川端龍子と会場芸術 その2
さて、川端龍子のお話。
前回は『金閣炎上』の衝撃的なヴィジュアルで終わりましたが、
龍子、まったく愉快犯じゃありませんよ、の今回です。
1950年、龍子晩年の『金閣炎上』は確かに衝撃的な一作でした。
社会的影響の大きな事件を題材にしたことに加え、
それを素早く絵画に仕上げたその速さ・直球の表現。
「絵になる事象」に忠実に反応する欲動と
「すぐに描かねばならない」と実行するジャーナリスティックな感覚。
いやぁ鮮烈!
新聞社に勤めていた経験をもち、
戦争に関する作品も多く描いてきた龍子の
「どのような画家であるべきか」という考えがよく表れている一作です。
日本画転身時から、大きくダイレクトな絵を描く龍子。
激しい色使いと筆致のため「粗暴で鑑賞に耐えない」と言われたようです。
確かに
「床の間に飾りたい絵か」と言われると、
それは少数派であろうと思える作風です。
そこでハタと思うこと、
「床の間に飾るような繊細優美なものだけが絵画だろうか」
ここですね。
この問いかけに確信を持って「否」と応えた画家が龍子です。
人々は果たして優美な絵だけを求めているのであろうか。
個人の一室で鑑賞されることだけが絵画にできることだろうか。
龍子には挿絵画家として成功した経験があります。
商業で絵が必要とされた経験は、
イコール、人がどのように絵を必要とし、そしてそれを愛でるのか、
それを実感する経験でもあったのでしょう。
そして彼自身、幼少の頃に見た大きな鯉のぼりに
恍惚としたこと、目を奪われたことが
人と絵の関わりをインテリアとしての美しさに留めておけない、
そんな原動力になったのだと思います。
そんな龍子、
42歳には7年所属した美術院を辞し、自ら「青龍社」を旗揚げ。
以降、画壇権威からは距離を置き
在野の画家として作品を発表していきます。
そんな作品の有名どころがこちら。
どうです、この大作っぷり!
7~8m級の作品を次々に発表していきます。
もちろんこれらは個人宅で鑑賞できるサイズではありません。
これらを見てもらう場として、百貨店での展覧会を企画。
観覧料はとらず、大衆と絵画芸術が触れ合う場所としました。
後の使途の無い芸術!
それは一理ある!
と私なんかは自身の作品を見て思うのですが、
論点はそこじゃあない、と言わんばかりの龍子。
なんなら晩年は自分で自分の美術館を建ててしまいます。
美術館がないなら自分で建てれば良いじゃない
この一貫した姿勢、鮮烈ですね。
龍子以前にも大作を手掛ける画家はいましたが
こうして鑑賞の場を設け、その活動を続けて行ったことで
画家にも、鑑賞する人々にも、大型作品は必要な欲求となっていきました。
大判の和紙の登場、展覧会の盛り上がり。
次第に画家を取り巻く業界も「会場芸術」へ移行していきます。
院展時代に大型作品を「会場芸術」と揶揄されたそのことを逆手にとり
会場芸術を高らかに謳った龍子の活動。
それに押されるように、それまでの絵画は「床の間芸術」と揶揄されるようになっていきます。
大きな絵を描くことも、
衝撃的な題材を直截的に扱うことも、
「絵を見る人々の求めているもの」を意識に置いて描くからこそ。
大観たちとは違う感動を経験し、
それを自分の作品として形づくってきた結果、
龍子が見つめた絵画の役割は当時の主流とは異なるものでした。
川端龍子がけっして愉快犯などではないこと、
おわかりいただけたでしょうか。
とはいえ、大きいのに描くのが楽しかったというのもあるんだろうなぁと思います。
次回は「会場芸術」について。
絵画がどのように人と関わってきたのか、これからどう関わっていくのか。
期せずして真面目な話になりそうです。
おまけ
水野美術館の学芸員・髙田紫帆さんによる龍子の解説。
楽しさをぐっと凝縮させた、この静かな語りが魅力的です!
もう1つ、龍子記念館についての和樂の記事をご紹介。
龍子記念館、興味を持たれた方はぜひ!
作品をガラスケースなしで展示しているようです。
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