心と世界とエネルギーと引き寄せの法則02

次に死後の世界。これは思ったようなのが存在するというか、そういうエリアがあるというかそんな感じ。そういう意味では天国も地獄もある。
ここで注意を促したいのが上で書いた民族や信教などのグルーピングで、多数の人が信じていて、しかも歴史が積み重なっているものには大きなエネルギーがあるということだ。

だから自分が特定の宗教システムを信仰していた場合、そのシステムの教典やら何やらが述べるところの状態に巻き込まれてしまう可能性が高い。
つまり天国があると言うよりも、どこかの宗教団体が信奉している天国とか地獄「みたいな所がある」と言った方が正確になる。「天国っぽい所」とか「地獄っぽい所」と言ってもいいと思う。

別に原理主義というわけではないが、その意味で自分の所属する霊統の原典というか、原点は確認しておいた方がいい。
何故かと言うと寺やら教会やらで教えられている内容が、オリジナルには存在しない付け足しである場合がよくあるからだ。

例えば仏教で言えば阿含経だけがブッダの言行を記録してるわけで、大乗の教典は全部二次創作だ。だから価値が無いと言うつもりはないが、二次創作だというのは頭に入れておいた方がいい。

キリスト教で言えば、聖書は最初数えきれないほど有ったが、それらが整理されて今の形式になっている。正教からカソリックが分派した事情や、自殺の禁止が教団の維持という観点から体系化されたことなども知っておいた方がいい。教会を物理的な建築物として捉えているのは主にカソリックであり、より古い形式を保持する正教では教会を信者達の集まりとして考えているとか、そういえばイエスが教会(つまり人々の集まり)の中で寄付金集めをすることを禁じていたとかいう話も聞いたことがある。聖書を見る限り、イエスはお金というか富を嫌っていたと言うよりは、その本質というかエネルギー的な特性を冷静に見極めていたのだと思う。

イスラムと言えば白い服を着た濃い顔のおっさん達の宗教というイメージであって、部族色超濃厚で、例えばアラブとイスラム教の区別というかムードの違いが殆どわからんというのが普通の日本人的感覚だと思うのだが、実はムハンマドは生涯を掛けて部族主義と戦っていた。イスラムの考え方では、神の家に暮らすムスリムとそれ以外の、言わば化外の民といった感覚で全人類を二分している。イスラムとは普遍的なものであり、民族や人種は全く関係ないというのがその理由だが、現状を見れば中東の民族的な伝統やら何やらと混じり合っているのがよく判る。まあイスラムの魅力はその超巨大な法学体系とクルアーンの直接性にあるわけで、何もかも命令されたい人にとっては最高に心地よいシステムではないかと思う。例えばイスラム圈では乞食が伝統的職業のように真っ当に確立されているけれど、それはこの辺に理由がある。

どういう事かと言うと、キリスト教だとイエスが「隣人を愛せ」とか「清貧であれ」とか言うわけだ。イエスはある意味神と一体だから(超級覚醒者だから)イエスの言葉は神の言葉(もちろんこの神は人格的な存在では無い)と言えるんだけれど、言えるんだけれどそこにはまあ読み手の解釈が入る。だって聖書には「イエスは言われた」って書いてあるわけだから。

ところがクルアーンは違う。神が直に言う。「善行を積め」「孤児を救え」「貧者に施しを与えよ」「貧困を知るために断食しろ」と。神が直接言うんだからもう反駁も糞も無いわけで「ハイ、ヨロコンデー!」と答えるか逃げ去るかしかない。命令され、何もかも規則に従って動きたい人にはイスラム教は最高だろう。

もう一つ付け加えると、翻訳という問題がある。これはかなり大きな問題で、例えば仏教で言えばサンスクリットの経典を中国語に訳す段階でもの凄い量の情報が脱落している。
これはサンスクリット語が屈折語で、中国語が孤立語であることが大きい。
屈折語の本家本元と言えるサンスクリット語は名詞の曲用だけで24種類だか26種類という狂った言語であり、中国語にする段階でその情報の大部分が欠落する。玄奘三蔵は名翻訳者だったが、同時に超翻訳者にならざるを得なかった面があるわけだ。

そしてその中国版経典を元にさらに解釈したのが日本の仏教なので、そこでどれくらいの情報が失われたり変質してしまっているのかという話になる。何よりインドから中国に入った時点で仏教経典は上座部、大乗入り乱れて入っているので、その事も混乱を助長している。当時の中国人からしたら阿含経だけがカーシャパの纏めたオリジナルテキストだという事実なんか知るわけが無い。

