されていたが、そうでない茶陶に関してはまず全て伝世品だろう。従って、それらは最初から「茶人の美意識を反映したもの」と言ってよいと考えられる。まずはその美意識という枠の存在を認識し、その枠内で各人の好み、例えば焦げが強すぎて嫌だとか、このビードロのかかり具合が好きだとか、そういう観点から見れば楽しい。この見方は何も古伊賀だけではなく茶道具全般に当てはまることだろう。

私個人としては《華厳》という銘の花入が1番気に入った。前面はモアイ像をより鋭くしたような風情でごつごつとしており、その上から一面にビードロが流れています。銘の通り華厳の滝を連想させる景色からは思わず水のせせらぎが聞こえてくるようである。背面は造形的な作為は少なく、焦げはなく火色が出ており、前面とは打って変わって土の温もりを感じさせます。滝では少し寒い時にはこちらを表に向ければ1粒で2度楽しめることだろう。


古伊賀耳付花入 銘《華厳》(展覧会図録より)


ところで「古伊賀」展の副題は「破格のやきもの」だが、私はこれを目にした時、とある1つの展覧会を思い出した。2015年に岡山県立博物館で開催された「破格ー桃山備前ー」展である。生憎と岡山の方は行くことができず図録しか持っていないのだが、後に別の展覧会などで当時の出展作品の半分以上はカバーしている。なので今回古伊賀と古備前の比較を試みる上でさほど支障はないだろう。

伊賀(および信楽)と備前は茶の湯において土の美しさを見せるための焼き物(炻器とか無釉焼締などと呼んだりする)としては双璧をなすと私は考えている。しかしその性質は大きく異なる。前者の土肌は明るくオレンジがかっており、そこに淡緑色のビードロがかかることで陽性の美しさを感じさせる。一方の後者は茶褐色~チョコレートブラウンの土肌の一部に黄色い胡麻がかかり、全体として陰性の美しさを感じさせる。また、これらの土のよく見える焼き物は濡らすとより美しく見えると言うが、伊賀は濡らすとビードロが一層キラキラと輝きのに対し、備前は土肌がしっとりとして深みが増すのである。美しさを感じさせるポイントは似て非なるものであるが、どちらが美しい、優れているなんてのは無粋な話だろう。

「破格」とは格を破るの意であり、そこには破る対象としての「格」の存在が前提となる。茶道には「真行草」の格付けがある。真は神仏に、行は貴人に、草はそれ以外に対する作法、という具合で、お辞儀の仕方から用いる道具の集類まで区分されている。例えば花入なら青磁は真の格、伊賀や備前のような土肌の多いものは草の格、というように。普段我々が「茶道」と聞いてイメージするような侘茶、草庵の茶というのは文字通り1番低い草の格ですが、無意識にイメージしてしまうほどに浸透していると言ってもいいだろう。つまり「破格」の焼き物とは「従来の焼き物に対する低い評価を覆した」焼き物のことなのではないだろうか。だからこそどちらの展覧会も副題に「破格」の2字が入っているのだろう。

古伊賀や古備前のような和物陶器と印象派の絵画は、どちらも先行する権威(唐物/アカデミズム)に対するアンチテーゼとして始まりながら、やがて自身が権威の側に回ってしまった点が共通する。また、権威と化した国焼の茶陶を上手物として否定することで始まったゲテモノ礼讚、すなわち民藝もまた今日では権威側の存在となってしまっている。格を破った後は自らが格となるのは避けられぬ宿命ならば、せめて当初の革新性をいつまでも忘れないでいて欲しいものである。

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