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覚書映画評『君といた108日』

 こんばんは。今日は『I Still BELIEVE(日本語題:君といた108日)』という映画を見てきた。ちょっとだけ覚書しておこうと思う。ネタバレは無しだ。

 こちらはアーウェン兄弟が監督するラブストーリー映画。事実に基づいており、主人公ジェレミー・キャンプらも実在の人物である。ジェレミーはシンガーソングライターであり、本作品の題名『I still believe』も彼の楽曲名から取られている。

 この作品を紹介する上で一番大切な要点は「クリスチャン/キリスト教映画」であるという点である。ジェレミーはクリスチャンミュージックを作っているのだ。つまり本来これは、人々の信仰を建て上げることに与する作品であらんとして作られているものなのである。

 その点に留意して、今回は日本語の題名に注目したい。
 まず原題は『I Still BELIEVE』であり、直訳すると「僕はまだ信じている」になる。もちろん信じているのは神様のことを、である。しかし日本語題には「僕」も「まだ」も「信じている」もどれ一つ要素が入っていない。まるで“神様”を連想させる言葉選びを、文脈選びをことごとく避けているようだ。このことは本映画の日本語公式ホームページを見ていても共通して感じることである。私が思うにこれは日本においても少なくとも目に留めてもらうための工夫なのだろう。ちなみにだが、私が見たのは字幕版だったからか本編における翻訳でモヤリと感じることはなかった。
 歴史の教科書でキリシタン狩り(キリスト者迫害)の歴史をよく習うからか、いまだに日本人は宗教色、特にキリスト教色が強いことを嫌う傾向にあるように思う。(もちろんそのほかにも複雑に絡み合った理由がたくさんあるだろうがともかく。)だからこの作品に限らず、信仰をテーマとした作品であってもその本質をぼかすような商品アピールがなされているものを多く見るような気がする。

 売り物であるからには少しでも多くの人の目に留めてもらい、手にしてもらうきっかけにすることが戦略として必要なことであることは理解できる。しかしそれでも私は少しばかりの虚しさと寂しさを覚えてしまう。堂々としたって良いのに。それは絶対に恥じるような内容ではないし、語られているのは真実であり、真理なのだから。

あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。

[マタイの福音書 5:14,15]
聖書 新改訳2017

 本作の中で主人公たちが願ったのは証することだった。証(あかし)とは、イエス・キリストが彼らに起こした奇跡を人々に話し、伝えることで希望を与えることである。そうであれば、本作の題名だってもっと堂々としてしまえば良いのに、と私は思ってしまう。明かりに升、つまり蓋をして見えないようにぼかすのではなく、山の上に置いて堂々ときらめくままにさせるのだ。

 また、本作が訴えようとすることの焦点は未来にあると思う。過ぎた過去、つまり「“君”と過ごしていた日々」を描いていることは間違いないが、本作のストーリーを通して伝えたいメッセージは「そういう日々を体験したとしても、なお、神様を信じている(信じていく)」という現在、未来の自分の信仰を語ることだと感じたからだ。

 そういうわけで、私ならこの題名をこう訳そう。
 『それでもまだ(信じている)』と。

 今回は題名に注目することに留めたが、映画の内容はとても良かった。ぜひその目で見てみてほしい。


2022/01/02

追記 2022/01/03

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