【イベントレポート】メンタルヘルス講座「表現とジェンダー平等」後編
この記事は2022年11月24日に行われたメンタルヘルス講座「表現とジェンダー平等」のイベント内の対話を書き起こして一部抜粋したものです。
メンタルヘルス、ジェンダーに関する基礎知識を含むイベントレポートの前編はこちら
●誰の目線をスタンダードにしているのか
フユコ)わたしの勤めている箱であるここD A Y D R E A M吉祥寺は、同系列にリハーサルスタジオがあるためたまにスタジオのスタッフと交流する時があります。先日、みんなでお酒を飲んでいた時に、「今研修をしている女性スタッフが、重いものが持てなくて、このまま持てないのならうちの店では厳しいかな」と話していたのを耳にし、違和感を抱きました。でもスタジオではたくさんアンプや楽器を運ぶので、女性だから運ばなくてもいいとはならないよな…とも。その時小柄なベテランの男性スタッフは「男だってアンプは重いよ」と言っていて、それもそうだしなとも。でもこの、「うちの業界は仕方がない」というセリフは意外とどこでも聞くんですよね。
後になって思い出したのは、自分が美術の工房で働いているときに、先輩女性スタッフが、電鋸やジグゾーなどを使いこなしていたんです。彼女にそれは使いやすいかと尋ねた時「使えるけどとても疲れる。男性用の手のサイズだから」と言い放ったのを思い出しました。つまりは大抵の場所では、基本的に仕事道具は男性が使うことが想定されている重さや大きさなんですよね。
なので、「重いものを持てない女性を採用するかどうか、男性もそれを重いと感じている」ということは表面的な問題であり、(根本的解決には)軽いアンプを採用するなどすればいい。もちろん音の好みもあるので簡単にはいかないと思うんですけど。
森本)あらゆることが健常な成人男性を基準に作られていますよね。それは妊娠や生理がある人間の人生設計も労働環境も同じ。どんな人でも性にとらわれず自由に生きるための法や整備がまるで整えられていない。
手島)全てのことがざっくりと平均値で作られていて、ちゃんとそれぞれの個性にあわせて制度設計しないと、実は全員合わないんですよね。
例えば、あるとき、アメリカで飛行機のコックピットを作ったんです。使用者の平均値をとって製作したが、結果的に1000人の平均値で作ったものは手足の長さ違い、誰一人として合わなかった。よってコックピットは可動式となった。そうすればみんなに合うから。
それぞれに適したものがあり、それぞれというのは男女だけではなく、男性の中にも様々なので、まず見るべき事実を認識し、偏った「平均値」で物事をみるのはやめた方がいいですよね。
●中立という立場について
手島)個人的な補足ですが、僕今日の物言いとして、中立風に聞こえている方もいると思うんですよ、会の中であえて「男女」という言葉を使わないようにしているとか。でも何かの権力勾配があるときに中立になると強い方に偏ってしまう。そもそも中立はないし、不利益を被っている方に立たなければと思っているので自分は中立はあり得ないと思います。中立ではないです。「男女とか言わないでさ」とかいう話ではないですよ、現状においてはどう考えても女性の方が不利益を被ってるんだから、中立はありえないんですよね。これは一応僕のスタンスです。
●無機質な女性ボーカルが好まれる謎
―参加者さんから、「女性的な作品」ともてはやされる言い回しがある一方で、「男性的な作品」とは何を指すと思いますか?という質問を受けて
手島)ボカロカルチャーのキャラクターは女性ばかりなんですね。初期の頃は初音ミクを「調教する」という言い方をしていました。
森本/フユコ)ぎゃー!!
手島)男性ボーカルのキャラクターだったら「調教する」とは言わなかっただろうなと思います。し、今もリアルなボカロキャラクターはたくさん出てきていますが、やはり女性キャラクターが多いです。
もちろん音域が広いので楽曲制作に使いやすいというところはありますが、無機質なボーカルが好まれるという側面はあります。それはperfumeだったり、yoasobiだったり、ピッチカート5だったり…
フユコ)感情的じゃないものが好まれる?
手島)ツールになっているということはありますね。モノ化を感じるところはあります。作品の男性性とは逆で、なぜボーカロイドは女性キャラクターばかりなんだろうとは思います。高音が抜けやすいとか、そういうのはあると思いますが…それでもないだろうなこの偏りは。感覚なんですが…
森本)私はパフォーマンスを専門としているので例えば歌を歌う人でもどのようにパフォーマンスするかをよく見るのですが、どういう服装でどういう仕草をしてということと歌がつながっているので、感覚ではなく事実だと思います…
フユコ)異性への憧れという面はどうですか?
