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カレーの具(2020/09/05)

サムネ写真は近所のインドカレー屋さんでいただいたもの。針生姜が効いていて大好き。

おいしいカレー

今日の夕食はカレーだった。ちなみに昼食にカレーヌードルを食べてしまっていたが、全く問題なく堪能した。

わたしは実家暮らしで夕食は母が用意してくれる。作らなくてもご飯が出てくるのはたいへんありがたい。しかし、自分だけが食べる自炊のご飯とは違い、完全に自分好みのテイストに……とはいかないのも事実である。

ことカレーにおいて、わたしたち家族の好みは四者四様である。肉は何がいいか、じゃがいもは入れるか、他にも入れたい具があるか……。決定権は作り手である母にあるので母の好みに若干寄りつつも、おおよそ折衷案的なカレーができあがる。家族全員おいしく食べる。

今日のカレーは、いつものルーの中にじゃがいも、にんじん、たまねぎ、豚肉、ウインナー。肉が二種類。買ってきた豚肉がルー半量分の量だったため、冷蔵庫にあったウインナーを足したらしい。そういうこともある。

好みがどうのと言うわりには私には食べ物の好き嫌いがあまり無いので、どんなカレーもだいたいおいしくいただく。缶詰のタイカレー、専門店のインドカレー、家庭の日本カレー、全部大好き〜幸せ〜!

わたしにとっておいしいカレー

ところで、自炊していたときに一度だけ、具を全く入れないまっさらのカレーを作ったことがある。

この話をしたり写真を見せるとたいてい「悲しき貧乏カレー」を相手にしたようなリアクションをされるのだが、だいぶ不本意である。たまたまちょうどいい具材もなく、深夜で買いに出ることもできなかったからこうなっているだけなのだ。

そもそもこれを作ったのは、夜更けにどうしてもカレーが食べたくなってしまい、有り合わせのカレー粉でなんとかするしかなかったためだった。カレー粉からカレーを作るなんて初めてだったが、缶に説明があったのでなんとかなった。

食べるときの気持ちとしては「素カレーって初めてだな」「カレー粉のカレーって黄色いんだな」あたりだったと記憶している。具が無いことに対するネガティブな感情はとくに無かったように思う。

このほかにも、麺類を食べているといつも最後に具が余るとか、逆にスープを食べるときに具を先に片付けるとか、わたしの「具」への軽視がうかがえる経験がいくらかある。ここに他者との認識の乖離を感じる。

わたしにとってスープや麺類などの料理の具材とは「あったら嬉しいけど無くてもまあいいもの」とか、なんなら「だいたいあるけど別にいらないな……と思うもの」という認識である。冷やし中華の具なんかは後者の代表例だ。乗せるとしてもきゅうりくらいで十分だと思う。

ところが、周りを見ると具の地位はもう少し高いらしく、「無いとどこか物足りないもの」だったり「無くてはならないもの」だったりする。あれ?わたしってさては相対的に具アンチなのか?と思うわけである。

マイノリティの自意識

こういう認識のズレってあらゆる人の間に多かれ少なかれ必ずあるものだと思うけど、自分がマジョリティに入(はい)れていないことを察知したり突きつけられたりするとかなり不安な気持ちになると思う。まあ、ものや人によっては「大衆とは違う自分」演出に使われることもあるが。

人のあり方の多様性については大切にしたいし、よく考えているテーマである。しかし、多様なあり方をざっくり分類し多数派が幅を利かせる風潮を内面化して、マジョリティに入れないと不安になったりそれを隠したりする自分もいる。幼少期からべったりへばり付いた認識を剥がしたくなってしまうとなかなか大変である。

1ツイートに圧縮すると

今日夕食がカレーで思い出したけど、前に突発で作った具無しカレーのことが貧乏カレーだと思われちゃうのが腑に落ちない。わたしは具をあんまり重視しない方だってだけなのに……。別によくない?と思う反面、もっと具を敬うべきなのか?と不安にならざるを得ない。

P.S.好きなカレーの具、じゃがいもとたまねぎと羊肉とピーマンとナスとトマトとズッキーニです。他の具ももちろん好きだけど、「ぼくのかんがえたさいきょうのカレー」ならこれ。

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