才能は残酷だという話

才能は残酷だ。理由が無いから。
持てる者と持たない者という現実だけがあるのが才能だ。
前回書いた視覚化の話にしても、生れつきの霊視能力を持つ人がいる一方で、ヒーヒー言って修行しても全然視覚系の開花が無い人がいる。

本人的には悲しい話であり、悔しい話なのだが、その悲しいついでにおかしい話(怪しいとも言える)を書こうと思う。

つまり自分が興味の無い分野に才能が有った場合だ。

例えば瞑想系の修行がやりたくて憧れて、座禅に進んだが全く才能が無く(適合性が無く)、興味も無いし好きでも無いけれど、仙道とかハタ・ヨーガがドカンと効果出ましたというような場合だ。作家の二葉亭四迷みたいなタイプと言ってもいい。これは悲惨というか、一種コメディの様相を呈することになる。

そこまで行かなくとも、以前書いた八極拳の李書文のように他の門派にバッチリ相性があるという場合もある。でも李書文の場合はどうも少林拳に未練が無かったようだから、とにかく功が成ること、強くなることが目的だったのだろうと思う。

そして八極拳士として最強最高の境地にまで入ったのであろうし、本人自身、熱狂的な八極拳信者になったというからそれでいいのだが、問題は何かの才能を持っていても、それが自分の求める才能では無い場合はやっぱり悲惨なことになるという事だ。

例えばゲーテはそうではなかった。八面六臂の才能を発揮した怪物だが、彼は絵に関してだけはその才能を全く持ち合わせていなかった。

しかも悲惨なことにゲーテは画家として大成することを願っていた。随分長いこと努力したあげく、中年になって遂に「自分は絵に関しては才能が無い」と諦めたらしいが、かなり辛かったろうと思う。ゲーテは画家になるために相当な努力をしていたからだ。
でも以前ゲーテのデッサンだか何だかの家の絵を見たが、個人的な感想ながら素人目に見ても魅力が無いというか何と言うか、微妙な頼りない絵だなあと感じた。ゲーテが絵を諦めたと言われても、なるほどなと納得させられるものがあった。

一方他の場所でミケランジェロが十五歳の時に描いたというデッサンも見たことがある。
こちらは息を呑むとはこの事かと思った。何でも十五歳のミケランジェロ少年は、自分の描いたそのデッサンを見て、どうやら俺はこっちに適性があるからこの方面に進もうと決めたらしい。まあそうなるだろうなと思う。

才能は残酷だ。理由が無いから。けれども、もしも人が「それ」を求めて歩むならば、その道では才能などというものは存在しないと思う。前にも書いたが「求めよ、さらば与えられん」だ。

実際にそうなる。ただし時間がかかるのでその間の生活費が無ければ駄目だが。
ギリシア人も慨いたごとくに我々はまず自分の胃袋を養わなくてはならないのだ。
そしてここに、ブッダの過酷さが現れているわけだ。働いてはならないというブッダの教えは餓死とセットの、つまり餓死を受け入れた上で成り立つメソッドだからだ。

ここに神秘修行の過酷さというか、世間的な意味での頭のおかしさが現れている。
世間的にはとにかく生きる事にウェイトがあるので、生死を度外視した修行法などナンセンスでしかない。

けれど神秘修行の世界ではそれは全然ありなのだ。全く問題ない。
そこに疑問を感じるような人間はそもそもスタートラインに立てていないのだからお呼びではないというわけなのだが、でもブッダの教団には在家信者もいたわけだ。托鉢に生死を懸けていたのは出家信者。つまりフルタイム修行者だ。要するに地球という環境があり、人間社会という名の悪夢がある限り、そこに折衷策がどうしても生まれてくるという話だ。

ラジニーシ的に言えば世間はABCを語る。語れていないかも知れないが、少なくとも世間にはABCを語りたいと思っている連中がいる。
一方覚者はZを目指しているからX位から話を始めたい。

