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生きていけないよ〜

昨日葬儀が終わって、急に日常に戻った。私の中では重い一歩だが、職場は当然いつも通りなので戸惑う。当たり前のことなのだけど、なんだか自分だけ違う世界から来たみたいだった。月曜日は普通に仕事をしていたはずなのに。

葬儀はといえば、いろんなイレギュラーの連続で目まぐるしかった。祖父の葬儀があんなにスムーズに進んだのが嘘みたいだった。きっと祖母がきっちりと進めていたんだろう。私達もしっかりやったつもりではあったが、なかなか上手くいかないものだ。仕方の無いイレギュラーもあったけど。

あんなに生きているみたいな姿にさせられていた祖母が銀色のエレベーターみたいなのに乗せられた1時間後には骨だけになって出てくるの、ほんとにすごい。
葬儀屋さんのケアのおかげで、亡くなってから1週間近く経ったのに柔らかい身体のままだった。旅支度をさせるために葬儀屋さんが足を持ち上げた際に柔らかく肉が手の形に沿って形を変えた光景、きっとずっと頭の中に残るんだろうな。
近づけば息が当たりそうなほど生きている時のままの姿で、なのに私は旅支度の最中触れるのが恐ろしくてちょっとだけ気分が悪かった。あんなに触れたかった手すら。亡くなった直後の祖母よりも綺麗に整えられているのに、整えられた死後1週間の祖母の肌に触れたくない、というのは自分でも不思議だし、祖母の体にそんな嫌悪を抱いてしまった自分が許せなかった。私は本当に祖母を愛していただろうか。

そんなことがありながら葬儀は終わった。けれどまた四十九日に向けて動き出す。ほんとに目まぐるしい。悲しむ時間が無くて、母が「実感がわかない」と何度も口にしていた。
私は母が祖母に対して声を掛ける度に泣いた。祖母が亡くなったという事実より、母が祖母に感謝を述べる姿の痛ましさに私は胸が締め付けられる。イレギュラー出慌てふためきながら「お母さん(祖母)きっと怒ってるよ〜…」と怒られる前の子どものようになっている母の姿も苦しくなる。

葬儀は、というか宗教は、きっと亡くなった人の道を示すことで遺されて生きている人を救おうとする優しい嘘なのだな、と思った。嘘と言い切るのは申し訳ない。でも私の実感だ。まだどこかに存在はあるのだと思わせてくれる。死の先に良い世界が待っている、と安心させてくれる。そういうものなのだ。だから母は祖母の怒る姿を想像する。存在が無になるのではなく。怒る姿だって慰めになるだろう。

通夜と葬儀の間に、線香番の為に葬儀場に母と私は泊まった。そこで父がガンだったと母から聞かされて、頭から祖母のことよりも父のことでいっぱいになってしまった。
祖母も祖父もガンで亡くなり、父もガンになった。まだ詳しい結果は出ていないが、少し気になる状態らしく、これからどうなるか分からない。
母の前で泣かないように堪えることで必死でただ話を聞いていた。母は「お父さんがいないと生きていけないよ〜…」等とこぼしており、私はもうなんとも言えなかった。脳みそが停止した。

そんな話の後に寝たのだが、ふと目を覚ました夜中、母は亡くなった自分の兄に縋る子どものように「お兄ちゃん…」と零していたり、「生きていけないよ…」「どうしよう…」などと言っていた。私はただ息を潜めてその声をじっと聞いていた。

私も私でこれからの父の事を考えたり、色々思い出したり、先日アルバムの中で見た私を抱きながら笑う父の姿なども頭に浮かび、泣いた。

実家から家へと帰る車の中で夫にその話をし、嗚咽を上げて泣いてしまい、とても心配されたりした。

ふとした時に父のことを考えると涙が出てしまう。仕事の時はどうにか大丈夫だった。
まだどんな状態か分からないのにこんなんじゃ、これかは先どうなってしまうんだ私は……
私こそ「生きていけないよ〜」になってしまう。

そんなこと考えていたら自分が死ぬ時のことも考えてしまい、きっと夫よりも長く生きてしまう私はどうやって一人で死んでいくんだろう。というか、夫が亡くなったら私は正気でいられるのか?生活していけるか?こんな私が???

どうか、父のガンが軽いものでありますように。ほんとにいま、それを祈ることしか出来ない。ガンが見つかってその年の夏には亡くなった祖父のことが頭をよぎってとても正気じゃいられないのだが、私は私で生きなければならないので、どうにかしたい。

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