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波頭を超えた遣唐使たちと沖ノ鳥島

唐で山上憶良が詠んだ望郷の歌

山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)の大唐(もろこし)にありし時に、本郷(くに)を憶(おも)ひて作れる歌

いざ子供 はやく日本(やまと)へ 
大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひむらむ
               『万葉集』巻1・63

【訳】さあ みんな 
早く故郷の日本(やまと)に帰ろうではないか 
(大伴氏所有の)難波津の浜にある松が 
その「まつ」の名の通り 私たちを 待ち焦がれているだろう


飛鳥時代の630年から約200年間に渡って派遣された遣唐使。
万葉集にも「遣唐使」が詠われた歌はたくさんあるが、私が真っ先に思い浮かべるのは奈良時代の宮廷官人だった山上憶良の歌。

これは第7次の遣唐使船に乗り込んで唐に渡り、唐に滞在していた時の歌である。
死の危険を乗り越えて唐まで来て、そしてまもなく帰郷が叶う、という喜びを率直に詠っている。

現代であれば、飛行機で安全にしかも早く中国に行くことが出来るが、奈良時代はその範疇ではない。

当時の遣唐使船に乗り込むことになるのだが、この時代の船は当然エンジンがない。エンジンがないので、人力で漕いで唐に渡る。
 また、羅針盤がなかったため、昼は太陽の位置から船の行先を定め、夜は星の位置から船の行く先を定める。

人力で3日間は船を漕ぐのだが、1日は休憩日である。その間、船は海の上を木の葉のごとく揺れ動いただろう。

青天ならともかく、もしも暴風に遭遇してしまったら・・・・・。
 当然、遭難の危険がある。
遣唐使船に乗り込むことは、賭けであった。

遣唐使船2

↑ 貨幣博物館蔵 遣唐使船 ウィキペディア「遣唐使」 より

だから
当然神に祈った。

 天平勝宝二年(750)第10次遣唐大使に任命されたのは藤原清河。

翌年の天平勝宝三年(751)
平城京の春日で、神に、これから唐に渡る遣唐使の無事を祈った日に、聖武天皇の后、光明皇后が遣唐大使の清河に歌を贈っている。


春日にして神を祭る日、藤原太后の作らす歌一首 
即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜ふ

大船に真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)き                 この吾子を唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち
                『万葉集』巻19・4240 

【訳】
大船に櫂(かい)をたくさん取り付け、この我が子を唐へ遣わします。
神々よ守ってください。

遣唐使船の経路

大阪の難波の津を出発した遣唐使船は、しばらく波の穏やかな瀬戸内海を進んでいく。このあたりは遭難の危険性は少なく安心である。

本格的な航海は福岡県沖に到着してからだ。

福岡県宗像市に沖ノ鳥島という島がある。対馬の手前にある島になる。
この島は遣唐使船や遣新羅使船が通るたびに、その時代の宝物を投げ入れた場所である。

航海の無事を祈って。

遣唐使船1

 ↑ 平城宮跡歴史公園にある復元された遣唐使船

現在の沖ノ鳥島は「宗像神社」として島全体が御神体で、遣唐使船や遣新羅船が神に祈って投下した宝物が出土品として伝わっている。
沖ノ鳥島が「海の正倉院」とよばれる所以である。

沖の鳥島位置

↑ ウィキペディア【「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群」】より

さあ、沖ノ鳥島からは危険な航海が待っている。 


どうか、嵐に会いませんように。
穏やかな青海波が続きますように。
無事に唐に着きますように。

この島にはそんな真摯な願いが込められている。

古代史原像

古代は過ぎ去り、その痕跡さえもなかなか見ることのできない現代。

私は大学時代、古代史に心惹かれ、
その歴史のページを紐解いた。

古代、
ヤマトという国に暮らした人々の
切なる願いが国を動かしただろうその痕跡を探った。

それは遺跡や遺構、土器という形ではあったが

それを形作ったのは、人々の願いであっただろう。

・・・・それは遣唐使たちの願いであったり、
ヤマトの神々を祀る人々の願いでもあり、
国を動かす大王や天皇の願いでもあった。

そして

名もなき畑を耕す民の願いでもあっただろう。

そんな昔の人々の願いや祈りに触れるたび
現代に生きる私は、敬遠な気持ちになる。

そんな人々の営みの連綿とした繰り返しの先端に
私はいる。

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 ↑ 平城宮跡に復元された朱雀門

参考文献
『古代日中関係史』 中公新書 2
019年 川上麻由子
『万葉集を知る事典』 東京堂出版 2000年 尾崎富義他
『しらべ学習に役立つ日本の歴史4 遣唐使船をしらべる』小峰書店 1995年 渡辺誠


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