黑世界(黒世界)日和を観た感想。ガルシア=マルケスの同名の小説と、孤独の中にも愛が残るとわかった話。

黒世界/黑世界 日和の章の観劇録

正直な話、雨下の章を先に見て良かったというのが所感。構成的には単話完結、どちらの章を先に見ても問題ないように作られているけれど、雨下が「それでも、心を持って先に進む」話だったのに対し、日和は「自分の罪を許せるか」という優しい問いかけだったので。
そして全編を通し、もはや日和自体が「朴璐美さんがすごい」ということを知るための劇と表現しても、過言ではない気がする。

①家族ごっこ
5歳と7歳と父とリリー。永遠の時からすれば一瞬でしかない5年間だったけれど、歪な家族ごっこはきっと穏やかな時間だった。
その時間が崩れるきっかけが、リリーを追ってきたヴラド機関ではなく、父親と敵対していた血盟議会の派閥だったのが、なんだかやるせない。
リリーは刺客達を皆殺しにしてしまうのも、少しやるせなかった。リリー自身が容赦なく殺されたし、守るためには殺すのは当たり前かもしれないけれど、それでもリリーは刺客達のイニシアチブを取ったなら、彼らを殺す以外の選択肢で場を収めることもできただろうに。
そうしなかったことからも、リリーがこれまでにも沢山の刺客を葬ってきたのだろうと想像する。敵を葬ることが最善だと認識して、そのくせ冒頭でリンドウ達の幻に「クランはもうない!みんな貴女が殺したからだ!」と言われ苦しんでいるのは、なんとも心のやりようがない。殺す(自死を命じる)ことで、楽しい時間を終わらせてしまうという結末をまた取ってしまった。


②青い薔薇の教会
朴璐美さん出過ぎでは!?と思ったけれど、少年声も好物ですありがとうございます。
例えばfateのジャンヌちゃんのように、(自分を殺すほど害した人であっても)心からその人を許すことができるというのは、本当に少数の聖人にしかできない行為なんだろうと思う。だからこそ、許したいと願う心、許そうと自分を律する理性、その双方が社会においてはすでに尊いものだから、それだけで十分だ。世界は偽善で保たれている。
この章では、「決して許せない心」と、「罰せられたいと願う心」の双方の苦しみを、被害者と加害者という2人で表現したようにも思える。また、自分を許せず罰しようとする(村人の前で告白する)展開から、加害者の立場からリリーが抱える罪の意識を炙り出していたようにも思う。
結論として、不可能を可能にする青い薔薇を咲かせた少年は村を去る。「村に残って殺される」結末を選ばなかったのだから、彼は幾分か自分を許し、自分の罪を向き合うことができたのかもしれない。逃げずに生きて、そして理性をもって向き合う方がつらいだろうけれど。
「リリーは自分を許せるのか」という問題は、ここに種を撒かれた。


③静かな村の賑やかなふたり
ごめんなさいだけど、この話だけはつまらないの極みだった。オチもなければ「繭期の吸血種」または「人間」の話もなく、ただ軽快な会話で騒ぎ立てて終わったかんじ。
雨下の方のコメディパートはブラックコメディで面白かったのに、と思うと肩透かし感も大きい。
伝承というテーマを取り上げたわりには、締めとなる結論や示唆がないのは、ちょっといただけないかなと思う。


④血と記憶
まず、冒頭からのハンターさんの軽快なミュージックがだいぶ楽しかったですね。良いアクセントだったと思います。
それはそうとして、若くしてヴラド機関に入って、重要な案件を指揮する立場になるって、ラッカもノクもすごくない!?
ラッカに「お家へ帰ってみんなで暮らそう」と提案されても、それを受け入れることができないリリー。受け入れたらきっと幸せになれるだろうに、だからこそ自分が幸せになってはいけないという罪の意識、罰の意識がそうさせるのだろうな。
一番びっくりしたのは、血から体の再生が可能という点。がれきに押しつぶされて身体がなくなっても、血が地下水脈に混ざってしまっても、そこから肉体が作られるのは、グロテスクだけれどなるほどなと思う。ノクの意識がリリーに混ざったことからして、血に魂が宿るのか。そういえばこの人たちは吸血鬼だった。