手島)いいふうに捉えれば、あれは浄瑠璃の人形だという人もいます。でも無機質な声や役割を担わされるのはいつも女性や女性キャラクターだなと思います。
●それは「表現の自由」か「消費」か
フユコ)マッチョすぎる作品は「好みによるな」と思うにとどまるのですが、男性が女性視点で歌った曲は気になっています。理想像が投影されていて、自分は女性として共感しないけど、「(女の人に)こう思っててほしいんだな、こう思ってる(女の)人がこれを書いた男性のタイプなんだな」と思います笑 ある意味では男性的だなと思います。昭和歌謡なら「待つ女」「ダメな人だけど好きだった、私待ってる」。最近のものなら「バンドマンに恋して病んでしまう私」などです…(雑に扱われることを女性側が良しとしている表現)
森本)バンドマンが自分でつくってメタ効果みたいになってるってこと!?
会場)(笑)
フユコ)みたいな…
手島)ある意味秋元康さんの作品ってそういう感じありますよね。あの人の書く少女像なんでしょうけど…
森本)「セーラー服を脱がさないで」は性加害を肯定しているともとれますよね。未成年に対して権力勾配の全然違う大人がっていうのを可愛く歌うっていう…まあこういう視点もあるっていうことですけど、(自分の中で)大事な曲に思っている方がいたらすみませんが私はこう思うっていうことで…
会場)笑
手島)いわゆる典型的に男性的な表現や女性的な表現があることは存在するしそれ自体、中にはナチュラルボーンマッチョみたいな人もいるわけじゃないですか、それはいいと思うんです。問題なのは、なんらかの性のあり方をただ消費する、ただ売り物にする、アンバランスなものを肯定するのは気になるかなと思います。
森本)こういう話をするとよく表現の自由の話になりますよね。そういうふうに女性を描くことは自由だと言われるんですけど、私がよく思うのは「差別をしていい」ということは表現の自由に含まれるのかな。誰かを消費したり、傷つける、特に社会の中で不利益だったり抑圧的な立場にいる人を消費していくことは、差別であって、自由にしていいこととは違うんじゃないかなと思います。
フユコ)女性や男性以外の性が抑圧されている構造、不利益を被っている構造を無視したまま「表現の自由」についての議論が始まることは多いと思います。「女性の方が得している」と言う人は必ずいるので…そして女性も若くて可愛い人しか女性と認めていない、常に自分がジャッジするというみたいな言動は私は許せないですね(笑)あとは、ポルノショップの中で販売されるものなのか、赤十字のポスターなのか、LGBTQをテーマにした作品なのかによっても(表現の自由度は)変わってくると思います。去年レズビアンを題材にしたネットフリックスの映画を見たのですが、とても配慮のない描き方をしているのを見て、LGBTQをキャッチーな何かにして消費しようとしているのを見て…観ました!?
参加者)途中でやめました(笑)
会場)(笑)
●アイデンティティは変化する
参加者)属性というのはあった方がいいのかない方がいいのか(議論が)グチャグチャっとなる場面があると思うのですが…
例えば、僕はスポーツ水泳を教える仕事をしているんですが、まだ性を自認していない年齢の子供に男性用の更衣室、女性用の更衣室、男子用の水着、女子用の水着とかって大人から提供するもの。ということはある程度「らしさ」を(提供)しないといけないし、それをなしってことにできない場面も多くて。男の子に女の子の水着をとも思うこともありますが、まだ世間的なものもあって、それもまた暴力的だと。
ある程度属性はあってもよくて、自分の属性じゃないからって知らなくてもいい、というのは良くないよなあと。その辺の線引きってどうなんでしょう。
また、ジェンダーやジェンダー不平等の弊害といった話を聞いていると、属性はボーダレスの方がいいのか、一方でフユコさんからは女性からの「ウェっ(反発)」っていう感じを見ているとやはり属性っていうのはあるよなあとも思います。場面によって微妙に変わっている気がするので、その辺皆さんどうお考えかなあと。
手島)難しいところをついてきますね笑 カウンセラー的な視点から話すと、原則として、ジェンダーに限らず「アイデンティティは変化する」ということ。これはみんな知っておいてほしいですね。現実、なんらかの属性は必ずついてくるのは確かにその通りなんですが、ただ、変更可能であること。そして選択肢を絞らないこと、が大事だと思います。あと、僕は勝手に「アイデンティティ神話」みたいに思っていますが、人間一生同じ生き方が美しいとされているみたいなところがあります。が、そんなことあるわけないじゃないですか。人間は変わっていくし、変わっていくことを前提とし、理解しないと。そういう教育が必要かなと思っています。
森本)私は場面によって意味が変わってくるなと思っていて、例えば、今ここまで話してきたような不平等なことがなぜ起きるのかというと、私の考えでは、社会的に恵まれた立場の人が恵まれていない立場の人に対して「あなたはこういう属性だから」と決めつけを行うことで、それは社会のみんなで共通している差別意識の再生産と同義だと思うんです。「あなたは女の子なんだから」とか。
