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母の戦争体験(6) 富山大空襲

昭和20年8月1日 静まりかえった真夜中に突然鳴り出したその音のうなりの強さのものすごさ。
高き音は、鳴り続け、その空襲警報の音に飛び起きました。初めて聞かされたその音の怖さは、今も耳元に残っています。

以前から富山に不二越工場があるから危ないとの噂は流れてました。
それで、寝るときは服のまま、靴は机の上に置いて寝ることとしていたので、その凄まじい音の怖さの中を、姉と家を飛び出し逃げました。

外は真っ暗、月のかすかな明かりを頼りに逃げました。

幾百機かわからない敵機の音は、これが飛行隊の音かと思うほど、
低く唸る音、空いっぱいにゴーゴーとすごい音を立てて近づいてくる。

その音の速さは、音をだんだん高くして、ただただ怖くて逃げるだけ。

いつどうなるのか、ただ夢中でした。どこからともなく、
逃げてくる人、人、人で、田舎の1本道は人でうずまるし、皆疲れ果て、
足を引きずって歩くのが精一杯のようでした。

私はあぜ道から逃げようと、道際のあぜ道を歩いていると、
突然私の全身にライトの光が当たり、私の体だけが真昼のように明るくなり、瞬間殺されると直感。体を丸め、石のように硬く、緊張しました。

その明るさがぱっと消え真っ暗になったとき、ほっとし、放心状態で地べたに座り込みました。
「助かった」と声に出して言ったような気がします。立ち上がる力も抜けてしばらく座っていました。
助かったときの心からの喜びは本心そのものでした。

それから姉と2人で、人の集まってるところまでたどり着きました。
足は疲れ切ってくたくたでした。
そこは大農家で、広い庭に皆疲れ果てた様子で横になって寝ている人、
大きな石を背に足を投げ出してる人、
様々な格好で体の疲れを投げ出していました。

農家の人がおむすびとお茶を出してくださいまして、一息入れようやく疲れも少し取れてきました。が、体を動かす、歩く力はなかったです。

ようやく太陽が顔を出しました。
富山市の遠い町の燃える炎が、遠くからも見えていました。
姉が家に帰ってみようというので、逃げた道をトボトボと帰ってきました。
足は棒のようになり、引きずりながら、足のなんと重く感じ、よくもあんなに遠くまで逃げられたものだと感じながら、家の焼け跡に着きましたら、
母と兄嫁がどこに逃げていたのか、ひょっこり一緒になって
灰になってしまった家のあとに、4人でただ呆然と立つだけでした。
父はその時仕事で家にいなかったのです。

本箱がそこにあったのが、灰色になってしまった本が、重なっていて、
手で触ると崩れ、灰となってしまいそう。
一番上は表紙だったのであろうが、灰色ページの形になり、朝のやわらかい風にかすかに揺れていたのが記憶の中に残っています。

4人で話し合い、一応兄嫁の実家に行くことになりましたのが、魚津から三つほど遠い三日市町です。
そこへ行くには、駅まで歩かなければなりません。

町中焼け野原になってしまった市内を、なんとも表現しがたい臭いの中を歩いていかなければならない、駅はとても遠く感じ、足を引きずりながらようやく駅にたどり着きました。

鉄道は攻撃に合わなかったようで、三日市まで1時間、汽車の中は疲れきった顔、顔、顔。
超満員で動きが取れない。
ようやく地べたに乗り込んで、1時間以上かけ、三日市まで行きました。

母の戦争体験(7) 疎開

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