21gの輪郭【小説】
魂を砕いて、抱きしめてもらえる弱さを削ぎ、かみさまだけを信じて行き着くところがここならば。
「夏目の暗いところが縁取る光を、おれだけはずっと覚えてるよ」
と言った。夏目も何か言ったけれど、すべてが途切れて、おれに聞けることは何もなかった。木の枝に積もる雪と、眩い曇り空を見上げていた。雪に埋もれているのに、繋いだ指先だけは暖かかった。
失われた光が、そこには確かにあって、それがおれにはやけに明るく見えた。燃ゆる日の出のように、終わる輝きが、しかしいつまでも照らしくれるように思えた。
今にして思えばあれは破滅のきらめきだったのだ。
おれたちは、日の当たるうつくしい雪野原で眠りにつく。
燃ゆる暖房のそばにしゃがみ、英単語を見返していた。人が流れるように入ってくる中で集中できる筈もなく、この行為は人避け以上の意味を持たない。礼拝に向けて準備がされる中で、僕がこれだけ話しかけるなという風でいても通りすがる大人は皆一様に「夏目君は勉強熱心だね」と慈しみ、言う。それらに会釈だけで応え、これ以上構われないようにと一層俯く。
背景も所属も理念も違う人達が、同じ神のもとに、信仰をパスポートとして集まる。クリスマスの特別礼拝に備えて、壇の前には一人、また一人と羊飼いの小さな人形が増えてゆく。来週には三人になることだろう。大窓から見える積雪は週を重ねるごとに厚みを増し、僕らを包む温度も氷点下を下回ってゆく。
長谷川牧師が控えめに「夏目君」と僕を呼んだ。頭を上げると、席は大部分が人の頭で埋まり、時計は礼拝が始まる五分前であることを指していた。
「洸君が来たよ」
と言う。すぐに入口の方へ目をやると、重い木製の扉を押し開いて、洸が顔を覗かせていた。誰かを探すような仕草に、手を上げて合図を送る。するとすぐさまこちらに気づき、同じように手を上げて、雪に濡れた頭を振った。
しかし話しかける暇などなく、彼は上着や荷物を手近な椅子に置いて、黒光りするグランドピアノの元へ赴く。それらを遠目に見ていた。そろそろ礼拝が始まる。急ぎ足でなるべくピアノに近い位置に座り、聖歌隊ではなく、ピアノを弾く洸を見ていた。足がペダルに添えられる。鍵盤蓋に、襟足まである跳ねた猫っ毛が映る。譜面台には「インマヌエル麗しい御名」の楽譜が開かれている。賛美歌の伴奏は洸の役割であり、彼にとっては神様への奉仕でもあった。僕は、彼の指が鍵盤の上を滑る様が一等好きだった。
彼は長袖のオックスフォードシャツに黒いニットベストとパンツを身につけていたが、袖口から垣間見える手首にはまた、真新しい包帯が巻かれていた。
僕らが大人に差し出せるものは、この身ひとつだ。そして大人達はいつだって、当たり前のように僕らの所有権を握っている。
子供は大人の動産だ。
「夏目」
小さく声が聞こえて、顔を上げる。いつの間に讃詠は終わっており、長谷川牧師による説教が始まっていた。洸の浅茶色の髪が揺れる。
「聖書、見せて」
「おまえまた忘れたの……」
「忘れたことを忘れてた」
ひっそりと笑い、祈る時のように指を組んで、「たのむ」と言った。礼拝が始まっている以上仕方がないので互いの腿の間に開いた聖書を安置する。暖房が唸り燃える中、洸が「ルカの福音書、二章だ」と嬉しそうに言った。
ここの冬は長い。
身体の芯を奪わんとする冷たさであらゆるものをなでつける。大人たちの喋り声でざわめく教会の中、おれは木でできた長椅子に座ってじっとしていた。硬くて冷たいので、お尻が痛いったらこれ以上ない。それから、壇に立ち並ぶ三つの羊飼いたちを睨んでいた。
