『本の読める場所を求めて』を全文公開します(1) 目次・はじめに
本を、読む。こんなシンプルなことが、どうして放っておかれているのか。
「書を携えて、街に出る。人が人といてひとりになるためには
こんなすったもんだが必要なんですね」
――片桐はいり(俳優)
本はあっても、読む場所がない!
家でもカフェでも図書館でも……ゆっくり読めない。街をさまよう。
だから、「今日はがっつり本を読んじゃうぞ~」と思う人たちが
心ゆくまで「本の読める」店、「fuzkue(フヅクエ)」をつくった。
本と、光さえあればできるはずのものが、どうしてこんなに難しいんだろう?
心置きなく、気兼ねなく本を読むためには、なにが必要なんだろう?
なぜか語られてこなかった「読む」「場所」をめぐって、
ストラグルし、考えぬいた先に見えてきたものとは?
大部の『読書の日記』に綴る読書の喜びで人を驚かせた著者が、
ユーモアを織り交ぜた文体で小説のように書き記す。
「読書」を突き抜けて、「場づくり」「孤独」「文化」「公共」まで眼差す。
――きれいごとをちゃんと欲望しよう。
「もし映画館がなくて、小さな画面としょぼい音響でしか映画を観ることができなかったら。もしスキー場がなくて、野山を一歩一歩自分で登ってでしか滑ることができなかったら。もしスケートパークがなくて、注意されたり迷惑顔をされたりするリスクを常に抱えながらしか遊ぶことができなかったら。心置きなく没頭できる場所を抜きに、それぞれの文化の裾野は、今のような広さにはなっていないはずだ。
〔…〕だから読書にも、そういう場所があったほうがいい」(本文より)
目次
はじめに
第1部 「本の読めない街」をさまよう
第1章 まずはおうちで
第2章 いったいなんなのか、ブックカフェ
第3章 街に出て本を読む
第4章 長居するおひとりさまとしての本を読む客
第5章 読書という不気味な行為
「フヅクエの案内書き」
第2部 「本の読める店」をつくる
第6章 店を定義する
第7章 穏やかな静けさと秩序を守る
第8章 おひとりさまが主役になる
第9章 誰も損をしない仕組みをつくる
第3部 「読書の居場所」を増やす
第10章 見たい世界をきちんと夢見る
おわりに
著者紹介
阿久津 隆(あくつ・たかし)
1985年、栃木県生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業後、金融機関に入社。3年間営業として働いた後、2011年に岡山にてカフェを立ち上げ、3年間店主として一生懸命働く。2014年10月、東京・初台に「fuzkue(フヅクエ)」をオープン。2020年4月には2号店を下北沢にオープン。著書に『読書の日記』『読書の日記 本づくり/スープとパン/重力の虹』(ともにNUMABOOKS)。
①はじめに
本を読んでいる人の姿は美しい。
両手のひらを天に向け、背を丸め、こうべを垂れる。それはほとんど祈りの姿勢のようだ。
じっと身じろぎもせず、目だけが絶えず動いている。目と、それから頭の中。
彼らは本を読んでいる。
一心不乱に文字を追っている。いや、そう見えるだけで一心不乱でもないのかもしれない。心は千々に乱れ、思考はあちらに行ってこちらに行って散り散りになりながら、しがみつくようにして読んでいるのかもしれない。いずれにしても一歩一歩、彼らは本の世界の中を進んでいく。
頼りになるのは自分しかいない。とにもかくにも自分で歩を進めなければどこにも向かえない。疲れたといって目を閉じて、十秒の時間を置く。そして目を開ける。その十秒で、しかし残酷なことに物語は進んでいない。景色は以前と何も変わらない。再び腰を上げて、印刷された文字の上をぺたぺたと踏みしめていくほか前に進むはない。
旅をともにしてくれる仲間はいない。一緒に行こうぜと励ましてくれる友人も横にはいないし、「いいね!」と後押ししてくれるフォロワーもそこにはいない。
