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絵に描いた餅

今日は憂鬱だったけど結果的に想像よりは全然良かったかな、と思う。

平日に会う時に感じていた不安の押し付けみたいなのは今日は少なく感じた。やはり平日は負担が大きいからついそういうものを出してしまいがちなのだろうか。相変わらずの愚痴大会ではあったが、比較的穏やかに進んで行った気がする。

話している中で、友人に「ふゆさんと私はやっぱなんか似てるのかもなぁ」と言われた。私から見ると友人と私はむしろ遠い位置にいるように思えるのだけど。不思議だ。

不思議なので理由を聞いてみると、私の言う気持ちを表す言葉が、友人にはピッタリフィットするらしい。なるほど。

私は以前にほかの友人(いまは連絡を絶っている)にも「似ているのかも」と言われていて、その子もまた全然違うタイプの子だった。以前の友人と今日会った友人も、似ているタイプとは思えない。

じゃあ私って一体なんなんだ……?と、ほんとにどうでもいい一言で頭を回転させている。

私はもしかしたら友人の気持ちを想像することが多少得意なだけなのかもしれず、私の発している言葉は気持ちの底から出ている言葉ではないのかもしれない。思っているかどうかは別として、言葉にすることは出来る、みたいな。分からん。話してて無理してる感じはないのだけど。

それか、元は同じでも表出の仕方が違うのだろうか。友人は割とアグレッシブに気持ちを表に出す方で、私は想いが沢山あっても口にして表すことは苦手だから。こうして文字にするのは幾らかマシだが、口で、言葉で、その場で表す、というのはどうしても苦手だ。足がもつれて転ぶ言葉を吐き出しているみたいになるので。そういう表出の仕方の差なのかもしれない。

でも根元が同じ、というのはなんだかモヤモヤとして否定したくなる。私は大した私を持っていないのにも関わらず、オリジナルでありたいなどと思っているのだ。自分のオリジナリティが何であるのかもよく分からないのに、私を他人に重ねられることは我慢ならない。面倒な人間だ。

友達と仲良くなる、ということの一部にはもしかしたら同調することや一部分でも一体化する、ということが含まれるのかもしれない。どうなんだろう。同じ格好をして仲良しアピールする、みたいな。分からん。そういうのが仲良くなるということに含まれるならば、私はずっとこうなんだろう。

ただ、私だって自分の意見に同意してもらえるのは嬉しい。私の気持ちを認めてもらえるのは嬉しい。否定されれば怯えるし、場合によっては「はぁ?」と思う。要は別の存在でありながらも尊重し合える存在でいて欲しいのだ。それがどんな関係なのか、具体的に口には出来ないのだけど。何しろ実例がないので。絵に描いた餅を食べようとしてるのかもしれない。

あったらいいな、と考えるのをやめることはなかなか出来ない。いつまでも心のどこかで探している。寄っかかってくることもなく、適度な距離で信頼し合える友達を。


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