ですが、逆、例えば社会的に困難を強いられている、恵まれた機会を得られていない人が「私はこういう属性だからこういう困難があったんだ」というときはそれはすごく違う意味になっていっていて、今まで聞こえない声とされていた人が声を上げた時なんですよね。むしろその時はその立場の人から学ばなければいけないタイミングになります。
権力に対して上からくるのと下からくるのでは大きく意味が違うと思います。
フユコ)素晴らしいと思います…回答として…
森本)ありがとう(笑)
フユコ)自分で名乗るのとそうでないのとでは違うと思います。自分は男性、女性、どちらでもないと自分で名乗るのと、人に「あなたはこうだから」と言われるのはとても違う。私は女性に生まれて不利益を被っているとはあまり思いたくなくて(笑)現実として被っているのですが(笑)自分がこうは言っていますが女性性のことは気に入っています。レースとか柔らかい肌とか長い髪とか女性的とされるものも好きです。同じように、最近知り合った男性で、彼はヒップホップをやっていて、近頃フェミニズムの本を読んだそうなのですが、読めば読むほど自分がマッチョイズムを好きだということに嫌悪感を持ってしまうとも言っていて、それはちょっと伝えたいこととは違うというか、フェミニズムの本質とも違うし、本人が好きだったらいいと思うんです。ただ、彼が例えば彼の弟に「お前ももっとマッチョになれ」と言ったらそれは違う、というような話だと思うんです。自分で名乗るのとラベリングするのは違うっていう。
●カルチャーを作っていく
―会は結びに向かう。参加者の一人である男性が「自分はバイである」と表明し、より「バイ」、または「ゲイ」ということを強調した存在でなければ、簡単にバイは社会的にいないことにされてしまうという実感を言葉にしてくれた。
森本)私がすごく思うのが、社会的属性で被る問題は性のあり方に関してばかりではないですよね。自分に対しても他者に対しても「○○な人は〇〇じゃないとダメだ」みたいな考え方に自分で気づいていくことが重要だと考えていて、例えば「男性は強くなきゃいけない」とか「女性は弱くないといけない」とか。つまり差別意識ですよね。その誰かに対して、また自分に対しての決めつけに自分で気づくこと、がジェンダー平等につながっていく。また、システムの中でも変わっていく必要があって、例えばここで言えば女性の審査員を増やすとか、勤続年数が誰かだけずっと長くなるような仕組みを変えるとか…40年近く同じ審査員を務めている人もいるので…(苦笑)いろんな条件を持つ人が入れるようにする、いろんな組織や会社で、いろんな人が昇進できるようにする、のような。
フユコ)ありがとう…とても素敵な締めを…(笑)
森本)(笑)
フユコ)今日は表現の話に絞りましたが、というかそもそも、みたいなところはあります。国会をクウォーター制にしましょう、みたいな話もあるわけじゃないですか。政治家自体を男女半々にしてほしい、ノンバイナリーやいろんな性の人を入れてほしい。そうじゃないとずっと税の配分は偏るし、ずーっと上のおじいちゃんたちが社会を作ると、やっぱり我々のような存在は無視されると思いますし。今日は表現に絞らないとまとまらなかったからそうしましたけど!笑
やっぱり表現というものが自分の価値観によって生まれて価値観によって評価されるものでもあるので、
ジェンダーによる時代遅れなくだらない自分を縛ってしまうような価値観はもちろん女性も自覚的になって解き放たれてほしいとも思うし、男性にもそうだし、トランスジェンダーノンバイナリーの人も、とにかく自己否定になるような価値観の刷り込みをどの性も取り除ければな、と思うんですよね。自分が自信を持つためのその性だったらいいと思うんですよ。アイデンティティとして。でもその性を持っているが故の考え方で自己否定をしている人が、周りに多いので、そういうのを解決する方向に少しでも向ければいいかなと思いました。では最後に締めを手島さんお願いします!
手島)この流れで最後ですか。(笑)最後にイギリスでの事例を挙げますが、音楽の支援団体がいくつかあって、そこがジェンダーのバランスを取ろうとしているんですよ。学ぶ機会をきちんと提供しようと。音楽もそうですし、こういったこともそうです。お金をかけて根本的に耕そうとしている。まだその結果がどうなるかはこれからですが、僕は割とそのスタンスが基本にある方がいいと思っていて、Cultureの語源は耕すなんですよね。上から落っことしているだけではなくて、地面から耕していくということ。今日は最初からずっと言っていますが事実をちゃんと共有しましょうということですよね。多様性ってそれ自体がいいとか悪いとかではなくて、みんな一人一人違うよねということは事実なので。やっぱり事実をちゃんと見なければ判断を間違ってしまうというシンプルなことなんですよね。なのでそのことをこういう場から耕していけるといいなと改めて思いました。
次回開催
3/14(火)表現者のための メンタルヘルス講座 vol.10
「心理学からみるメンタルヘルス セルフラブ・セルフケア」
20:00~22:00
入場¥500(予約不要)
話し手 手島将彦(音楽学校講師/産業カウンセラー/ライター/保育士)
企画・聞き手 フユコ(デイドリーム吉祥寺/ミュージシャン)
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