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世界中のだれも、時計の針は左には回せはしないし、右に回るタイミングの規則性も乱せはしない


 6月に入り早いものだなあと感じる。
先日までマフラーを巻いていたのに、半袖にカーディガンを羽織り外出する。まるで季節に、時間に、世間に置いていかれているような錯覚に陥る。特に今は人生の節目に居るため、余計そう感じるのだろう。

 確かに時間はできた。眠る時間も増え、自分の時間が増え、自由に行動できる時間が増え、好きなことが出来る時間が増え、時間のゆとりができた。けれども、イコール人生が充実したものになるとは言えぬことを知った。

 時間は、確かにある。この地球上に存在する、ありとあらゆるものへ平等に、時間はある。問題はその時間をいかに使うか。目が回るほど忙しかったときはとにかく時間が欲しかった。けれど実際これほどの時間を手にした今、何をすれば良いのか、正直わからず戸惑っている。必要最低限な日常生活に関する時間を除いた、時間を、どう扱えば良いのか手を焼いている。

 生物なので死ぬまでの時間は決まっており、その限られた時間内で自我を持ち生きねばならない。ああしろ、こうしろ、あれやっておいて、そう言われたり自分から手間を省くため先に事を進めておく、やるべき事をやっておく。そういった仕事中心の時間が浸み付いた、頭。

 どうすればこの呪いのような時間感覚から開放されるのか、方法がわからない。だって学校で教えてくれなかったじゃないか。医師も医学的に具体的解決策は無いと言う始末。

 まったくどうすれば良いのか。ぼーっと過ごすのが好きではない、自分が惨めになるから。一方的に与えられる情報を摂取することも好きではない、つまらないから。

 じゃあ何がしたい?どうしたい?どうすれば満足するのか? それがわかれば、とっくに今この苦悩している時間を有効活用している。時間は止まらない。心臓の鼓動もまだ止まらない。霞がかかり正常に稼動しない思考回路もまだ止まらない。いっそ止まってしまえば良いのに、とさえ思う。

 日々、時間を、人生を、そういった金銭では売買できぬ貴重なものを消費して生きているという実感が欲しい。気がついたらお婆さんになり思考回路が錆びついていたなんて、冗談でも寒気がする。けれどこのまま生きて行けば、その冗談が現実になるのだろう。時間を感じられないことがたまらなく怖い。


 また書こうとしたタイトルから反れてしまったので、新しいタイトルを考え直さねば。

 ああ、こうして今日も眠り、明日も目を覚まし、何をするでもなく時間が過ぎて行くことがたまらなく、恐ろしい。


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