生きよう

そろそろ夏休み終わりが近い。
社会人に夏休みはないのだけど、私はたまたまいま、転職の狭間期間であり、休みを取れている。
そんな休みの眠れない夜に、深夜テンションで、だれのためにもならない記事を書く。

青春を乗り越えられるか

特に小中高の頃は、多感で心も動きやすく、柔らかい。傷つきやすいし色々なことを自分で対処する選択肢も知らなければ、力もない。だから極端な行動をとってしまいがちなのだが、ふと違った視点やスケールの違う価値観に触れて救われることもある。

学校は大変だよね

小中高大と学校に通った後に社会に出て働き早10年以上が過ぎた…かな。思い返せば、社会人になってからが、最も気楽で、小中が最も辛かったかもしれない。大学生活に戻りたいと思うことはためにあるけれど、それでも学校と名のつくところにいた時は周りの人と常に比べて落ち込んでいた。

存在価値は能力 という誤り

ここで初めて言語化を試みるのだが、中高時代に(今も残ってはいる)わたしは存在価値は能力だという考えに取り憑かれ、自分で凹んでいた。自分の存在価値を決めるのは何かができる能力によるのだ という価値観。
例えば、ピアノが弾けるとか、足が速く賞をとったとか、XXの才能があるといった類のプロパティにチェックがついていると価値がある人間だと考える。これは当然、何もできない自分の反動だった。なんの才能も能力もない。芸事は特に持ち合わせていなかったし、習い事の水泳も人並みであったし、勉強も特に秀でていなかった。全てが中以下のプロパティ。学年集会で表彰される人々が羨ましかった。
しかし、能力が人としての価値なのかというと、それはもちろん否だ。確かに、例えば職場や転職市場ではまた別の薄っぺらい「価値」になる面は否定しないが、人として、本当に大事なのは、うまくできるかどうかよりも、どのような意志を持って、たとえ下手でも下手なりに行動して生きているかということである。
(ん、これはこれで押し付けた瞬間に薄っぺらくなる気もする。なんの意志もなく流されて生きてもそれはそれで人生だし意思は逆にあるような…。ようは、自分自身に対して独自の価値観に基づいて、胸を張れるのかということかな。)
能力への憧れは悪ではないし、努力はして損はない。が、何もできない自分に過剰に落ち込むこともない。大事なのは若いその時点で他人と比べることじゃなくて、大人になってからもどうやって生きていきたいかの意志を失わないこと、育み続けることではないだろうか。
例えばテニスが超絶得意な高校生が、大人になってからもテニス生活を続けているかというとそうでもないことが多い。(と思う)そのくらい若い時の能力を拠り所にしたアイデンテティというのは仮初のものだ。
私の身近に、アマチュアながら音楽に身を捧げている方がいる。自分のスタイルを貫くために犠牲にしているものも多くあると想像できるが、そういう生き方を実践して意思ある人生を送っていることが羨ましくも真似できないなと感服している。

減点評価は無視がよろし

減点評価はクソである。
あるべきと定められた状態との差分を見つけ出し、減点していく評価方法。社会にでてからもこの評価方式がとにかく多い。というかこれ以外に出会えたことがない。この評価方式の欠点はいくつもあるが、何が最悪にダメかというと、ゴールを見失わせるという点にある。
本来のゴールがこの評価関数にすり替えられてしまう。どんな方法でもいいから、ゴールに到達するのが正しいやり方であるので、0からどれだけゴールに近づいているかを本来は評価しなければいけない。
ここができてない、あれが足りないよねと言われることがあるが、だからなんなのだ。それが満たせたとしてつまるところ何を目指しているのか、それを見失わないようにしないといけない。
減点評価にいじめられた時は、無視しよう。
自分の価値観をもって。
そんな場所からは逃げてもいい。それができなきゃ傷つかないよう殻を閉ざせばいい。

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