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名前もない夜


体温計のブザー音が乾燥したワンルームの部屋に響く。

「何度だった?」
「37度3分」

掠れた声で彼は言うと、貸していた体温計を私に手渡し、深く息をついた。


東京に住む恋人が仙台の私の元に会いに来て、2日目の夕方のことだった。
その日のお昼、近所でスープカレーを食べながら「風邪かもしれない」とつぶやいた彼の体調は、家に帰るといよいよ本格的に風邪の様相を見せ始めた。
平熱が35度台の彼にとってはこの体温でも辛い状態なのだろう、顔が赤く火照り、目も充血して潤んでいる。
前日から続いている雨で身体が冷えてしまっていたんだろうか。
東京と仙台は片道2時間以内で行ける距離にあるのに、遠く離れた場所に来たと身体が自覚するほど気温差がある。
おまけに、今週は寒波が来ていた。

「何か買うものある?ポカリとか、熱さまシートとか」
「あったら助かるかも」
「分かった。ちょっとしたら行ってくるね」

その日の夜は寄せ鍋をする予定で、食材たちが冷蔵庫の中で待っていた。
ご飯はどのくらい食べられそうかな。
布団に横たわる彼からは窺い知れなかったが、帰ってきたらすぐに煮込めるよう野菜や魚を切っておき、もう一度冷蔵庫にしまう。

加湿器を彼の元へ近づけ、手持ちで一番厚手のダッフルコートを再び着込んだ。

「それじゃ行ってくるね」

小声で彼に話しかけると、恋人は目を開け申し訳なさそうに私を布団の中から見送ってくれた。


天気予報通り、18時過ぎには雨はすっかり上がっていた。
1月終わりのひんやりとした空気が頬に触れる。
雨が上がったからか、日中よりも温かく感じた。
それでも少し歩くと耳が痛くなるような冷たさだった。

寒さを誤魔化すためにイヤホンを耳に挿し、Spotifyを開く。
流れてきたのは、Official髭男dismの「I LOVE...」だった。


あの時ーーー
有楽町マリオン前で私たちは出会った後、季節が変わる頻度で待ち合わせをして、会ってご飯を食べて、話をした。時には仙台まで会いに来てくれた。
会うのがこれで何回目か数えられなくなる頃には、私たちは互いに相手がかけがえのない存在であることを感じていた。

彼とはどこへ行っても楽しかった。
美術館や水族館、見るもの触れるもの、一人でいる時には発見できなかったことがたくさん目に飛び込んできた。
同じものに関心を持ち、同じものを同じように綺麗だと思う、そのことが嬉しかった。
彼と一緒に食べたご飯はどれもとても美味しかった。もちろんお酒も。最初でこそ緊張してあまり食べられず、お酒の酔いが早く回り困らせたこともあったが。
彼と時間を共有すると、不思議なほどあっという間に過ぎてしまう。もう一度1日をやり直したいと思うほどに。
彼の横にはずっと笑っている自分がいて、私たち2人を包む世界がほんのり優しいのを感じていた。
空気が何だかやわらかい。
その世界の居心地の良さにずっと浸っていたいと思うようになった。

私たちはゆっくりと恋人になっていった。
そして、これから家族になっていく。

ラブソングに自分を重ねるなんて自惚れすぎているだろうか、それでも重ねたくなってしまうのがきっと髭男の魅力だ。
歌の中では、私たちみんなが主人公なのだと、そう思わせる引力がある。

病める時も健やかなる時もーーー
常套句がふと頭に浮かぶ。
彼と過ごす日々はまだ私にとっては特別な時間だった。恋人の看病をするなんて、特別中の特別だ。
こういう日々をこれから何度迎えるのだろう。何度こういった名前の付けられない夜を過ごすのだろう。
日々が重なるうちにいつのまにか当たり前になっていく。
その前に今日のことはずっと覚えていたい、そんなことを思いながら寒空の下を足早に歩いた。


買い出しを済ませて家へ帰り、寝入っていた彼に「ただいま」と声をかけ袋から熱さまシートを取り出す。
「おかえり」と身体を起こした彼はまだ具合悪そうにしていたが、その顔を見てなぜだかホッとした。

夜は予定通り寄せ鍋にした。


夕食後には頓服が効いたのか、恋人の顔色はだいぶ良くなっていた。
食器を片付け、だんらんの時間。テレビを見ながらたわいもない話をする。

彼は「いてくれて助かった、本当にありがとう」と何度もお礼を伝えてくれた。お互い様だよ、と私は思う。

隣で添い寝をする私の頬を撫で「きみの顔が好き」と彼が言った。
間近で顔を見られることに自信のない私は「出会った頃よりだいぶ老けちゃったよ」と返す。

23,24で出会った私たちはいくつもの季節を越え、今はもう30を目前に控えている。
こうして過ごす一分一秒の間にも、私たちは共に歳をとっていく。
いいよ、隣でずっと見せてよ、と彼は私に優しく微笑んだ。

これからもこんな名前もない夜がずっと続くといいなと思っていた。


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