やがてくるぶしに冷ややかな空気が触れ、ずっと後ろの大きな扉が開かれたことを知る。そうやって人が訪れるたびに振り返り誰が来たかの確認を繰り返してしばらく、遂に訪れたのが彼だとわかって、片手を上げる。すると傘を閉じて粉雪を捨てていた彼も、ゆるく片手を上げる。おでこと耳が真っ赤だった。夏目は変なところに血が通っている。
「もう一面雪の海。掻き分けて来た」
と、つめたい声で言った。そして肩で少しだけ笑った。
「今日のはすごいね。これ積もって雪かきやらされるやつだよ」
「確かに。でもまあ僕らがやった方が早いし」
教会前の雪かきを頼まれそうな具合の大雪だった。夏目は隣に座り、足を組んで聖書をぱらぱらと捲る。おれは楽譜を取り出して今日弾くところを見返していた。
夏目がふと、おれの手の甲を指して
「また増えてる」
と言った。おれと、手の甲のガーゼを見据えていた。
夏目の言葉に、息が詰まる。そういえば先週はまだ、殴られていないのだった。知らない間に長谷川牧師が登壇していて、皆を一瞥してから「では始めましょうか」と言った。なるべく小さい声で「昨日、父さん機嫌が悪くて」と呟いた。夏目は隣で相槌を打つだけで、それ以上は何も言わなかった。お祈りに集中していただけかもしれない。
かみさまが、おれたちを救ってくださる日を心待ちにしている。おれたちはあらゆるところから逃げそびれている。今日もたくさんのことを祈り、願った。
僕と洸は同じ日に洗礼を受けた。
僕は父親の影を忘れずにいるためにと、小さい頃からこの教会に通っていたが、洸は三年前にふらりと現れ、「遠くから越して来たんです」と言った。道路は凍り、吹雪さえも静まり返る寒波の日に、彼は靴下も履かずつっかけを雪に濡らして立っていた。白くて、真っ赤な爪先が露わになっていた。
今後うんざりするほど見ることになる、彼特有の人好きのする笑みを浮かべてはいたが、どこか焦燥した様子で、息を切らし、逃げてきたという風な様相に、教会の誰もが無言のうちに彼を歓迎した。「教会は本来、傷ついた人のためにあるんですよ」と言ったのは、長いことここの牧師をしている長谷川さんだった。
穏やかな長谷川牧師は所在なさげな彼を慮ってか、貸出用の聖書を手渡すと、彼は讃美歌の最中で熱心にそれを読み続けた。僕はたまたま隣に座っていたので、「神様が必要?」と聞くと、先の笑みとは打って変わって感情を削ぎ落とした死人のような面で僕を見つめ、「うん」と言った。開かれた双眸の、光の差さない沼を思わせる深さを恐ろしいと感じたが、それと同時に彼に対する興味が脊髄からじわりと僕の身体を侵蝕していた。
彼もまた、怒っているのだ。
と思った。今にして思えば、僕らは大人の舞台装置としての造りがひどく似ていた。僕と同じくして、無力への怒りに燃える他者が現れて、更にそれが彼のような、傷つき疲弊した同年代であることがどうしようもなく嬉しかった。
それから彼とは、週に一度だけ会う同志となった。毎回決まって何となしに隣に座り、祈って、礼拝が終わったら二階で遊ぶ。遊ぶと言えど、ただ同じ空間で過ごすばかりだったが、それが随分心地良かった。漫画を読んだり、オセロをしたり、映画を観た。古い木造は二階が底冷えすると言って大人はあまり上がってこなかった。赤屋根の教会の二階は、僕らの聖域だった。
洸はやはり、人の懐に蛇のようにするりと入り込むのが上手く、教会の大人たちはすぐに彼を気に入った。愛想は良く、甘く微笑み、それでいて神の前では真摯だった。
救われたがっていた。
彼の身の上について詳しくは知らないが、一度だけ「弟のことを殴ったから、ここに越してきた」と聞いた。「父さんから逃してやらないといけないと思った」とも言った。弟はどこにと聞くと「母方のおばあちゃん家」と答えた。しかしその母親は義理だから、祖母宅に連れて行ってもらえたことはない、とぼやくのを横で聞いていた。事に触れて「暴力だけはだめだ」と言うものだから、彼が人を殴ったという事実を彼の口から聞かされても、いまいちしっくりこなかった。いつもガーゼと包帯だらけの不健康そうな手が、暴力に使われるところは想像し難かった。