ところがABCとXでは距離が遠すぎて全く話が通じないわけだ。
世間から見ればABCですらちょっとアレな世界の話なのに、Xとか言いだした日にはもうまさしくお話にならない。

ある神話学者の言葉を借りれば、肉欲の海で溺れる幼稚園児の世界にいきなり大人が現れても理解なんてされるわけがない。そんなものは宇宙人とか妖怪にしか見えないという話だ。

で、こう書くと高踏的だという読み方をする人がいる。まあそれはそれでいいんだけれど、魚には山羊の気持ちはわからないというような話なのだ。実のところは。
つまりもうこれは種の違いのような話であって同じ枠内の話ではない。
どちらの方が偉いとか、上とかという話ではないのだ。

例えば知人のフルタイム修行者も人畜無害な顔をして、世間的に見た場合には凄じいことを言う。
物凄く貧困な表現で恐縮なのだが、一般的に言うならば「狂ってる」と言われるような意見を真顔でしゃあしゃあと言う。
診療内科で診察を受けさせれば間違いなくお薬を笊一杯出されそうなレベルだ。

ただし過激とか、偏っているというのではない。だからサリンを撒いたり通り魔になる可能性など微塵もない。何故なら本人曰く「社会にはそんな価値はない」からだ。では興味があるのは何なのか。自分の神秘修行だろうか? そうとも言えない。

強いて言うならば、この知人は自分が死ぬ時をただじっと待っている。そして極力何もしないでいようとしている。その態度は獲物を待つ狩人のそれに近い。
エネルギーがニュートラル化に向かえば、世間的な意味での活動は減速し、やる気がなくなり、ぐうたらな反社会的傾向を持つ人間になるという好例だ。

さて、この知人が世の中の人間より上等だろうか?
間違いなく一般社会はそんな判断は下さないだろう。落ちこぼれの屑と言って判断を済ませると思う。
それは正しいのだ。一般社会の価値観においては。

問題は神秘修行の価値観においてはそうではないことで、そこの区別をしっかり付けていかないとヤバイですよという話なのだ。
そうでないとインチキスピリチュアル業者などに騙されることになる。

これもまた別の知人だが、とある有名な看板を出しているヨーガ団体に500万円ほど毟られた人がいる。彼は今ではその団体とはすっぱり切れて、今度は別のこれまたインチキ団体に所属して楽しくやっている。何故インチキだと判るかと言えば、その団体の代表と来歴を調べたからだが、当然、件の知人はそんな調査はやっていない。愛だの霊的進化だの不老不死だのと言いながら覚醒を目指して毎日楽しくやっているようだ。悪い人ではないので見ていて切ないが、口を出せば間違いなく問題になるから、こちらとしても何も言えないでいる。

この知人のことを先のフルタイム修行者に話したところ、「その人が本当に覚醒したいのならば、今すぐ全財産を捨ててホームレスになればいい。そうすれば可能性が出て来るのではないか」と言われた。件の知人はかなりの財産家だが、そんなこと出来るわけがない。

しかもホームレスになって高級住宅地の瀟洒な一戸建てから橋の下へと生活環境を移しても、それで100%覚醒に辿り着けるとは限らない。
餓死だって有り得る。でもそんなのはフルタイム修行者からすれば当然織り込み済みの事柄であって問題ではないのだ。

つまりはどうでもいい。何がどうなっても何もかもどうでもいい。それも投げ遣りになっているのではなくてそもそも興味が無い。ウンコも金貨も全く同じ意味で価値が無いというやつなので、これはもう世間的な価値体系、世界像からは話が出来ない。
だから魚と山羊の違いだと上で書いたのだ。

生死はどうでもいい。成功も失敗もどうでもいい。ところが、真実求めていれば必ず到達するとも言う。ただし本気にならなければならない。「本気です」などと言う気も起きないくらい、何も感じないし何も考えられない、何をやっているかすら判らないというくらいの本気のことだ。そうすれば到達する。私もそう思う。書いていて矛盾していると思う。でもそうなのだ。神秘修行はそういう世界なのだ。