⑤二本の鎖
イニシアチブという鎖、愛という鎖で相手をつなぎとめたのは、一体どちらが先か。鶏か卵か論にも近いものを感じる。
「イニシアチブのせいで愛しているのか?」という疑いではなく、「それで良いからこのまま2人の世界を続けよう」という姿勢に狂気めいたものがあるようにも思える。明言はされていないけれど、この2人が「もうすぐ繭期を終える」と語られていることから、もしかするとリリーがこの家を旅立った後、繭期が終わってしまえば何かが変わるのではないかと心配になる。
(少女→少年のイニシアチブをかけたのは、繭期が始まる前だったと描写されていたが、発揮されたのはクランに旅立つ前だったというのがちょっと不穏。いや、物理的に引き離されるところからイニシアチブが発動したと素直に語られていたので、問題ないとは思うんだけど)
この人も含めて若い女性役者さんのお2人、歌と演技は正直微妙だなと思う。でもその(言っちゃ悪いけど周りに比べて)素人感がある立ち回りが、リリウムを思い出して良いアクセントにもなっているのかも。


⑥百年の孤独
ガルシア=マルケスの同名の小説がある。村、いびつな家族、近親相姦、非現実的な情景描写、孤独といった要素は、そのままオマージュされているわけではないけれど、アクセントとして日和全体に組み込まれているような気がする。
小説内に登場する「一族の祖となる女性」は、ラッカとリリーのどちらに役としてあてはめられているのだろうか。まあラッカだろうな。小説では近親相姦で愛を得た代わりに一族が滅びたけど、この劇では近親相姦はしなかった(ノクと結婚しない)ので、一族が繁栄したのかな。しかしながら、孤独はあった。

そう、この章のタイトルは誰の孤独を指しているのだろうとおもったとき、まず初めに浮かぶのはラッカだ。
「ラッカと最後に会った時から、百年が過ぎていた」というリリーの独白から劇ははじまった。リリーの孤独は100年どころじゃなく続いてるだろうさし、この百年を特別に過ごしたのは、記憶をなくしたラッカの方だ。
村に戻ったラッカは、子供をたくさん産んで、家族を作り、愛し愛されていたのに、それでもリリーの記憶をなくしたために、ずっとどこか穴が空いていた。それが孤独だったのかもしれない。

しかしながら、旅をしているリリーはこの特定の百年の間ラッカから離れてしまい、孤独に歩いていたのだとも言える。
そう考えるとこのタイトルはラッカとリリー、両方のことを示してる可能性があって、どちらも捨てきれないように思う。そこは特定しないのが美学なのかなとも思う。


最後にノクの願い通り、リリーはラッカに記憶を戻すけれど、朴璐美さんの演技力が相変わらずすごい。決してしゃがれた声であるわけでもないのに、「老婆」を表すしゃべり方だというのが声の調子からわかる。本人ツイッターで「めちゃくちゃパワーがいる舞台」とつぶやいていらっしゃったけど、そりゃあそうだよね!!!の気持ちです。はい。

ラッカもノクが好きだった、家族という形を愛していたという幼いころの秘密話をした後に、「あなたを死なせてしまった、私がいなければラッカとノクは幸せになれた」とリリーが謝る展開はずるい。それに対し、ノクが「リリーも家族だ」「出会ったのが全てだ」と言うのがまたずるい。

永遠の旅をする傍観者であったリリーに投げかけられた、「あなたが座る席はここにあるよ、座って休んで良いんだよ」という優しい誘いは、結局は受け入れられることがなかったとしても、リリーにとってひとつの救いになるかもしれないと思う。

「愛を選んだ結果として、孤独の中に生命が滅びても、愛が思い出として残る」というのがマルケスの小説の結末だけれど、その通り。手が差し伸べられたという事実は決して消えないから、長い旅路の慰めになるだろう。

雨下は「決して狂わない、心(理性)を失わない。最後まで戦い続ける」という決意が最終的な結論として提示されたわけだけれど、日和は「いつか自分を少しだけ許し、優しい手を取る未来も残されている(今はまだその選択肢は取れないし、その選択肢を許せるとは限らないけど)」という優しい祈りで終わったように思う。
実際には、日和においては「拒絶と長い孤独の旅路が強調されただけ」だともとれるけれど、それでも雨下を先に見て、日和を後に見たのが(私の心の平穏的には)よかったと思うわけです。

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