古いブラウン管のテレビで洸と映画を観ていた時、
「夏目、洗礼受けるか迷ってるって言ってたよね」
と呟いた。独り言のようだったので、反応に遅れる。
「まあ」
「おれと一緒に受けようよ」
そう言って、浅茶の目で笑っていた。古い液晶の中の、古い映像などは遥か遠くの事のようだった。強い霰が窓を叩く騒音と、僕らの衣擦れの音が鮮明に感じられるほどに、あたりは静まり返っていた。洗礼はそういうものじゃないだろう、と言いかけたが、僕を強かに見据え、黙りこむ彼を見ても、冗談を言っているようには思えなかった。
「僕が承諾すると思って言ったのか?」
彼は頭の先から布団にすっぽり包まって、「うん」と言う。
「洗礼って、かみさまの子供として生まれ変わるって意味があるんでしょ。それならおれ、夏目と同じ日に生まれ変わりたいなあ。父さんも義母さんも樹も関係ないおれに」
樹、というのは彼の腹違いの弟の名前だった。初めてその名前を耳にしたとき、兄弟揃って眩しい名前だ、とぼんやり考えたことを思い出す。
「それに、夏目だってお母さんに憚らずにいられたらもっといいんじゃないの」
「……」
何も言えずにいた。図星だったからだ。
「わかった。でもおまえ、洗礼の日までに聖書読み通しておけよ」
今まで、母さんに縛られない生活など考えられなかったのに。たった一抹、洸と二人ならあり得る光かもしれない、と思えた。そのことが魂を震わせた。少しだけ目頭が滲むのを、布団を被って誤魔化した。
僕らは生まれ変わることができるのかもしれない。
「なあ、ダム行こう」
おでこを真っ赤にした夏目が言った。おれたちは案の定頼まれた雪かきの最中だった。赤い屋根の塗料が染み込んだモルガナイトみたいな氷があちこちに散らばっていた。答えあぐねていると、背の高い針葉樹の雪が彼の頭にぶつかって、速度を失いほろほろと崩れるように落ちる。彼が「いて」と呟く。
「……なんで?」
「美術の自由課題」
「おれも行っていいの?」
「おまえと一緒に行きたいから誘ってるんだよ」
プラスチックでできたスコップの雪の中に、鮮やかな色をした実が紛れていた。見上げると、裸の七竈が曇天の下に輝いている。
「夏目の学校は自由課題なにするの」
「スケッチ。自分の好きな風景を描いて提出する」
「そんなことするんだ。誰もやらなそう」
「だからこそ」
毛糸の手袋で太った指を二本立てて、「内申点」と笑った。悪戯な笑みだったが、どこか自嘲気味でもあった。
その週は、夏目が頬にガーゼを貼って礼拝に参加していた。彼を気にかける大人には「顔から転んだんです」とつくった笑みで言い退けていたが、二階に上がってからふと「はじめて殴られた。母さんが、あなたの塾代にいくら払ってると思ってるのかって」と呟いた。込められた感情はなく、怒りも悲しみも濾過され、虚しさだけがぽつねんと置き去りにされていた。
「おまえほどじゃないし、比べることも烏滸がましいけれど、力を振るわれることがどういうことか、少しだけわかった」
言葉を選べずにいる間に、夏目はおれの左腕を取り、裾を柔らかにたくし上げ、並ぶ火傷の跡をなぞった。ペンだこのできた白い指が、円の縁を這う。
「痛かったろ」
と呟いた。「あんまり、わからない」と答えた。
「大吹雪の夜に、遊ぶみたいに押し付けられたから、痛いと言うより……」
皮膚のどこにも感覚が無かった。下着以外の服を取り上げられ、出されたベランダで踏む雪は素足を刃物の鋭さで貫いた。雪に殴られた肢体は震えるだけで精一杯だった。住宅街の点々とした灯りがおれをひとりぼっちにした。
