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意識は高いが志は低い、あるいはホモ・サピエンス・サピエンスの憂鬱。

人でいることに疲れた。人、ヒト、ひと。人間、ホモ・サピエンス、ホモ・サピエンス・サピエンス。いっぱい呼び方がある。人でいることに疲れた私にとっては何でもいい。ただホモ・サピエンス・サピエンスという語感は気に入ったので口の中でゴロゴロと転がす。転がるサピエンス。うん、なんかちょっと元気出てきた。これならもう少しヒトの形を留めていてもいいだろう。

さて、私はヒト科ヒト属ヒトな訳だが、たまに自嘲的に意識高い科志低い属ヒトなんて言ったりもする。「#上田と市政とコーヒーと」というハッシュタグで市政に関する疑問や妄想をもにょもにょと呟き、それだけでは飽き足らず「市政についての雑談、聞いてもいいよ!」というイベントをしたり、「市政について気になることを各々楽しく調べて発表しようぜ!」と大人の自由研究なるものも始めた。素晴らしき哉、人生。

ここまで来るとかなり意識の高い人だ。そして思いついたら「とりあえずやってみるか!」と変に行動力もあるのであれこれやってしまう28歳女。性別と年齢は関係ないと自分では思っていても、他者はそうではない。「若い女性が市政について活動的だ」と他人の目には映り、要らぬ期待を寄せられる。「何かを変えてくれそう」「この街を良くしてくれそう」言語/非言語問わずそんなことを感じる。いや、非言語に関しては被害妄想かもしれない。

要するに私はそういう期待を集めてしまうヒト科ヒト属ヒトでいることに疲れた。獣になりたい。何かを良くしたいわけでも、変えたいわけでもない。行動した結果として良くなったり、変わったりしたら面白いし、良いなとは思う。でも、変わること、良くすることを目的に活動すると苦しくなる。特に政治の分野は苦しくなりやすい。「こんなに問題があるのに、何でみんな関心を向けないの!?」「みんなどうして声をあげないの!?」そうやって誰とも知れぬ「みんな」とやらに意識が向いて、だんだんと周り全てが敵に見えてきてしまう。視野が狭くなる。心が荒む。実際、私もそう考えてしまった時期が少しだけある。自分を主語にしようと意識してても、気を抜くとそうなるのだ。

だから私は獣になりたい。好奇心の塊のような獣に。市政について考えることは趣味だ。興味だ。ベッドから動けない時の慰み物だ。きっと市政について本気で考え、真面目に行動してる人たちの目に私は無礼な人間として映るだろう。そう思うとどこかで獣になりきれない自分がいる。ホモ・サピエンス・サピエンス。結果として生まれたのが意識高い科志低い属ヒトという自嘲的な言葉だ。でもある人に「意識は大事だよ。まずは意識からだもの」と言われた。うん、自嘲するのはやめよう。いいじゃない、意識高い科志低い属ヒト。

人でいることに疲れても、結局はホモ・サピエンス。ヒトの形を留めてるからこそ繋がれる人がいる。獣になるのは諦めて飼い慣らす方向にしよう。視野狭窄、あるいは期待という名の荒波に飲み込まれないための相棒として好奇心という名の獣をそばに置く。私はヒト科ヒト属ヒト、あるいは意識高い科志低い属ヒト。口の中でホモ・サピエンス・サピエンスを転がしながら、今日も今日とて市政についての妄想をする。

ホモ・サピエンスは「知恵のある人」という意味(らしい)

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