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罪深き愛 (#2000字のホラー)

「ねえお父さん。どうして何時も、そのナイフを持っているの?」
「ん? ああ、これか?」
 俺はポケットからマルチツールと呼ばれる、様々な道具がコンパクトに収められた、片手大の金属の塊を取り出し、息子の礼二に見せた。赤い色に白地でスイスの国旗がプリントされている、有名メーカーの代物だった。父親は十徳ナイフと呼んでいた記憶があるが、現代ではもう通じないのだろうか。
「例えばだな、礼二が遊んでる時に、膝や肘に何か棘が刺さるとするだろ? そしたらこれだ」
 俺はマルチツールに収容されているピンセットを取り出すと、礼二の目線に合うようしゃがみ、カチカチと動かして見せた。
「道具ってのは、いつ何時必要になるかわからない。だからな、父さんは礼二が困らないように、いつも持ち歩いているんだ」
「そっかー」
 礼二は笑顔で応える。俺は礼二の笑顔が大好きだった。胸の奥が締め付けられ、目頭が思わず熱くなる。商店街のど真ん中でなければ、涙を流しながら抱きしめていただろう。しかし、周囲の目を意識し、ぐっと堪えた。
 礼二の頭を撫でながら、そっと周囲を見回す。平日の昼間なので人通りは少ないが、遠巻きにこちらを見る中年女性を目視できた。彼女らは一様に眉間に皺を寄せ、口元を覆いながら何かを囁きあっている。傍らを自転車で駆け抜けた初老の男性の表情は、露骨に不快感を表していた。いまにも唾を吐きかけそうな雰囲気だった。
 この町は腐っている──。
 俺が、俺が礼二を、妻の心美をこの町の連中から守らなければならない。握りしめたままのマルチツールをポケットに戻し、その存在を確かめるように形状を指でなぞった。
 
 島霧のオジサンは、私が幼い時から近所では有名でした。両親も細かい事は教えてくれませんでしたが、噂は風に乗ってやってきます。
 曰く──、子供と妻を事故で亡くして、壊れた。
 曰く──、いや、実は自ら殺した。そして狂った。
 曰く──、そもそも彼は天涯孤独で、子供も妻も存在しない。
 私はオジサンの、悲壮な姿にある種の慈愛に近い感情を持っていました。只、両親を初め、友達や学校の先生など、周囲の人達はそんなオジサンを哀れに思いながらも、彼の異様な動向に恐怖し、疎ましく感じていたのは、子供ながらに知っていました。
 オジサンは、何時も独りでした。年齢は私の父と同年代だと聞いてましたので、私が小学校低学年の頃で三十五歳前後だったのでしょう。 しかし、常に前傾に折れ曲がった腰と、ごま塩状に広がる白髪に、五十代にも六十代にも見えました。そして──、彼の視線の先にはいつも、彼だけに見えるお子さんがいました。
 オジサンは何処へ行く時も、お子さんと一緒でした。席は必ず二席。時々、三席使うこともあったそうです。虚空に向かって喋り続けるオジサンの周囲は、常に異様な雰囲気が漂っていました。
 高校、大学と順調に終え、私は東京の企業に就職しました。気がつけば地元を離れて十年が過ぎていました。私は二十八歳になっていました。就職してからは、実家に帰る暇を惜しんで、我武者羅に働きました。三十歳を目前にして、私は初めて長期の休暇を帰郷に当てました。
 結婚の報告も兼ねての、彼と共に迎える長期休暇でした。
 地元は何も変わっていませんでした。
──島霧のオジサンも、何も変わってませんでした。
 オジサンは相変わらず前傾姿勢で、見えないお子さんと一緒でした。
 その日、私は一人で商店街を歩いていました。前日に父と共に深酒をした彼は、実家で寝ていたと思います。
 オジサンは、片膝をついて何かを呟いていました。私はハッとしました。もう誰も、オジサンに優しい言葉をかける人はいないのです。もう誰も、オジサンに憐れみをかける人もいません。只、疎ましい存在としてしか、オジサンは認識されていませんでした。
 私は思わずオジサンの傍らにしゃがみこむと、目を覗きこみ、ゆっくりと語りかけました。

 女が突然喋りかけてきた。わざわざしゃがみ込み、俺の目を見つめながら何かを喋りかけてきた。
──モウ、無理シナイデ。オ子サンモ、奥サンモ、イナイ。
 こいつは何を言ってるんだ。俺は混乱した。発せられた言葉は日本語に聞こえなかった。
 礼二も心美も居ないだと? 居るじゃないか。なあ? と背中におぶった心美に話しかけると「ずっと一緒よ」と返ってきた。傍らでは礼二が怯えている。今にも泣きそうな表情が、俺の心に熱を与えた。
──俺が守らなければ。
 俺は女の言葉を聞く振りをした。涙も流した。「ありがとう」と心にもない言葉を発した。そして、ゆっくりとポケットからマルチツールを取り出し、刃渡り六センチ程度のナイフを引き出す。毎日研いでいるから、切れ味は抜群だ。いいか礼二、道具は正しく使わないといけないぞ。
 俺は、女の腹に、ナイフを、突き刺した。
 俺と、妻と、礼二を守る為に。
 背後で妻が「ありがとう」と呟いた。妻の髪の良い香りがした。

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