それから、父さんの吸った煙草の光が、蛍の尻のように揺られながらおれの左腕に吸い込まれていくのをじっと見ていた。
「あったかかった」
途端に、眉を寄せ口を引き攣らせ、黙りこんでしまった。しばらくしてから苦し紛れに「そうか」と呟いた。泣きそうな顔をしていた。今はおれより生傷が痛むはずなのに、そんなことより遥かに痛ましいものを見るように、ため息を吐いた。
「滅茶苦茶だ」
「おれの話が?」
「なわけないだろ。おまえの置かれたところが限りなく滅茶苦茶だって言ってるんだ。僕に全部どうにかするだけの力があればよかった。一個の人間として、おまえに施されるのが痛みだけだなんて」
彼は泣いていた。それは暗がりの中の灯火のようで、おれの知る何よりもきれいだった。こんな顔で怒るんだ、と思った。
一粒、反射する道筋をつくって宝石みたいな涙がガーゼに染みてなくなる。あまりにも身に余る照りに、慈しみに、それから静けさに、居た堪れなくなった。
「泣かないで」
「泣いてない」
「ねえ夏目、どこでもいいから、ここじゃないどこかに行こうよ。誰も追いかけてこられないくらい遠くて、誰も知らない場所。いっそ果てまで行けば、ちょっとくらい気が楽になるよ。だから泣かないで……」
「おまえまで泣いてどうするんだ」
掌の付け根で強引に涙を拭っていた。その手でおれの涙もごしごしと拭った。少しだけ痛かった。
「行くなら本当に遠くて、雪のきれいなところがいい」
夏目の住むアパートは、海に程近い崖ぎわに建っていた。海風を全面に受け、相応の古び方をしていたし、近所に停まる車のおおよそが錆びていた。夏目はそのアパートの二階、二○二号室に住んでいる。海側の部屋で、「三条」と綺麗な文字で書かれた表札代わりの紙が目に入る。インターホンを押すとぱたぱたとドアへ近づく足音がし、一歩下がると、躊躇なく開かれた鉄製のドアから夏目とよく似た顔の女性が出てきた。
彼女が「あら洸君」とあまり情緒のない声で言う。射干玉の髪を一つにまとめ、磨り硝子のような紺色の瞳でじっとおれを見つめる。立ち姿は凛としており、知的だが神経質そうな雰囲気は相変わらずだった。
「おはようございます」
「おはよう。随分早いのね」
「ここから遠いので」
「そう。夏目ならすぐ来るわ。きっとわたしが出たことに怒りながらね」
おれたちがどこへ行こうとしているかなど、興味のかけらもないように目を伏せて、それから試すように微笑んで言った。
「ねえ洸くん。遊びは、いつまでなら許されると思う?」
カモメが鳴きながら横切った。
怒っているでも、馬鹿にしているでもない。暗に、身の程を弁えろと言っている。この人はいつも、おれが息子の友人に相応しいかどうかをじっと見定めている。
勝手だ、と思った。けれどおれもまた、この人にとっては息子の大切な時期に彼を連れ回す勝手な子供に違いないのだろう、と思い直し、息を吐く。白い煙が宙に舞った。
受験期の冬休み。夏目は何年も前から塾に通っていると聞いた。彼の学校前にある、地元では有名な学習塾だ。それから、暇があれば狂ったように勉強をしている。そう望んでしているのではなく、強迫的なまでに勉強せざるを得ないという暗い姿勢で、課されたことに向き合っていた。ひたむきだが、痛々しかった。
彼は怒りを糧にぎちぎちと駆動する哀れな舞台装置だった。正しく怒っているのに、それらは全て乱暴に「反抗期」へカテゴライズされる。抗議は無碍にされ、取り合うことすらされず、議論の席は初めから用意されていない。そうやって柔らかいところを悉く焼き払われたのに、彼に対する要求はまだ止まない。
「許すのは、あなたじゃない。これを遊びと決めつけるのも、あなたがしていいことじゃないと思います」