そこで当時の中国人が編み出した解答が、全ての経典をブッダの言葉として捉え、時系列順に並べ直すというものだった。その結果阿含経から法華経という順番が出てくるわけで、この辺の大纏めを天台宗(中国の本家の)などがやったわけだ。そしてそれが日本に入って来た。だから日本では法華経がお釈迦様の言葉だという信仰が江戸時代までずっと続いていたわけだ(今でもそう信じている人はいるだろうが)。

実際の仏教経典の成立事情が明らかになったのは明治以後のことで、これは欧米の研究者達の業績らしい。聖書の研究で培った技が仏教にも活かされたというわけだ。
大乗仏教の経典はブッダの死後何百年も経って出て来た二次創作だという事実に、当然日本の仏教界は衝撃を受けたのだけれど(全部大乗仏教だから)、そういう欧米の仏教研究者達の報告が入って来たのは別の意味で重要だった。中でも中国の経典よりもチベットの経典の方が、オリジナルの正確さをよく保持しているという情報が重要で、これを知ったのが前回も紹介した無敵のフルタイム修行者、大乗仏教大好き河口慧海だ。その結果、原点の大乗経典を求めて鎖国真っ最中のチベットへと旅立つわけである。ハリウッドで映画化してくれないかなというレベルの面白さだ。

キリスト教の聖書にしても例えばカソリックで英語の聖書を使うとしよう。けどその前にラテン語だのギリシャ語(コイネーギリシア語)だのが先行するわけで、ここでも二重三重訳になっている。ちなみにごく少数だという話だが新約聖書は元々アラム語で書かれていたと主張する連中もいる(もちろんそいつらは東方アラム語を話す連中だ)。イエスは西方アラム語の方言を話したらしいから案外有りうるかも知れない。ただ学者の主流は新約聖書はコイネーギリシア語で書かれたというものなので、まず最初に登場したのはギリシア語版のテキストだった公算が高い。それがラテン語になったり英語になったりしてるわけだから問題なのだ。伝言ゲームが段々狂っていくのは誰でも判ることで、有名所だと処女マリアは誤訳だという話がある。何でもギリシア語版の新約聖書だと単なる「娘」と書いてあるらしい。

聖書は日本語だと口語訳と文語訳があり、個人的には文語訳が圧倒的に素晴らしいと思っている。丸谷才一のように口語訳聖書をくさして「日本人は世界一悲惨な聖書を読まされている」とまでは言わないが、確かに文語訳を読むと口語訳の聖書はだらだらしている上に美観という点において全く文語訳には及ばないなという感じはする。前回にも触れたが山上の垂訓を一度文語で読んでみて欲しい。圧倒的だ。

唯一、翻訳を一切認めないのがイスラムだ。クルアーンはムハンマド当時の言葉のまま書かれており翻訳が認められない。神の言葉だからだ。一応各国語のクルアーンというか、「クルアーンの内容を他の言語に置き換えたもの」は存在して、日本でも岩波文庫から出ているが(言語の達人、井筒さんの翻訳だ)イスラム教の立場からするとそれは注釈書のようなもんで、クルアーンではないのだ。クルアーンはただ一つ。その当時のアラビア語で書かれた物だけということになる。

その結果だろうか、アラブイスラム圈では文語(フスハー)と口語(アーンミーヤ)の2種類が使用されている。TVのニュースや行政、学校の教科書など公式なものは今でも全部文語らしい。通常の話し言葉は口語だが、これも地方ごとに沢山の方言がある。

だから中近東の連中はいわば大体がバイリンガルとかトライリンガルみたいなものだという事になる。そんなわけで日本ではクルアーンは内容が知られにくい。なんせ本来は古典の正則アラビア語で書かれたものを読まねばならないのだ。これは日本人にとってはかなり大変な話になる。
言葉には言語間距離というものがあって、それによればアラビア語は英語よりも更に日本語にとって遠いらしい。ちなみに一番日本人にとってキツイのはサンスクリットであるという話だ。

それでもムスリムになるならば絶対にアラビア語は避けて通れない。誕生時オリジナルの迫力を伝えるという点ではクルアーンは最強の部類に属するテキストだからだ。クルアーンは歌い上げる聖典だ。それを味わいたければ例えば中近東のムスリムのように歌い上げるといい。クルアーンは聴くものだという名言もある。確かにそうだなという感じがする。歌い上げ、聴き入る聖典だ。その魅力というか凄さというか、確かに世界的大宗教になって当然だということが判ると思う。

