ただの吐き出しです。 写真撮影を頼まれました。 何パターンか撮影し、確認してもらい喜んでもらえました。 しかし、その横で知らないおっさんが「下手だなあ」「やり方が違う」などと講釈を垂れてきて大変不愉快でした。 このような人間にだけはなってはいけない。 大体、私とその交流者が聞いていて不愉快になるということを想像できないのでしょうか?。恐らく年齢的に会社の中間管理職にでもなって、自分よりも若い部下が頭を上げられない環境に囲まれてきた結果、会社での地位を外にも持ち運び当ては
小学生になると英語教育が始まる。私のクラスでもALTとやらを呼んで英語の授業用テキストを用いながら行われていた。 同じクラスメイトといえども、習い事で英語を習っているのかどうかで授業についていけるのか大きく差が生じた。 授業はゲーム形式で進んでいく。即席で床に敷かれた動物や果物などのイラストを踏み、その英単語を発しながら一マスずつ進んでいく。 まともに英語に触れるのが初めての子は、英語を習っている子に「なにやってるんだよ」「ちゃんとやれよ」などと詰られていた。私もそれを
先日、友人と2人で食事に行ったとき、自殺について話題になった。彼女は、「自ら死ぬ人間は愚かだ。そんなに辛いなら逃げればいい。なぜ死ぬまでつらい状況を我慢しているのかが理解できない。あたしは自殺をするのは弱い人間だと思ってるから笑。」と、演説を始めた。私はその場では適当に聞き流したが、家に帰ってから今まで、ずっと心に引っ掛かっている。 私は死は究極の救いであり、一番の劇薬だと考えている。多分彼女は死に追いやられるような、死以外の選択肢を考えられない状態に陥ったことがないから
結局私は根が馬鹿真面目というか(自分で言うな)、怖がりなので先の心配ばかりして、早め早めに準備をしてしまう。受験や就職活動など、中途半端ではあるが、とりあえず形だけでもスタートをさせてしまうのだ。例えばレポートの類はデスクトップに先に白紙のワードファイルを作ってしまうのである。 ここだけ聞けばある種の自慢のように捉える読者諸君も存在するかもしれない。 しかし私が主張したいのは、これらの私の行動指針や意識こそ、長年私自身を縛り苦しめてきたのものの正体の1つのではないか?とい
朝起きて夜寝る。 これが世間では理想の生活スタイルとして認知啓発されている。 この年末年始、特に意識しているわけではないにも関わらず、ほぼ自動的に早寝早起きを実行してしまっている。 確かに身体にはいいことなのかもしれない。けれど、これだとみんなの配信や活動を見ることができない。みんなと活動時間が真逆になってしまい、一方は起きていても、そのまた一方は寝てしまっているのだから交流のしようがない。触れることができるのは数時間前のツイートや配信履歴である。交流することも出来なければ
正月といえば、初売り?それとも初詣?私はどちらも行かない。 まず第一に、初売りで必ずしも自分の欲しい物が安くなっているとは限らない。福袋には在庫処分品しか入っていない(チョー偏見)。中身の見える福袋や凝った内容の福袋は別である。 その次に、初詣であるが正直面倒くさい。なんと信心深くない人間であろうか。一度神も仏もないと感じる体験をしてしまうとこんなものであろうか。お腹が痛いときは神に祈るものである。これは世界共通らしい(適当)。 ここで主題に戻るわけだが、私が単に内気で
東京駅か品川駅で東海道線に乗った。目的は自殺するためだ。自殺を実行する場所に赴くために、電車を移動手段として選択した。 今振り返ると自殺にまで追い込まれるのは相当だと思う。 流石、東海道というだけあって普通車にもボックスシートが備わっており、新幹線のように進行方向に向かって座ることができた。けれど車窓から見る景色に心は反応できなかった。感情と言う名のセンサーは死んでいた。 仮に目的を完遂できていたら、私は高校2年で人生の幕を下ろしていたことであろう。 だが水位の減った
うつ病の診断が下った。今まで生きてきた中で、まさか自分が精神病になるとは想像だにしてこなかった。精神病になったら終わりではないのか?この病気は治るものなのか?一体私はどうなってしまうのだろう?疑問と不安と焦りで仕方がなかった。 初めて処方されたのはメイラックスであった。お馴染み?のあの青いシートだ。果たしてこの小さい錠剤が私を救ってくれるのであろうか?いやまずこの薬の副作用はどのようなものがあるのであろうか。精神薬とは害があるものではないのか? 初めて飲む精神薬に対して、
今まで私は、優しさと怒らないことを混同していた。怒らないこと=優しいと勘違いしていたのだ。思い返せば、少なくともこの症状は高校生の時から発症していた。 行きたくないお店、行きたくないイベント、家から出たくない(休んでいたい)のに相手に無理やり合わせて行く。 これらの何が私の為になったのであろうか。そんなことをしないと続かない人間関係に、一体なんの意味があるのであろうか。お金だけではなく、身も心もすり減るのだ。 もう少し自分のために生きても良いのではないであろうか。やり
表題を正確に表現すると、怒りの感情がはっきりと表に出なくなった、若しくは出せないのかもしれない。中学から高校の時期は、成長期におけるホルモンバランスの乱れからか無性にイライラして物に当たることが多かった。いや、小さなものではあるが破壊していた。無論仏壇や家具などは破壊していない。しかし、うつ病の診断が下され、薬物療法を続けた結果なのか、家族と喧嘩することが極端に減った。今までの私の、怒りの感情が始まるきっかけが多すぎたのか、寛容になったのか。或いは周囲が私を理解してくれていて