自分とて扶養されている身でよくも、と後ろ暗く恥ずかしい気持ちだって滲んでいたが、撤回はしなかった。夏目のお母さんはしばらくおれを見ていたが、やがて何か言わんとして口を開いた。が、それは彼女の背後から投げかけられる「洸!」という聞き慣れた声にかき消された。
「母さん! 僕が出るから母さんは出るなって言ったろ!」
夏目がここまで敵意をむき出しにしているところを見るのは、初めてだった。しかし母親の方は「あなたがのろいのが悪いのに」と嘲笑にも満たない顔をし、鼻で笑った。
あの後、夏目は「遠いところに行ってくる。母さんなんかずっと追いつけないところに!」と言い放ったが、彼女は「そう。勝手にすればいいけれど、塾には行きなさい」と冷たく突き放した。夏目はおれの手を引いて走った。アパートが見えなくなった辺りでようやく足を止め、「ごめん」と言った。
「なんのこと?」
「母さん、試すようなこと言ったろ。おまえを選別しようとするから、会わせたくなかったのに」
「そういう人なのはわかってたし、なんともないよ。でも確かに、試されるのは嫌だね。誰のことも信じてないんだろうね。夏目は、ずっとあの人のそばで暮らしてきたんだ、すごいよ」
と言うと、夏目は顔をくしゃくしゃにして「おまえほどじゃない」と早歩きで先を行ってしまう。だいぶ変な顔だ。頭骨の綺麗な後ろ姿を見て、なるほどと思う。耳が真っ赤だった。きっとおでこも真っ赤に違いない。
二人は互いで、互いを補完していた。
彼ら一対のうつくしさは、何物も寄せ付けない恐ろしさを内包していた。排他的な空気を携え、二人の領域に介入できる誰かは居ない。補完しているといえど、それぞれがスタンドアローンとして機能しており、完全が完全を取り込む様は、私を鏡写しの絵画でも見ているような心持ちにさせた。
まだ丸い頰を赤く染めていた頃の夏目君は、今と変わらぬ賢そうな瞳で、よく笑う子だった。
彼の母親である硝子さんとは初めに数回会った程度だったが、それでも子供に対する異様な執着と過保護は見て取れるほどに露呈していた。彼女は、私が何か祈れることはあるかと聞いた際に、冷たい声でこう言った。
「あの子が少しでも世の中を有利に渡っていけるように、どんなひどい思いもしなくて済むように、私はできる限りのことを、できる限りの手を尽くして、与えてやらなければならないんです。祈って解決することなら、そんなものあの子には必要無い」
射抜くように強く、それから痛ましい瞳だった。その厳かさに裏打ちされた、あらゆる悲しみを思った。彼女は無宗教であるらしく、夏目君が教会へ通うのは、離婚した彼の父親が私たちと同じ神を信じていたからだそうだ。夏目君にとって的外れであろう思慮はしかし、母親である彼女のひたむきな情の吹き溜まりであった。夏目君の成長と共に衝突は絶えず起こり、今や彼らの縺れはもうどうしようもないところまで来ていた。やがて夏目君は笑わなくなり、己の信仰以外を拒絶した。
彼の瞳や髪のうつくしい紺色は、母親似らしい。彼ら親子はどこもかしこも似通っていて、それゆえ弱さを分かち合うことができなかった。彼らの凛とした気高さが交わることはなかった。彼らが違う方向を見ている限り、抱きしめ合うことなど、到底叶わなかった。
だからか、洸君が初めてこの教会に訪れ、また夏目君と親しくなっていく過程に、私は喜びに似た何かを持て余した。徐々に二人だけのカーテンを構築していく様子に危うさをも感じてはいたが、私は愚かなことに、それらを看過した。
「牧師。僕、今度洸と一緒に遠出するんです。ほら、時期が時期だし、進学で離れたりしたら会えなくなるから、最後に」
