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『それで結構』

親から受け継いだ喫茶店で、私は毎日ひっそりとらコーヒーを淹れている。そんな日々の中に、欠かさず通ってくれる常連のお客さんがついた。
口数の少なさが印象的で、無表情にいつもブラックを一杯頼んでいく。

初めての固定客に私は嬉しくなり、コーヒーのことをよく話した。おすすめの豆のこと。淹れ方のこと。お客さんの好みのこと。
でもいつも口数少なく、「それで結構」と返される他は特に何も語ってはくれない。

だから私もそういうものだと割り切った。私とお客さんとの時間で交わされる「それで結構」という合言葉かあるいは暗号のようなものなのだと理解した。

いつものお客さんとの、ただそこにいるだけの無言の空間。カウンター越しで向かい合えば、それは穏やかで静かな時間で、気まずさなどは感じなかった。

でもその日は違った。家から離れて都会に暮らす私の妹がその空間にいた。

「このお店も年季が入ってるよね。深春も板がついてきて、様になってるよ」

華やいだ都会の風を纏ったような、垢抜けた妹の笑顔。何も他意はない言葉とわかっていても、古びた喫茶店と共にくすんで朽ちていく私の未来を揶揄されたように何故か感じてしまって、ショックだった。妹が帰ったあともそれは心に燻り続けて、気持ちがどこか遠くに行ったきり戻らないような感覚だった。

「どうしました?」
その日、常連さんが私に尋ねた。初めてのことだった。何もかもがいつもと違っていた。
私はいつもの笑顔を浮かべつつ、でもどうにもうまく言葉にできなくて、口籠もり、無言になり、笑顔が保てない。
「ああ、どうも、うまくいきませんね」
そう答えつつ、ポツポツとこぼした。昔から話すのは苦手だ。コーヒーを粉から落とすように、ぽつりぽつりとしか言葉が出ない。自分の気持ちをすぐに話せない。だからよく妹に先を越された。喫茶店を継ぐのは私の本意だったが、妹の上京が先だったからまるで私には選択肢がなく、漫然と継いだような形になったのは不本意だった。
『自分の意思がない』
そう思われているのではないかと、ずっと心に残って澱んでいた。引退して悠々自適に過ごしている両親。都会で好きなことを自己責任で実行している妹。
私だって好きでやっているはずなのに、どうして私の心はこんなに閉じ込められているんだろう。
「それで結構ですよ」
「結構ですかね?」
「結構ですよ。あなたは思いの外、雄弁です」
「何も伝わってないのに?」
「伝わりますよ。ゆっくりだから、沁みて心に落ちてくる。だからあなたはそのままで、結構なのです」
そういう常連さんの声がとても熱いので、なんとなく察してしまって私は黙ってしまった。
言葉を失ってしまって、私たちの時間に無言が訪れた。

それから、その人は来なくなってしまった。いつもの時間のいつもの注文も、お決まりの文句も当たり前だった無言の時間も、その日を境に無くなってしまった。来なくなってしまったところで、それでも毎日は変わらず訪れてくる。ぽつりぽつりとお客さまはやってくる。賑わうことも寂れることもなく、私はただコーヒーを淹れる。
ただいつもの一杯がない。いつもの顔がない。それだけのことが、言葉にならない疼きとなっていつまでも心に刺さって抜けないでいた。

『CLOSED』
定休日。日課の散歩帰りに立ち寄ったコーヒーショップにあの人はいた。見慣れた仏頂面で、手にしているのはブラックのコーヒー。不意に目が合ってしまい、私は思わず目を逸らした。言葉にならない気持ちが吹き出して、戸惑って飛び出した。

それで結構と。
あなたはそれで結構といったじゃないか。

カウンター越しで言葉を交わす程度の、店主と常連客。それ以上のなにものでもなく、求める関係でもなくて、一体何がそんなにショックなのか。自分でもわからないまま心が突き動かされていく。

もう結構です。
こんなに苦しいのなら、もう。さようなら。

後ろから手を引かれる。あの人だ。走ってきたのか、しばらく肩で息をしていた。
「急に行かないで」
何故。急にいなくなったのはそちらの方だ。
「もう、会えない気がしていた」
何故。私はあそこに必ずいるのに。
「ご迷惑かと思って」
何故。私はいつでも待っていた。コーヒーを淹れて待っていた。あの店の片隅で、あの時間を待っていた。
「許してください」
何故、私は望める立場じゃない。憎める立場じゃない。赦しを乞われる立場じゃない。
「泣かないでください」
こちらこそ、ごめんなさい。多くを望んでごめんなさい。みっともなくてごめんなさい。
「あなたは、もう十分、立派ですよ」

休み明け。あの人はまた来てくれた。いつもの仏頂面といつものオーダー。少し違うのは、一本のバラの花。
私はこれからもあの人に、一杯のコーヒーを淹れる。


思った以上に恋愛のお話になってびっくり。
あらあらまあまあと野暮なおばさんみたいな気持ちで妄想を書きました。
もう少し爽やかな話になるはずやったのに。
少し心配が。
「結構」の使い方、合ってるのかな…(笑)

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