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私の存在証明

 昨日、いやこれを書いている今となっては一昨日、私は家から一歩も出なかった。もともと出不精で、田舎に住んでることもありフットワークはかなり重い自信がある。一昨日は特段予定もなく、なんとなくだるいような気もして、一日中だらだらとベッドの上にいた。毎日のもはや健康的ではないほどの十分すぎる睡眠時間のおかげで寝ることもできず、いつもは無限に時間を溶かしてしまうYouTubeのショート動画も見る気にならず、ただ目をつぶるだけ。そして時々まどろみ、夢と現実の狭間をふわふわとしていた。とにかく、食事もとらず、トイレにもいかず、誰とも接触せずに一日を終えた。
 
 それだけのことだ。それだけのことなのだが、自分はその日、世界に存在しなかったのではないかと思う。なんじゃらほいという感じだが。理論が飛躍しまくっている自覚はある。正論パンチでぼこぼこにされる準備はできている。
 実際、物体的には存在した。呼吸をし、ひたすら二酸化炭素を排出し、地球温暖化に拍車をかけていた。言いたいのはそういうことではない。その日、多分誰も私のことを思い出さなかった。別に自尊心が低すぎるわけではなく、なんとなくそう思った。よく、「人は、人に忘れられたとき本当に死ぬのだ」的なことを聞く。おそらく偉人も言っている。つまり逆に、生きていても誰も思い出さなかったらその人は死んでいるのではないか。だとしたら、誰の心にも私が現れなかったその日、私は死んでいたのではないか。

 考えが飛躍している。高跳びの選手だったら優勝しているレベルで、理系の人は今宇宙猫になっている。文系の人もなっているかもしれない。誰かにこの考えを理解してほしいというわけではなく、文にすることで自分の中に落とし込みたいだけだ。せっかくここまで読んでくれた人にはちょっと申し訳ない。

 そして、危うくまた世界から消失する前に、存在証明のためにこの文を綴る。


※みんなのフォトギャラリーより、画像をお借りしました。ありがとうございます。

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