Track 04.『社会復帰』/虫田痼痾



今日も体が動かない。
理由。そんなものは知らない。何につけてもやる気が起きない。上体を起こし、褥から背中を引き剥がすのさえ一苦労だ。腹の調子も良くない。内臓にも怠惰が充満しているのだろうか。息が苦しい気がする。肺が膨らまない。深く吸い込んだはずの空気さえ、気道の途中で外へとそそくさと引き返していく。脳ももちろんのことだ。正気ではないのだろう。脳は人間の中枢だ。その脳が体を指揮することを放棄している。いつからだ。もう忘れた。というよりは、グラデーションを描いて徐々に徐々に私は堕ちていった。そしていまや底の底だ。もちろん底なんてものがあったらの話だが。まだ堕ちる。まだまだ堕ちる。限りなく堕ちていく。決して誇り高き堕落、清貧なる斜陽などではない。泥濘に沈む感覚。肥えと変わらぬ汚泥が口にまで入り込んでくる。
死ぬならば何かを残して死にたい、かつて私はそう思っていた。下賎だろうが、非道徳的だろうが、社会に自分を瘢として刻んでやりたかった。しかしいまの私に残せるものなど、溶けた骸が染み込んだ布団くらいのものだ。麻薬に溺れることも、意味の無い人殺しも、引き起こす気力がない。日本が銃社会なら無関係な誰かを殺せたかもしれない。日本の警察と社会がもっと腐っていたらヤク中になれたかもしれない。それで溜飲を下げられた。死神への土産くらいにはなった。しかし、もしももしもを考えても仕方がない。ここにあるのは善人にも悪人にもなれない無味透明で、それでいて腐臭だけは撒き散らす半生と命。ただそれだけのことだ。銃弾に倒れた兵士ならば勇ましい。悪徳を尽くして他人を陥れる詐欺師ならば賢しい。本当に惨めなのはそのどちらにもなり得ない、かといって社会に溶け込むことも出来ない、この存在だ。望まれていない、誰にも。この先に何がある。あるのは墨のような闇と掴みきれない幻の光だけ。目を閉じても僅かに走る電流の様にチラつく光。何より残酷な希望。両目を潰して、いっそ本当の漆黒の中に潜り込んでしまえればどんなに楽だろう。しかしそうしたところできっと同じことだ。もしその望みを叶えるのならば前頭葉を切り離すしかない。もしくは脳を含む人間としての全ての機能を完全に停止させること。ボタンひとつでそれができるならどんなに楽だろうか。私の枕元にはスリップノットに結われたロープが転がっている。これは昔、私が自殺を考えたときの名残だ。まだ死への渇望があった頃の名残。しかし結局は成されなかった。ここまで用意して、首を吊るに最適な場所が見当たらなかった。そして私は萎えてしまった。死ぬために頭を使うなんて馬鹿らしい、と。だが、それは潜在的で本能的な逃げだったのかもしれない。知っている。別に高所に吊るさなくたって縄をドアノブに引っ掛けて体重を掛ければジワジワと死ねることくらい。だが知識で分かっていてもイメージができなかった。臆病な自分が意識がなくなるまで大人しく首に縄を食い込ませる光景が。
死ぬことを考え続けて10数年。そして得たのは机上の空論とも言えるような自殺のバリエーションのみ。結局、人なんて簡単に死ねる。だがそれは物理的なことだ。問題はそこに臨むための道筋だ。心だ。勇気だ。自殺不適合者の自分がそれを完遂するためには絶望が足りないのである。ぬるいぬるい絶望。私を堕落せしめているのはそんなものに過ぎない。借金があるわけじゃない。国に見捨てられたわけじゃない。とりあえず明日を生き抜く糧がないわけじゃない。そこにあるのは漠然とした不安。眉に手を翳し眺めてもハッキリと見えない向こう側。そんな行く末に対する怯え程度のものなのである。荒野の先には何がある。あの地平を越えれば町が見えるかもしれない。あと少し歩けば助けや幸せが手に入るかもしれない。そんな希望を捨てて、荒地に横たわり、禿鷹に啄まれるまま眠ることができたらどんなに楽だろうか。もう1歩を踏み出すことに疲れた。それでも私は乾いた土の上に這いつくばりながらも、先を目指してしまう。周囲を見回し、希望を探してしまう。諦念を気取りながら、希望にしがみつくことを止められない。