こう書くとよくアメリカのコミックアクション映画で、中近東の街が出た時BGMとして男声の謡曲みたいなのが流れているのを連想されるかも知れない。
あれはムアッジンのアザーンと言って、一日五回の礼拝への呼び掛けの放送であり、クルアーンの読誦ではないので区別しよう。
と言っても私だって聞いただけでは区別なんて付かないが。

話が随分長くなったが、要するに自分の属する霊統とか、選んだシステムで死後の世界がどうなっているかを確認した方が良いですよという事をここで書いている。その際にオリジナルを確認しておいた方がいいですよという話だ。

そういうわけで例えばジャイナ教よりは仏教、仏教よりはヒンズーを信じた方がいいかも知れない。この三つの宗教どれにも教えとしての地獄が存在するが、ジャイナ教の地獄が一番壮絶だというからだ。死んだ時に万一「自分は地獄に行く」とか考えてしまうと非常にまずいことになる。
けどまあ何を信じる(というか選ぶ)かはその人の個性がどういうものであるかに依るのでどうにもならない面があるのだけれど。

だから罪という観念は非常に都合が悪い。例えばカソリックやチベット密教(に限らないけれど)などには危険な仕組みが有る。何であんなに地獄の描写に熱を入れるのか。
修行者としてはあんな地獄の情報なんぞいらないのだ。要らん情報に変に接触すると引っ張られることになる。

その意味では自殺にも問題がある。この地球世界では生きる事に非常に大きなウェイトを置いているので死は破滅であり、終焉であり、自殺は敗北者の犯罪者だというようなニュアンスがある。人によって様々な事情があり、一概に自殺をあざ笑ったり、ヒステリー反応で批判したりする人ばかりではないけれども、問題はそうした周囲の反応の全体性と、それまで生きてきた自殺者本人が「どういう意味で自殺を考えているか」という事になる。

自殺は悪いことであり、自殺者の魂は地獄へ行く、そうした価値観にまみれたままで自殺をした場合はヤバイ事になる。そう考えているのだからそれっぽいところへ行ってしまう。
だから自殺をする場合は「自殺は何ら問題の無い行為」という自分なりの納得を強固にしておく必要がある。絶対にある。ことは善悪の問題ではなく自分の価値観の問題なのだと弁えることだ。

人にはそれぞれ事情がある。生き物にとっての具体的な苦しみというのはあまりにリアルで、活字になった教義なんか鼻息で吹き飛ばす以上の力がある。その力が憤怒や怨念、絶望でしか無いのならば、自殺というのは非常に有力な選択肢になる。

そもそも体験は個人的なものであり、それ自体で閉じた一つの宇宙なのだ。他者がどうこう言ったところで何の意味も無い。他者だからだ。
そして他者が存在するということがこの宇宙であり、地球だということなのだ。自我は自己自身を定立する。そして自我は自我でないものを自分の前に置く。
それが存在というものである以上、全ての答えは自分で出すしか無い。たとえその自分が殆ど無限に分割されたものであったとしてもだ。
その結果が自殺ならば全くそれで問題は無い。世界には自殺者を救済する宗教や神だっている。それを利用したっていい。

そういうわけで自殺を考えているならば一神教は止めておけと言いたい。キリスト教に汚染された日本の仏教とか神道も止めておいた方がいい。日本の仏教は大乗仏教なので自殺は絶対駄目だと言いたくなる気持ちも判るが、余計なお世話というか、死ぬことをガチで考えている人間に何を言おうが門外漢の戯言でしか無い。

それにそもそも大乗仏教はブッダの残した仏教なのかよ? という問題もあるし、仏教ならばもっと古いもの、理想を言えば上座部などから特に古いものを選んだ方がいい。なにせブッダの十大弟子にも自殺者がいるくらいなのだから。
もしくは自殺OKなシステムに組み替えた自分流の一神教を使えばいい。キリスト教なんか非常に柔軟だからイケると思う。

自殺にせよ寿命で死ぬにせよ、そもそも死んだらどうなるのかという話にも少し触れておくと、「死んだら別の夢の中で目覚める」と言っている覚者がいる。それとこれはうろ覚えなので確信は無いが、ブッダもそう言っていたような記憶がある。
つまり見たい夢の中で、自分が望む夢の中で目覚めるということだが、この意見の前提として「夢と現実には本質的な差はない」というのが含まれているのが重要だ。この現実も夢の一種なのだから、別の夢に移動するだけという理屈だ。