穏やかな微笑みを見せた。夏目君の言う「最後」が、なにを意味するかを頭の片隅でうっすらと理解していた。
しかしならばこそ、彼らの門出を私だけでも祝福しよう。彼らの魂の気高さが、ただその一つでこの世を渡るのに眩すぎるのであれば、私は祈っていよう。
どんな形であろうとも、二人の旅路に大いなる祝福がありますように。そこが彼らにとって豊かな場所でありますように。そう祈った。祈ることばかりだった。祈ることにばかり、慣れていった。
始発の列車に忍び込むように乗り、端の窓際に腰を落ち着けた。氷点下を大きく下回る、観測史上の最低気温であると、ラジオが告げた。隣ではなく正面に座った洸は、鼻を真っ赤にして「全然人いないね」と言った。真新しい包帯が首筋にまで伸びていた。
いつだって泣きそうなのを必死に堪えていた。僕が殻に篭り、鎧を纏うことで、また、何者も受け入れず自分の領域から排斥することで得ていた安寧を洸は易々と、最小限の手数で壊していった。いっそ眩しいくらいに鮮烈だった。その輝きを放つ洸が、他でもない彼の父親によって嬲られることに、僕の方が耐えられなかった。
僕らは互いにもうどうしようもないという時に邂逅してしまった。疲れ果てていて、自分達の輪郭が曖昧だった。いつしか溶け合った輪郭が、別の何かを縁取り始めた。
彼は僕だ、と思ったし、僕は彼だ、とも思った。僕らの魂の形は、互いの言葉ひとつでいかようにも変質を遂げる。
北のダムは、この大地の一番端にひっそりと聳えていて、洸はここを最果てだと言った。僕らにとって、苦しくないところ。塾も家も教会も、もう走っては辿り着けないくらいに遠く、それからもう後戻りができないとでも言うように、陽が山々の稜線に身を隠していた。
「もう歩き疲れた」
「そうだね。ちょっと休憩しようか」
そう言うや否や、僕の手首を引いて仰向けに雪に沈み込む。洸が無邪気に笑う。
「まだダムまで距離あるのに、もうすごい音だね」
互いの指先は絡まったまま、全身は冷気に包まれ、吐く息はもはや雲のようですらあった。
どうしようもなかった。
僕らにはどうにもできないことが、どうしようもなく深く、僕達の前に横たわっていた。
あの町に戻れば、僕は母さんから離れることなど二度と叶わないだろう。大学に入れば終わりじゃない。この先も、母さんが死ぬまで、母さんが死んでも、僕は僕を産んだ人に縛られて生きていく以上のことはできないのだ。
また洸もきっと悪戯に嬲られ、気まぐれに脅され、死なない痛みを受容し続ける。義母はそれを傍観し、逃した弟からは恐れられ、それでもあの家で生きていかなくてはならない。父親の煙草の火に怯えるような生活は、これから先も地続きだ。
ならばこれ以上の翳りがどこに落ちるだろう。僕らの魂はどうしようもなく切り裂かれ、痛めつけられ、しかしその切り傷の反射で、驚くほど眩く光る。
今この瞬間を凍結できたら、それがいい。
「なあ、今死んだら僕らは永遠になれる」
放たれた水の音は、地響きとさほど大差なく、轟々と僕らを音で隔てる。
「僕らを救わなかった奴らの中で、ずっと傷痕になる」
もはや何もかもが水音に遮られ、僕の言葉も洸には聞こえなかったろうが、しかし雪に沈み込む洸はにっこりと微笑んで、何か言った。何ひとつ聞き取れなくても、洸が満ち足りた顔で目を瞑るから、こんなに良いことはそうないな、と思った。凍った睫毛が輝いていた。
ようやく、二人で陽だまりにいられることを嬉しく思った。朝焼けと共に登る陽の光が、もう間に合わないというのに、雪を溶かさんとばかりにあらゆるものを隈なく照らした。光が、僕らを受け入れた。
僕らの船出は、祝福に満ちている。
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