「志」

先日、久しぶりに丸谷才一のエッセイ集を読んだ。奥付けを見ると1997年2月の発行だから、ずいぶん古い(おまけに、本体価格1200円とあるから、今の文庫本並みです。ま、ハードカバーなのに新書と同じかそれ以上に早く読めるのだけれど)。

なぜそんなに昔の本を引っ張りだしてきたのか。彼の随筆集だったら何でも良かったのだけれどね。

もう気づいている人がいるかもしれないけれど、ぼくの文は「である」調と「ですます」調が混在しています。一般に、この二つを混ぜるのは絶対に避けなければならないとされているけれど*、なぜそうしないのか。それは、まさに丸谷才一に教えられたこと。彼は、それが「退屈だ」、「面白くない」というふうに言うのだね。そう思うでしょう(もちろん、何でもそうすればいいというわけではありません、念のため)。

それが、このところ、その混じり具合のバランス、すなわち「ですます」調が勝ちすぎではないかと気になって、もう一度さて本家はどうだったか、お手本を参照しようとしたというわけ。で、読んでみると、「である」調が基本となっていて、それにちょっとだけ「ですます」調が混じるといった案配でした。そして、読み始めるとやっぱり面白くて止まらない。

その中に、「彼の志」という一文があって、辻調理師専門学校の創立者である辻静雄の伝記小説**について触れたものなのだけれど、タイトルの通りここに「志」と「使命感」という言葉が出てくるのです。 すなわち、ここからさきが微妙な問題と前置きしながら、日本の戦後も辻静雄も明確な見通しは持っていなかったのに、「志」は強固にあった。辻の場合のそれは「使命感」の故だったというのだ。 つい昨日も書いたとおり、ぼくのありようとはずいぶん異なる(やっぱり、がっくりと首を落とさざるを得ない)。

そして「インクの色」という貢では、「先生といふのは本来スターなのだから」とあった(またまた、がっくり)。

というのは、漱石は万年筆のインクのブルーブラックやブラックが嫌いで、自ら調合してセピア色を作って使っていた*。そして、彼の門人たちはこれを真似た。そして、慶応や國學院で教えた折口信夫の場合には、彼が被っていた鳥打ち帽を皆が被ったらしい。これを非難する同門の学者を紹介したあとで、彼はこう言います。「個性の強い人物に、地方出身の純真な青年が接した場合、あらゆる点で圧倒的な影響を受けるのは当然」で、「むしろ、微笑をもつて眺めるのが正しいやうな気がする」と書いている。

ね、先日書いた「形から入る」というのも、まんざらでたらめじゃないのだ。

とはいうものの、自身が真似される側というのではないばかりでなく、いい年になっても依然として真似する側のままのようであるというのが、残念。 でも、「隗より始めよ」とも言うし(ちょっと違うか)、 ま、ささやかな「志」を持ちつつ、 あんまり気にしないようにしましょう(と書くのと、丸谷のように旧仮名遣いで「しませう」、と書くのでは受け取り方が微妙に異なるような気がするね)。

*   とくに、国語の先生たちがその傾向が強い気がするのだけれど。    ** 『美味礼賛』、海老沢泰久、1992、文藝春秋、。ぼくも読みました。
*** ぼくも似たような思いがあるのですが、さいわい気に入った色があって、モンブランのロイヤルブルーを使います。

(F)

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