たった今自分が味わっている喜びあるいは怒りあるいは悲しみ等々を誰かと共有しようとシェアボタンを探してもあいにくそれは見つからない。
それに、見ず知らずの赤の他人がつくりあげたその世界に同調できるとはまるで限らない。そこで示される考え方や言葉や行為は自分の価値観とはまったく相容れないかもしれない。途中でやめてしまおうか。あるいはもう少し付き合おうか。すべての判断が委ねられている。自分と本しかそこには存在しない。
ときに退屈に陥って這いつくばりながら、ときに並ぶ文字がまったく意味をなさなくなっていたずらにすいすいと滑りながら、ときに傷つき、へとへとに疲弊しながら、ときに大いなる喜びの中で踊るようにステップを踏みながら、いずれにしてもたったひとりで進んでいく。
ほんのちょっとだけでもこれまで知らなかった世界のありようを覗けないかという好奇心、もうちょっとだけでも自分のこの生をよりよいものにできないだろうかという望み、あとちょっとだけでも遠くまで飛ぶことができないだろうかという願い、そんなものだけを頼りにして進んでいく。
ひとり静かに本を読んでいる。そんな人たちを僕は美しく思う。
ちょっと言いすぎた。ちょっと格好をつけすぎた。
僕は、ただ、読書が楽しい、読書が好き、読書が趣味、それだけだ。食べるのと同じように、しないでは気が済まない、満たされない。気づきや学びや成長とかのことはよく知らない。楽しければいい。読書は楽しければ楽しいほどいい。なぜなら読書は僕にとってせねばならぬ課業ではなく、愉快に生きていくために必要な、代わりのきかない、単純に大好きな、趣味だから。大好きな趣味は、もっと楽しく、うれしく、豊かに、おこなわれたい。
そしてまた、そんな人たちのことが好きだ。親近感を覚える。読書を楽しんでいる人の姿は、とてもいい。「いいね! いいね!」と思う。そんな愛すべき人たちのそばにいられて、なおかつそれが自分の仕事になったなら、幸せだ。
ひとりの読書好きとして、自分だったらこんな場所で本を読みたいという思いから、本を読む人たちのための場所をつくった。「fuzkue」という。「フヅクエ」と読む。東京の渋谷区の初台の古いビルの2階。そこで、「本の読める店」を標榜する店を始めたのが2014年の秋。
それから毎日毎夜、人々が本を読んで過ごしていく美しい光景の中で働いている。毎日、とてもいい時間が流れている。「本の読める店」、これは、とても、とてもいいものだ。心底からそう思い続けられている。心底から「この人たち好き」と思い続けられている。いい仕事をつくったものだ。
この本は、本を気持ちよく楽しくうれしく読みたい、それを可能にしてくれる場所はどこかにないか、どうあればそれが実現できるかを考え続けた僕の思考と実践のドキュメントだ。
第1部では、街の中の「本の読める場所」たりえそうな場所について、あれこれと思考した。どこでだってできてしまうがゆえにわざわざ手を差し伸べてはもらえない、読書という遊びを取り囲む環境について主に書かれている。「読む」という行為が社会において不当に軽く見られていることを不満たらたらに指摘する。
第2部では、「本の読める店」であるフヅクエのあり方を書いた。何をもって「快適に本の読める状態」とし、それをどう実現し、どう守るのか、その実践が記されている。
思考と実践を重ねていく過程で、「本の読める店」は増えたがっていると感じるようになった。2020年4月、2店舗めのフヅクエを下北沢で始めたが、もっと多くの読書の居場所がある世界を夢想するようになった。第3部ではそれを実現していくためのアイデアが記された。
この本は、「今夜はあの本をひたすら読んじゃうぞ」という楽しみがその日の気持ちを明るくさせるような、「今週末は読書三昧だ」という予定が日々を生きていくことの希望の根拠となるような、そんな経験をしたことのある人たちに向けて書かれた。日々フヅクエで目撃するそんな人たちの存在が書かせた。