だから前回書いた「スクールの違う行法は混ぜない方がいい」という事についてもそれは当て嵌まる。
一方で必要ならば自己判断で行法を混ぜろと言い、もう一方で行法を混ぜる事はやらない方がいいと言うのは全くの矛盾だ。

しかし神秘修行は神学や哲学ではない。矛盾などを気にしていたらやってられないのだ。
ガッザーリの言葉を借りればそれは知の問題ではなく信の問題だからとも言える。
これをラジニーシ的に言えばマインドの中で何をやっても無駄だという事になるだろうか。
マインドというのは心とか知性とか、とにかく普通の人間が自分で手の届く範囲の全てのことだと思えばいい。

だから神とか信仰について延々と議論を重ねてきた神学とか哲学は、その枠内に留まろうとする限りは、絶対にその求めるところのゴールには到達できないという事になる。マインドでマインドをどうにかすることなど絶対に出来ない。
土俵違いというか手法が悪いというか、とにかく構造上の無理があるからだ。

例えるなら馬に乗った騎士が最強なのはあくまで平原だけであって、水中ではないのだ。
そもそも水中でスーツアーマーなりプレートメイルなりを着て戦うのはおそらく不可能で、多分溺れ死ぬ。
ついでに言えば空中で戦うのも不可能だ。空中で戦えるのは魔法使いや超能力者といった連中だろう。

そこでマインドが吹き飛ぶほどの強烈な体験が必要になるわけだ。
前回も触れたアウグスティヌスやガッザーリなどがそう言っているけれども、こちらは体験しなければ絶対にわからない世界であり、そこに大きな問題がある。

つまり全くその通りなのだが、問題は誰もがそうそう体験を得られるわけでも無いという事だ。
これも一種の残酷なる才能の世界なのだから。

それに体験が決定的と言えども、個人的な法悦体験を囀るだけでは駄目だとガッザーリも言っている。そうだろうと思う。
けれどもやっぱり神秘体験は動物園のインタビューのようなものであって、例えるならばキリンが主張した内容を次に出て来たカバが否定するような業界であり、それこそ複雑怪奇な信の世界の特徴なのだ。
つまるところは「我こそ最高の真理なり」と言ったとき、その我とはなんぞやという話なのだろう。

行法を混ぜるのは止めた方がいいというのは高藤さんに限らずあちこちから聞く話だし、その理由もちゃんとあるのだが、しかし大概の場合それでもやらねばならないのが現実というわけなのだ。高藤さんだってクンダリーニ・ヨーガを併修している。

つまり殆どの神秘修行者が、あちこちの行法を混ぜながら自己流を組み立てていかなければならない境遇にあるだろうという事だ。
これは霊統と、そして神秘修行と通常の習い事とか学問とかの方向性の違いに理由があるのだけれども、一番の理由は時代ではないかと思う。フルタイム修行者とパートタイム修行者のところでも書いたが、現代はそういう時代なのだ。

霊統というのは単純にそのスクールのエネルギー的根源がどこにあるかということ。
例えばキリスト教はたいていどこでもイエスの神性を認めていると思うのだが、イスラム教は絶対に認めない。イスラムではイエスはただの預言者の一人だからだ。
ところがキリスト教とイスラムの崇める神は共通ときているわけで、じゃあこの2つの行法を混ぜるとどういうことになりますかね? という話なのだ。

方向性の違いというのは、実は神秘修行の世界というのは師が弟子を捜して捕獲する世界なので、弟子の側から師匠を捜して入門する世界では無いのだ。通常の習い事では弟子が師匠を求めて歩き回るので、それとは逆になる。
実際には弟子からしたら、そうそう上手く師匠と出会えるわけでも無いし、師匠の側からしても理想的な弟子(後継者)をそう簡単に得られるわけでもない。

