その先



道脇が死んだのは、夏の終わりだった。
実家から引っ張り出してきた喪服を着て、オレは黒いネクタイを絞めた。

「おい、もっといいネクタイ持ってないのか」

道脇は時々そう言って、目を細めてオレの首元を見た。そういう時は、うるせぇなとしか思わなかった。
どんなネクタイだっていいだろ、そりゃ3本セットお買い得のネクタイは安っぽいけど、そこに金をかけたいとは思えない。

道脇は、オレの直属の上司だった。
いつも渋い顔をしていて、強情だし、部下の言うことを全然聞かない。
頑固親父なせいで、取引先にだって嫌われているところもある。


ポクポクポクポクーー

木魚の軽いリズムが、なんだか嘘っぽく聞こえる。
こんなに簡単に、人が死んでしまっていいのだろうか。
残暑のせいか、首のまわりや手のひらにじっとり汗を感じる。
たぶん、ネクタイをきつく絞めすぎたのだ。

ボーッとした頭に浮かぶのは、ぬるい、ビール。
つまみは枝豆とエンガワ。すぐ隣に、鼻を赤くした道脇。
「そりゃあ、クライアントは理解しないかもしれない」
道脇はジョッキを置きながら、いつもより少し大きな声でしゃべる。もう5杯目だ。
「でもな、オレはやるんだよ。理解されなくても、自分の中で理論は持ってなきゃいかん。説明したってムダだけど、それでも、誰かの為になるって分かってることは最大限やるべきだろう」
お前には理解できんかもしれがな、と道脇は言った。
上司との飲みなんてクソほど面倒だと思っていたけれど、オレは黙って頷いた。
やるせない仕事も、納得できないことも多い。それを割り切りながらも投げやりにならず、ただ粛々と何年もこなしている男が目の前にいた。
道脇のことなんて堅物で嫌いだ。
でもオレは、この男の人生を素直に尊敬した。
オレだったらもっといい仕事を営業して取りに行く。理解ある人と仕事をして、ままならない思いなんてしなくてすむように。
でも道脇は、逃げずにやれることをやっていた。オレは子供なのかもしれない。


「たまには、上司との飲みにいくもんだな」
そんな風に思った自分に、自分が一番驚いた。
オレが見ていないものを、見せてくれる人がすぐ側にいたのだ。


夏のボーナスの残りで、ネクタイを新調した。
青く染まったシルクは、格安ネクタイの発色とは全く違う。
心なしか顔も引き締まって見えた。
ーーなんか、言われんのかな。
道脇の訃報が入ったのは、そんな折だった。


棺桶の中の男は、柔らかく口元が微笑んでいた。
酒に酔ったあの日の道脇も、こんな表情だったかもしれない。
焼香を終えて、そそくさと席へ戻り、鞄を手にして会場を後にする。17時からの商談には、もう出なければ間に合わない。


道脇のことを慕っていたわけではない。
直属の部下だけど、直属の部下だからこそ、埋まらない距離があった。
だけど、オレの方こそ、道脇のことをただの上司としてしか見ていなくて、1人の人間として考えたことがなかったんだと思う。
そのことに、あの日ふいに気づいた。


やるせなくても、やれることをやる。
オレはあの人のそんな生き方を知ったんだ。
だから、今更後悔したりしない。あの時もっと、なんて空想して時間を潰しはしない。


カバンから、青いネクタイを取り出す。
するりとした触り心地。トイレの鏡の前でキレイに結ぶ。
今日も、仕事がはじまる。


『カフェで読む物語』は、毎週土曜日更新です。
よかったらマガジンから他のお話も読んでみてね!
次週もお楽しみに🌸

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?