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本音とか心とか言葉とか

本音って一体何なんだ、という事をちょっと前から考えている。

確実に違うな、と私が思っているのは「酔っている時に出てきた言葉こそ本音」「喧嘩の時に出て来る言葉こそ本音」「本音で語り合える相手こそが友達」という辺りの言葉。最後のやつだけちょっと毛色が違うなぁと思うんだけど、まぁでも本音繋がりということで挙げてみた。

これはもうほんとに私の勝手な意見。違うな、と思ったら普通にこのページを閉じちゃって欲しい。

上に書いたような言葉たちに、私は「本音ってそんな軽々しいものなのか?」って思っちゃう。そんな、酒の力を借りたり、怒りによって現れたり。本音ってもっと尊いものなんじゃないか、と思う。

もっと言ってしまえば、本音なのかどうかなんて本人にだって分からないだろう。つい口をついて出てきてしまった言葉だって、その場の感情に流されてパッと相手を傷付けたり自らを守ったりするために出て来たりすることがあるだろう。

それが自分の無意識の中で渦巻いている言葉たちであるかどうかは、今の自分の意識にあるか無いか、ということとは別の次元で考えるべきなのでは?と思ったりする。自分でもこれ、なんて言ってるか分からないんだけど、同じ尺度で考えるものではないんだと思う。

皆が知っている通り心は目に見えないし、自分で自分の心を見ることだって出来ない。目に見えないものをどうにか言語化してそれぞれが処理している。それそのものを完璧に映すことは出来ない。抽象的であるために、ある程度の取捨選択を自ら行い、それに近い言葉を当てはめている。どうにかそれを相手に伝えようと心を砕いて、咀嚼し、どうにか言葉にしている。

その人自身が正常な状態で「これは本音」と言ってそれについて話しているならいざ知らず、正常でない状態の人や、その言葉を聞いただけの他人が「これは本音」と言い切ることが、私はあまり好きではない。それは押し付けでしかない、と思うからだ。

そんなことを言いながら、私は過去に酔った友達の言葉が本音だと信じて疑わず、傷付いて、縁を切ったことがある。だからこれは自戒でもあるのだが、「本音」、ひいては「人の心」はもっと丁重に、神聖なものとして扱うべきだ。

人の心を真に知ることは出来ない、本質的に分かり合えることは出来ないという事はとても寂しいことではあるが、だからといって人と言葉を交わすことが無駄だということや避ける理由になるというわけではない。

お互いに、口から出た言葉が無意識の苦心や経験などから工夫してはじき出された言葉である、ということを忘れてはならない。意識しているしていないにかかわらず、どうにかして人に伝えようと口に出した言葉によってどうにか人と繋がれているのだ、という事を忘れてはならない。

自然にやっているようでも、言葉と真摯に向き合うという事はきっととても難しいことだ。人を罵倒して傷付ける、という事よりも。分かってもらおうと言葉を砕くよりも「なんでそうなるの?意味わからん、クソ」という方が楽だし。

たくさん言葉を知って使うことが出来れば、きっとたくさん理解し合えるんだろうな。間違った使い方さえしなければ。

長々とよく分からないことを書いた。改めて言うが、これらは全て自戒である。(これも、ずるい言葉の一つなんだろうな)

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