書くべきかどうか悩んだが、やはり書いておこう。
夢と現実には本質的な差は無い。その意味で現実というのは自由に抜けることの出来ない夢だと言い替えてもいい。
はっきり言ってしまえば現実はその点においては悪夢の一種だと言える。

知人に時々別の世界へ行く人がいるが、そこから戻される時には「眠くなる」という事を言っていた。つまり眠ってしまうとこっちの世界(つまりこの現実)に戻されてしまうわけだ。
だから彼は眠らないように必死に頑張るが、眠気に負けていつも戻されてくる(笑)

別の知人には、瞑想をしていると通常の現実の中に在る状態が眠っている状態で、その事に気付くと言っている人がいる。何でも瞑想中は単に寝ている状態(つまり日常意識)よりは、目が覚めている状態に近いので、そこから必死に「眠らないようにしている」感覚があると言っているのだ。
意識の連続性を繋いでいく作業が、寝ている状態から起きようとしてる感覚に一致すると言うのかも知れない。面白い報告だと思う。

ただ、夢から覚めても別の夢の中というのは御免蒙るという人もいるだろう。
まさしくそういう人は、悟りを開いて夢そのものから脱出するしか無い。
ドン・ファン風に言えば「お化け屋敷の別の部屋に移動するのではなく、お化け屋敷そのものから出てしまう」という事だ。
しかし別の夢に移動したとして、それがジャイナ教的地獄だったらたまらんと思う。思うどころか実際たまらん。それは壮絶すぎて断末魔以外は何も感じられないだろう。

だから生きてる内にそうでない夢を最初から準備しておくのが賢いと思う。
それがなろう的俺TUEEE世界でも、この現実と似通ったしかしダイバージェンスの大きな世界でも何でもいい。自分が好きなものなら。
まあ夢を準備した段階でそれは達成された現実でもあるのだけれど、ともかく「この自分が」という意味で言えば、死んだ時の準備は必要だ。

ではもし死んだら終わりと考えていたらどうなるか?
死ねば終わりとしっかり考えていたならばその通りに消滅する。
ドン・ファン風に言うならばイーグルの餌になる。

そして死後のことについて何も決めていない場合(考えていない、ではない)は漠然と自分が感じている結果が反映される。
要するに何となく的社会常識が反映される転生か、消滅するかする。
これは物凄くフェアじゃない事実なので注意しておいた方がいい。

だから輪廻転生は有ると言えばある。無いと言えば無い。有るとも無いとも言える。
上に書いたように消滅する場合もあるので、輪廻転生は決して絶対の法則では無い。
例えば一神教には輪廻転生はないとされている。死んだら地獄行きか天国行きだ。
道教なんかもそうだし、むしろ輪廻転生はマイナーな信仰というか、信念体系と言ってもいいのではないか。

ただし近代魔術団体やら神智学やらから出て来た、言わば秘教的キリスト教を掲げる連中の中には輪廻転生を認めている集団もいる。けれどその出所はインドだ。
例を挙げればその大手の一つがシュタイナーの人智学で、それによれば人間の転生は2160年間に男女1回ずつ、そして人間は絶対に人間以外には転生しないとされている。

この意見はチベット、中国、そして日本の仏教に思い切り反するんだけれども、その辺どう言い訳するんだろう? とか少し興味があるところだ。シュタイナー本人やラファエロとかのビッグネームにも思い切り例外が出ているし。ただ大体一神教は自分以外は全部悪魔で気違いで堕落したクズとか言いたがる傾向があるので、どうせろくな解答は得られないだろうなとは思う。

結局、これは輪廻転生を受け入れるかそうでないかという話であって、煎じ詰めればその考え方が好きか嫌いかという話でしかない。そこに大袈裟な宇宙の法則だの霊的進化の法則だのというものなぞありはしない。ただしそれがあると思っている人には見えるし、感じられてしまうところが問題なのだ。

同様に前世も有るとも無いとも言えるもので、前世が何かと言うより、誰と繋がってそれを前世とするかと言う方が私の感覚としては正しい。この繋がりのパターンが色々と見えるので霊能者ごとに前世リーディングの結果が違うのだろうと私は考えている。ヘミシンク的な意味でのメンバーとかガイドとかは私に言わせれば「意識高い系自分」とかそんな感じになる。

続く。

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