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散文・歩考 20220315

散歩に出た。蝋燭の雫をこぼしたような昼の月が、幽霊のような静かな浮力で、青空に転がっていた。
途中でコンビニに入り、缶コーヒーを買った。受け取ったレシートを、なんとなく思いつきで、左手の中でくしゃくしゃに丸めた。その折り目に指をこじ入れて元通りに開き、また球状に畳み、そんな遊びをコートのポケットの中で繰り返しながら、涼しい夕焼けに沈んでいく街を歩き続けた。

歩いていると色んなことを考える。作家としての自分のこと、家族のこと、世界のこと、歩きながら考えては、歩くスピードで置き去りにする。
喪失とは暗い色調をした解放だ。と思った。最近やたら旅に出たい、レンタカーを借りて宛もなく、終点が海ならどこでもいい。自分という固い箱から流れ出てしまいたい。自分探しの旅とは、要は自分失くしの旅だ。
来年から東京に行く予定。どんな所だろうか、地理は分かってもまるで実態が見えてこない。テレビ越しに観ていた街。関東弁?東京村?どこに居ても僕は僕で、しかし街に変えられる心があるのも事実で。

踏切を渡って、駅前の小さなロータリーを曲がる。黒い軽自動車が僕を追い抜いていく。電柱にぽつぽつと灯がつき始める。
くたくたのスニーカーで冷たいアスファルトを踏み締める。コートの前を開けようかな。最近やおら暖かくなって、頭がぼーっとする。
夕日に燻された、産毛のような草木の匂いが、少し冷たくなって肺に流れてくる。いつの間にか春だ。

路地裏に入る。錆に覆われた工具箱みたいな月極めの車庫に、魚のような艶に包まれた高級車が停まっていた。
車は好きだ。見るのも、運転するのも、でも乗るならあんな派手なのじゃなくて、ちょっと古くて可愛いやつがいいな。Be-1とか、二代目のマーチとか。色は黄色。
マスクの内側で、出かける前に噛み砕いて飲んでしまったのど飴の残り香が吐息に混じって薫った。
作家という仕事をしていると、人生が凝り固まってくる。意味のないものに意味づけをしようとしてみたり、日常に序破急を見出そうとしたり。
むろんそれで正しいのだろうけど、今日のこの、日が沈むまでの時間だけは、そういった因果というか、柵から解放されてみようと思った。
どれだけ何でもないことを、どれだけ何でもなく書けるのか、帰ったら文章にしてNoteに投稿してみよう。

家に着いた。
空を見上げると、月は水面めいた輝きを強め、もうすっかり夜の月になっていた。
コートのポケットから出した左手をひらくと、レシートは千年の時を旅してきたかのように、その皺だらけの手足を広げてふうと息をついた。


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