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「聴くこと」について2 覚え書き

友人が話してくれた読んだ本の事、これがきっかけで読み出した本が3冊あります。泉谷閑示著の3冊「こころをひらく対話術」「『心=身体』の声を聴く」「『普通がいい』という病い」です。

友人から聞いた本は、「『普通がいい』という病い」でした。これを図書館に予約して届くまでに、待ちきれなくて、他の2冊を古本で購入してしまいました。てな訳で3冊。

この3冊に書かれている内容、形や表現を変えてはいるものの、共通の主張があります。それはおそらく「『普通がいい』という病い」に集約されるかなと思いました。

この泉谷さんの書の特徴は、思想家、哲学者 宗教家 小説、詩 童話などあらゆるところからの引用が鏤められいて、そのひとつひとうが素晴らしく私にとっては興味深いものでした。さらに説明にシンプルで分かりやすい図が随所に使われていて、それが理解を助けてくれ、私でもスルスルと読み進める事ができました。

なので、書きたいことも山ほどあったのですが、ひとつここは「聴くこと」に関係しているとことで、覚えておきたい事を優先順位と記憶に沿って、一つだけ、書き取っておこうと思いました。

よくクライアントから他で受けたカウンセリングについて「壁に向って話しているようだ」と感想を聞くことがありますが、これなどはセラピストが客観的・中立的でなければならないと教育されてきたための弊害あろうと思われます。主観をなくして客観であろうとするやりかたはけして成功せず、このようにせいぜい「壁」になることに行き着くに過ぎません。それは客観的になったのではなく、否人間的になったと言った方が近い。空海が「遮情」として警告していた状態に陥っているわけです。(「普通がいい」という病)

客観であろうとすること、これは聴くこと以外でも、日々私が気をつけていることでもあるので、気になるのです。ここでは、客観・主観の根本理解について、欠けてると言っています。特に主観について「信頼性に乏しい、ひとりよがり」という風に捉えられがちだと。ですが、筆者は主観は十分に信頼に足るものだと言っています。

「ひとりよがりの主観」と「信頼に足る主観」の違いは何か?

ひとつは、本来主観は「我がまま」なのだけれど。「ワガママ」になっていて、これは主観に徹してない状態であるという。主観に徹してその純度が高ければ高い程、「信頼に足る主観」となると書かれています。

客観はそもそも主観の最大公約数的なものにすぎず、大抵は、他人から異論が出ない程度の無難なもの、数量化や用語による記述ができるもの、制度の低い方法論で、人間という複雑な生命現象を理解することができるのか…という論です。

ふたつめに、主観は「心」に由来するもので、「頭」に由来する客観に比べて。遥かに優れた洞察力を持っている。これは、筆者の人間の捉え方が元になっています。

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これが、人間を表す図です。「頭」は理性で、「心=身体」は大自然の原理を体現していると考え、自分という概念は、「頭」の理性によって生み出されたものである言っています。そしてニーチェは、「君の肉体の中には、君の最善の智慧のなかにあるよりも、より多くの理性がある」といってるとありました。頭と心の間にある蓋を閉じた状態になってはいないか、頭由来の理性ばかりが尊重されていることへの危機が語られています。それで、著書「『心=身体』の声を聴く」が書かれたのだと思います。人は、頭と「心=身体」が対話することで葛藤が起って来ます。葛藤するのは人として健全な姿であると言っています。

三つ目に、仏教的なことが書いてあります。「独りよがり」を無くすためには、主観を抑える「遮情」ではなくて、「煩悩即菩提」だそうです。何だか難しい話になってきましたが、主観をしっかり育てて純度の高いものにすれは、主観も客観も乗り越えて、一つ上の次元の認識に到達する。難しい…私が解り易かった表現は、主観の純度を上げていくと「自分」「自己」「自我」の「自」が消える。これは主観の「主」が消えることで、物事をあるがままに見ることを可能にするということだと書いてありました。

という訳で、非人間的な傾聴にならないために、主観を磨かなければと思うのでした。非人間的傾聴の方を好む方も世の中にはいることも、忘れてはいけませんね。人は、100人いれば100通りです。

最後にもう一つ、記しておきたいことです。

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この図は、「こころをひらく対話術」に載ってたものです。共通の大地で繋がっていること、対話的傾聴を考える鍵になると、今思っているところです。

以上、三冊読み終えて、何か書き残してみようと始めました。ほんの一部のみ、拙く纏まらない記述ですが、私の頭の整理になりました。図解や例えがとても分かりやすいので、ご興味在る方にはお勧めです。

この著者は、精神科医でありながら、念願だったフランスへの音楽留学を決行しました。周囲は、「無責任だ」「後先も考えないで無鉄砲」と白眼視され、一方、行った先のフランスでは、「立ち止まって自分の人生を見つめ直すことは素晴らしいことだ」と賞賛されたそうです。精神的にありのままでいられる心地良さを感じたそうです。日本人の多くが、いかに窮屈でもったいない日々を過ごしているのか、いかに生まれもった貴重な資源を殺して生きているのか、怒りのような哀しみのような感情におそわれたそうです。その思いが根底に流れているだと言います。

日本であってもあるがままに生きている方もたくさんいると思います。ですが、少なくても私の周囲を広く見回して、ありのままに生きれてない方が目につきますし、私自身もけしてありのままで心地良く生きれていると言い切れない。だから、きっとこの泉谷閑示氏の書くものに興味を抱き、魅かれたのだろうと思うのです。

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