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母の戦争体験(7) 疎開

三日市駅を降りますと、長い、巾の広い大きな1本道があり、両側には何一つない草だけで、街に通じるだけの道だったのでしょう。
人口の少ない町らしく、小さい子供の声もなき声も聞こえない、こじんまりとした静かな街でした。

私達が8月1日に疎開してきてからも、毎日どこかの県で空襲があり、日本中が焼かれたようでした。
空からは、アメリカ機が「日本は負けました。降参しなさい」とのビラが空から撒かれました。

東京の大空襲は想像以上にひどく、荒川は人の死体で埋め尽くされたといわれています。

そして8月6日、広島にたった一発の原爆で、大議性に見舞われたにもかかわらず、降伏しなかったのはなぜだったのでしょう。
そして9日、長崎に原爆を落とされ、ようやく戦争は終わりましたが、国民はあまり喜びませんでした。
やっと終わったといった気持ちで、三日市も静かそのものでした。

それから1ヶ月経ちましたでしょうか?姉は師範を出ていましたので、すぐに小学校に採用され、兄嫁は役場へ勤めることができました。

私はまだ10代で卒業できたのは小学校だけ女学校は1年間しか勉強できず、どうすることもできずの毎日で、ゴロゴロし、1日がとても長く感じられ、体の置き場所が見当たらなかったのです。農家へ母と野菜を買いに出かけたりしていました。

2階に暮らす疎開者の立場上、ラジオも自由に入れることもできずの日々でした。
半年も過ぎたころでしょうか?母がやや大きな声で私を呼び、
広げた新聞を指しながら、「ここを読んでごらん」といったところには新聞の中央にやや大きな文字で、
アメリカ司令部発表、この度、病院、小学校50人以上の従業員がいるところには栄養士を置かなければならないことが決まった。それには栄養士養成学校を県に一か所づつ作ることとす。

読んではみたが、何のことなのか全くわからなかった。黙っている私に、母が「行ってみる気は・・」と尋ねたが、新聞の内容がわからないので黙っていたら、
母が「あんたのこれからをどうしたらいいのか、お母さんは心配で夜も眠れなかった。何を教えるところかさっぱりわからないが、学校らしいから、あなたのために必ず役に立ち良いと思うので、お母さんとしては行ってほしいと願っているのよ。どう思う」

私は家でゴロゴロしている生活に飽き飽きしていたので、仕方なく行くことに決めました。母はよかったよかったと心から喜んでくれました。

次の日の朝刊に学校は、富山市のどこどこに建てる、希望者は書類を送るからとのことで手続きを取り、その学校行くことになりました。
三日市から1時間、朝早く起き、長い駅までの道を歩くのに、早く歩いても30分はかかる。それに慣れ、2年間だったか通って仮免許をいただき、そのまま勤めた友も数人おられましたが、私は次の年、東京で国家試験を受けに行きました。あのときは全国から集まるので、これに落ちたら大変と寝るのを惜しんで勉強し、合格通知を手にしたときは肩の荷が下り、安堵しました。

なんといっても一番喜んでくれたのは母です。
空襲に遭ったときから、10代で小学校だけ卒業しましたが、女学校はわずか1年。勉強らしい勉強をさせてもらえず、社会にも出られない私を助けてくれた母の祈りの気持ちで、今はただ感謝するのみです。
そして私は富山日本赤十字病院の最初の栄養士として採用され、7年間務めました。

長い間お世話になりました富山の皆様方、心から感謝し申し上げます。ありがとうございました。

母の戦争体験 最後に

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