そこで仙人などは弟子候補が出てくるまで気長に何百年も待ったりするのだが、それは仙人だからできる話であって通常は無理だ。ここだけの話、実は輪廻転生にはその意味での保険という効能もあると思うのだが、これを書き出すとまた脱線してしまうので、それはさておき、誰もがカスタネダのように上手く師匠に捕獲してもらえるとは限らないと来れば自分でやるしかない。

そこでスクール選びや行法の相性チェックが必要に(と言うか必要悪に)なってくる。やらざるをえないのだ。それを。
これこそ現代人の修行環境の最大の特性かも知れない。ババジ(ラヒリ・マハサヤ系統の)は偉大なりと思う。

つまり本来秘教的な修行体系というのには大体どれにも指導者がいて、それが弟子を引っ張り上げていくものになっているのだ。グルがいるのは例えば仙道も同じで、何もインドだけではないという話である。何でそうなるかというと、ガチの神秘修行は上達スピードが早すぎて弟子の自己判断では危険だからなのだ。

例えるならば、弟子に山登りをさせると迷ったり崖から落ちたりするかも知れないので、だったら弟子に腰紐でも付けて上からモーターとウインチで巻き上げればいいんじゃね? というのが秘教的な発想法というやつなのである。

だから全ての責任というか、結果は指導者である師匠にかかってくる。
全責任は指導者にある。これは絶対的な事実でどうしようもない。
毎日必死に修行している弟子の側にも言い分はあろうが、霊的な構造としては弟子はただ師匠に引っ張り上げられてるだけだからだ。
そこで神秘修行の入門では師に対する絶対の信頼(服従は信頼の結果だ)が、弟子にとって必要とされるわけになる。仙道などを見ていると入門のためのイニシエーションが4つ有ったり9つ有ったりとまちまちだが、とにかく絶対に必要なのは師匠に対する絶対的な信頼だ。というか本当に必要なものはそれしか無いと言ってもいい。

ちなみに芥川龍之介の杜子春はこのことを匂わす作品だが、原作(と言うか元ネタ)とは違った内容になっているのであれを信じてはいけない。興味の有る人は元ネタの方を読むといい。師の仙人への信頼を持てなければご破算だとはっきり書いてある。

ではもしも弟子の人格やら根性に問題があった場合はどうするか?
例えば弟子が勇気に欠けていたり、忍耐心が足りなかったりしたらどうなのか。
大丈夫。それは師匠が心を砕き知恵を絞って解決してくれるから(笑)
それをするのが師匠の役目であり、仕事なのだから。
そして師匠の一番重要な役目は弟子の自殺を防ぐことだ。これは神秘修行がある程度以上進んでいる人にはすんなり理解できると思う。

以前webで見た話だが、かなり良い感じで修行をしている人が「スピ界隈はおかしい奴が多すぎる。下手に師匠を捜すくらいなら自分でやった方がいい」と言っていたが、まったくその通りだと思う。

神秘修行者と社会性について」にも書いたが、指導者がまともな人格者であることなぞ望めないし、そもそもそんな事を望むような世界というか業界では無いからだ。
とにかく一般的なモラルから乖離してるようなのが結構いるので、被害を受けるよりは自分で修行を進めていった方がいいというのは一理有る。例を挙げれば、師匠選びで最悪のパターンとなったのが一連のオウム事件だと言えば判るだろう。信頼を前提としている神秘修行の最大の危険性を示すものがオウム事件なのだから。

それに真性の覚醒者だとしても、それが師匠として適正がどうかはわからない。
上に挙げたフルタイム修行者の知人については十分に頭がおかしい(世間的には)ことは、ここまで読んでくれた人には通じたと思うけれども、真正な覚醒者だとしたら間違いなくこの知人と同じ傾向を持っているだろうからだ。

因縁的にグルに出会えれば話は別だが(ヨガナンダのように)、まさしく因縁的であるがゆえに、それを得られるかどうかはわからない。
それは宝くじに当たるような話なのか、それとも、そもそもそれは宝くじなのかどうかすらわからない。

全部自前でやるというのは決して悪い方法ではないと私は思っている。

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