布団には汚れが溜まっている。埃、落屑、そしてきっとダニの死骸。部屋は大きな棺桶で、掛け布団は骸布。私は人生の行旅死亡人。今の自分が本当に生きているのか疑わしい。自分が誰なのか、最近分からなくなる。流れていく日々に取り残され、無為を纏い、一日に10数時間もの睡眠を貪る。それでも体は重々しく、心は締め付けられ、それを忘れるために睡眠薬を齧り、また眠りを求める。死ねばずっと寝ていられるのに。効率的な代案は感情論に押し返され、惰性の毎日を浪費する。黴臭い枕に顔を押し付け、頭上を過ぎていく時間を耐える。春だというのに手足の先が寒い。動かぬ体は遂に血を巡らすことさえ怠り始めたようだ。冷たい指先を庇うように寝姿勢を変える。寝返りを打つ。箪笥に仕舞うことなく山を成している服や下着に体がぶつかる。私は少しばかり腰を引き、布団の淵から距離を開けた。どこかの骨が軋むような声を上げる。内臓のどこかが、文句をこぼすように奇妙な音を鳴らす。口からは呻き声が零れる。僅かな動きで体のあちこちに反応が起こる。そしてその反応のひとつひとつがさらなる体の倦怠感を演出する。姿勢を変えたために布団から出た肩が寒さで震える。私は極力動きを抑えながら薄っぺらい掛け布団の位置をズラした。だが今度は体の形がしっくりこない。私は羽をもがれた蛾のようにのたうちながら姿勢を整えようと努力する。その動きでまた呼吸が苦しくなる。大袈裟に息を整え、上下する肩の動きを感じる。すると今度は全身が熱を帯びたように火照り出す。私はせっかく掛けた布団を跳ね除けた。
時計を見上げる。しかし私の視力では長針と短針の区別がつかない。5時半か6時半あたりだろうか。締め切ったカーテンの向こうの日当たりから推測すると、まだ5時半といったところだろう。
布団から剥き出しになった全身にまた寒さを感じ始める。再び布団を被る。分からない。私の体の中では何が起こってるのか。自身の体を快適に保つ機能さえ失われているのだろう。すぐに体が熱くなる。だがその暑さの奥に寒気が潜んでいる。そんな気がする。
夕闇が窓の向こうで濃さを増しているような気がする。蛍光灯を点けてみる。白過ぎる人工的な光が薄闇に慣れた目に突き刺さる。それと同時にまた今日一日を無為に過ごした罪悪感と焦燥感が心の奥から湧き上がってくる。苦しい。つらい。切ない。怖い。それまで押し殺されていた負の感情が突如として津波のように襲い掛かってくる。人々は先に進む。私は取り残される。そんな焦りが毎日のように、日没が近づくにつれてムラムラと嘔吐のように込み上がってくるのである。居てもたっても居られなくなって、私は体を起こす。そして何の目的もなく部屋を歩き回る。でも、もう遅いのだ。今から遅れを取り戻そうとしても。もうできることなど何も無い。それでも心は焦りを強めていく。苦しい。助けて欲しい。分かってくれ。いくら焦ろうともうダメなんだ。今日は暮れる一方で、今から何かを取り戻すことなんかできない。お前がすべきことは明日に備えることだ。明日だ。明日動くんだ。それがいまお前が唯一できる巻き返しの手段じゃないか。どうして分かってくれないんだ。今日の昼間過ごしたように、これからの時間を過ごせば良いだけだ。怠惰でいい。明日に向けて生活をチューニングすればいいんだ。しかし何度言い聞かせても回り出した焦燥が止まることはない。放棄した今日を取り戻さないと。
馬鹿らしい!
馬鹿らしい!!
馬鹿らしい!!!
そんなに何かをしたいなら、今すぐ枕元のロープを取れ!
早くこのストーリーにエンディングを付けろ!
自分を苦しさも焦りも感じない存在に変えてしまえ!
ここで終わりだ。
終わらすんだ!
終わらすんだ!!
終わらすんだ!!!


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