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「普通」を「フツー」へ、アップデートするために。

先日、とあるオンラインイベントに登壇させてもらいました。

ボーダレス・ジャパングループのUNROOF主催の、「フツー」って何だろう?というイベントです。

何らかの生きづらさに対して、ビジネス、ものづくり、デザインでアプローチする登壇者の方々とのトークセッションは、とても面白く、学びある時間となりました。

UNROOFは発達障害や精神疾患を抱えた人もそうでない人も輝ける働く環境を作ることを目指す、革製品ブランドです。
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他の登壇者はこんな方々。
●障害福祉×デザイン×商業で、障害のある人のアートを広める「想造楽工」代表YORIKOさん。
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●ビジネスパーソンが心身の状態を振り返れるハーブティー「daytune.-tea」を展開するフローミュラ代表松見さん。
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さて、イベントタイトルにもある「フツー」とは何か、この記事でも少し掘り下げてみようと思います。

日本社会の見えない「生きづらさ」の正体、そのためにも言葉の概念をアップデートしていきたいね、というお話です。


【普通は主観】 あなたの思う「フツー」とわたしの思う「フツー」は違う

まず、大切な前提として、誰にも共通する「普通」という物差しは存在しない。

150年前だったら男性は頭のてっぺんの髪をそり後ろで束ねるのが普通とされていたわけだけど、今その髪型で街を歩いたら「あの人普通じゃない」って思われしまうかもしれないように、時代によって普通が指すものは変わるのであり、決して普遍なものではありません

もっと言えば、同じ時代を生きる人だって趣味嗜好や生き方は千差万別なわけだから、おそらく友達3人に「あなたが考えるおしゃれの普通」について、3回くらい「それどういうこと?」って深掘りすると、3人全然違う答えが返ってくると思います。
※これ本当にやると多分嫌われるので注意です

ぼくも日常会話で、「普通はさ〜」とか無意識に使ってしまうのですが、このように「普通」とは実態のない架空なものです。

そんな架空の共通の物差しがあたかもあるように思わせてしまうのが人間社会の恐ろしいところですが、この「普通」に縛られる限り、多かれ少なかれ生きづらさを感じてしまうのだと思います


【生きづらさの正体】 人と比較し、違い=劣りだと感じてしまうこと

なぜ生きづらさを感じてしまうのか?

それは人(=普通)との違いを劣っていることだと認識してしまうことに一つの要因がある気がします。

きっとそれは、これまでの資本主義に基づく「一億総中流社会の考え」「成功へのレール=学歴社会」といったものが生み出してきた「普通」であり、あたかもそこを目指すことが善であると長い月日をかけて僕たち日本人たちは刷り込まれしまったのだろう。

ぼくはその考え自体を否定するつもりはありません。
なぜなら、その「普通」とは、戦後どん底から何とか這い上がろうとした先人たちが夢見た社会であり、理想の社会であり、汗水垂らして何とか手にしたものだからです。

ただ、その「普通」が獲得された現代、当時の人たちが予想もしなかった「普通に縛られる苦しみ」を抱える人が出てきしまった。
その理想に思われた社会は、あまりにも人との比較と優劣を作り出してしまうものだったのです。

そう、だからこそ、戦後の人たちが、貧しくボロボロの社会を立て直すために理想の社会を描いたように、今生きている僕たちが改めて理想の社会を描きなおす時がきている。

今ぼくたちは改めてこの「普通」という言葉の概念を、アップデートする必要があるのだ。

【言葉の概念】 概念をアップデートするために

人間は社会的動物であり、その社会を形成するのは、人間関係であり、言葉です。

そして人間は思っている以上に言葉に縛られる生き物であり、そこから解放されるには言葉自体をアップデートしていくしかないのではないのでしょうか。

以前、ヘラルボニー代表の松田さんが、「障害」の概念を変えるということが大切だとおっしゃっていました。

そのために、『この国のいちばんの障害は、「障害者」という言葉だ。』という意見広告を発表したとのことです。

こうやって、社会が変わる中で、まだ変わっていない言葉の概念に対して、気づいた人たちが声をあげていくということがとても大切なのだと思います。

そうやって、一人の言葉が誰かに影響を与え、一滴の影響が最終的にグラデーションとなって大きな社会の変化を生むのでしょう。

社会が変容する途上にあるとき、既存の概念に対してときには憤りも感じてしまいます。しかし、その既存の概念はこれまでの社会づくりでは何らかの形で「良し」と考えられていたという側面もあり、これまでの人たちによる社会作りの産物でもあります。

だから、「アップデート」という言葉をもって、社会も言葉も、より良い理想へと昇華させていくのが今生きる僕たちの役目なのかもしれません。
たとえそれが大海に落ちる一滴の雫でも、その影響はやがて大きな流れとなる、そう信じています。


【最後に】この雑多な社会で、自分の「フツー」を見つけるために

こうやって文章を書いたのも、誰かにとっての「フツー」が「普通」から少しでも解放されたらいいな、と思って書きました。

誰もが自分だけの「フツー」をもっているし、それこそが自分らしさであり、自分の強みであり弱みでもあるのだと思います。

もしかすると、「フツー」とは突き詰めると、自分自身の写し鏡なのかもしれないですね

だから、この雑多で誰かと比較してしまいたくもなる社会の中で、自分の「フツー」を見つていくということは、「自分は何者なのか」という問いを考えていくことなのかもしれません。

大好きなことに夢中になっている自分も、
今にもがき苦しんでいる自分も、
誰かと一緒にいるのが楽しい自分も、
どれもが自分であり、すべてが自分だけの「フツー」なのだ。

そうやって捉えられたら、もしかすると少しだけ生きやすい社会になり、少しだけ「普通」という言葉はアップデートされるのかもしれません。



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