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優しさってなんぞや

聖人になりたかった。

胸を張って自分は優しいと思えることが、私のアイデンティティだった。
こういうと随分な言い分だが、本当に、自分に自信の無かった子供の頃の私が唯一自分が胸を張れることだった。

いついかなる時も、誰にでも優しい人でいたかった。
優しい人と優しくない人なら、優しい方が良いに決まっている。
時に偽善と罵られようとも、偽りでも善の方が良いに決まっている。少なくとも、偽善だなんだと言ってくる奴らよりずっと。

分かる人には分かるかも知れないけど、優しさは私にとっての盾であり武器だった。
例え嫌なことをしてきたやつにも、そんなやつにこそ優しさを振りまくことで、圧倒させてやる。こんな優しさの暴力を振るうくらいの考えもあったので、なかなかな性格をしている。いついかなる時も誰にでも、というのはそういう意味も含んでいる。

成人して、最近になってようやく、聖人を目指すことをやめた(今変換で成人と出てきて、なんか良き言い回しになりそうだったので20歳を成人に書き換えた)。

相手がやな感じの時、武器として優しさを振りまく必要は無い。
気に入らないならその感情を優先して、ちょっと態度が悪くなってもいい(ただし相手に迷惑を掛けない程度に)。
優しさは武器に使っていいものではなく、人を笑顔に出来る尊いものだ。

なんとなく、誰かに不快な感情を抱くことを駄目だと思っていた節がある。
だけど私は聖人ではなく、聖人を目指す必要なども無く、自分が思う人間的な感情を大事にしたって良いんだ。

こんなことを最近になって思い始めた。
そしてそんな自分が少し良いなと思い始めた。

「夏ちゃんは怒らないね」

これはよく言われる言葉だ。嫌味では無く、凄いねえと感心して言って貰っている。

それは私が聖人を目指していた頃の名残で、実際沸点がめちゃくちゃ高く滅多なことで怒らない穏やかさは自負するところだが、
「(相手に)怒らないけど(内心)怒ってることはあるよ」と返す。

態度に大きく出さないだけで、苛つくこともある。

そしてこの先、少しだけ態度に出すかも知れない。
少なくとも、その人の前に立ち塞がって優しさを見せつけようなどとは思わない。

大人になる過程で、今まで自分の気持ちを塗りつぶしていた子供時代を慰めるためにも、少しだけ自分の感情に正直な振る舞いをすることを許して欲しい。

#大人になったものだ

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