見出し画像

さらば、いかがわしきもの

今の時代を生きていて、少しだけ寂しく思うことがある。
それは、身近な世界から「いかがわしさ」が消えてしまったことだ。
気が付けば、目に映るのはなんだか正しくて明るい作られた世界ばかり。「いかがわしいもの」の排除。
邪悪は当たり前に排除されは方がいいのだけれど、「いかがわしさ」はもう少し許容された世界の方がいい気がするのだ。

おれが幼かった頃でも、「いかがわしさ」はなるべく覆い隠されてはいた。でもそれは覆いきれず、其処ここで顔を覗かせていた。それでもその多くは許容され、共存している。そんな時代だった。

どんな町にも大なり小なり、呑み屋が連なる路地なり通りがあった。 所謂、歓楽街とは少し違い、場末の飲屋が集まる一角といったくらいなものだ。
昼間その辺りを通ると、まるで打ち捨てられたように静まりかえっていた。暗がりの動かぬ空気は、息を潜めたものから漂ういかがわしさに満ちていた。しかしそこは夜になると一変する。
色とりどりのネオンの光。
華やかな女の匂い。
日中には決して見せることのない、立ち昇るようないかがわしさに満ちていた。子供心に見てはいけない光景のように感じ、心臓が高鳴ったのを憶えている。

もっとも忘れられないのは、夏祭りだ。
子供たちは親の手を引き、お目当の夜店を巡り目を輝かせていた。どの子供たちからも笑顔がはじける。
そんな祭りに、必ずと言っていいほどあったのが見世物小屋だ。
恐いもの見たさにねだるのだが、決まってどの親もいい顔はしない。
「ヘビ女」「オオカミ少女」そのあたりが定番だったように思う。身体のどこかに障がいを持ったオヤジがモギリをしていた、そんな記憶がある。まあそのへんは、丸尾末広かなんかの刷り込みかもしれないが。
恐るおそる中へ入ると、年老いた女が檻に入れられていたりするのだ。なんのことはない、女が蛇を身体に巻きつけていたり、見窄らしい身なりで咆哮しているだけに過ぎないものだった。怖いというよりも、紛れもなくいかがわしい世界であり、一種独特の悲しみが漂う空間が確かにそこには在った。
今自分が暮らしている世界とは間違いなく違った世界。
そうしたことに触れることで、徐々に「いかがわしいもの」を受け入れて行く。そして、物事には表だけではなく、裏があることを学んで行くのだ。

今の時代じゃ間違いなく炎上ものだろう。
それでも、そこには確かに人の営みがあったのだ。
軽々しく正しいとか間違っているでは計れない、その時代時代の在りよう。
あまりにも整理され、日の当たる場所ばかりが目に入る時代。
いかがわしいものが全て否定されてしまった時代。
表しか許容されない時代にあっては、人間そのものが、誰しも自分の中に隠し持つ「いかがわしいもの」に押し潰されてしまうのではないか。
少しくらい「いかがわしいもの」達が顔を出せる世界の方が、本当の意味でのダイバーシティへと繋がっている気もするのだけれど。

そういえば、見世物小屋を祖母におねだりした際、どうしても首を縦に振ってもらえず随分とぐずったことがあった。
その時に、もぎりのおやじが見せた「しょうがねぇ、あきらめな」とおれを輸すような笑顔をぼんやりと憶えている。
あれは、本当の記憶なのだろうか…

#エッセイ #いかがわしい #飲み屋 #祭




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?