ごく大雑把なタントラ仏教系ヨーガの話

 仏教はブッダ入滅して数百年後に大乗仏教が分派として出て来たけれど、その布教市場をどうも社会の中・上流以上に頼っていたらしい。
 一方のヒンズー教は農村社会にがっちり食い込んで凄じい早さで拡がっていった。
 ヒンズーと仏教のマーケット争いはあれよあれよという間にヒンズーの側に傾いて行ったのだけれど、これはまあ「現世は全て無常なる糞」だという仏教と、ごく普通に現世利益を掲げるヒンズーでは最初から勝負は見えていた気がしないでもない。
 劣勢を逆転するべく仏教はタントラとか性ヨーガの世界に入って行くのだけれど、それがいわゆる密教を生み出していく。
 ただチンコを火炎に入れてもセックスしては駄目だとまで言っている仏教が、性の領域に入っていくのは自爆的自己矛盾だったわけで、この問題は後にチベット仏教最大の聖者の一人であるツォンカパが出て来るまで、延々と密教修行者を悩ませることになる。
 無上瑜伽タントラ系の、ガチの経典が成立したのは確か8世紀頃だったと思うのだけれど、それよりも前の時代から密教経典は生み出されていた。
 決定的に密教経典と言える領域に入ったのは確か金剛頂経からで、大日経はまだ過渡的な内容だとかどこかで読んだ記憶が有るが、この辺は記憶が定かで無いのであまり自信はない。
 かくしてインドの仏教は密教の時代に入るわけだが、その頃、西の方から凶悪無比な一神教がインドに攻めてきた。イスラム教である。
 イスラム教徒の軍勢はヒンズー教徒や仏教徒を殺しまくりながら勢力を拡大していったのだけれど、それでもヒンズーが生き残ったのは家族宗教だからという面がある。お父さんが殺されても残された家族が教えを継続していけるからだ。
 他方仏教は、修行者は出家が基本なので行者本人やそのグループが殺されたらそこで伝承が絶えてしまう傾向が強い。要するに外部暴力に対して仏教はヒンズーよりも遥かに脆弱な面があった。
 ヒンズーとの厳しい信者マーケット争いに加えて、物理的な脅威であるイスラムが登場したことで、仏教修行者の間にも「これはもう駄目かもわからんね」という空気が漂い始めた。
 さてその頃チベットでは仏教に熱い視線が送られていて、チベット王はインドにまで人材を派遣して仏教の導入に努めていた。その事もあってインドから仏教の優秀な学僧や聖者達が招かれたり、自分から行ったりして、チベットに仏教のいわば移住が進められていく事になる。
 チベットの王者達は莫大な報酬を提示してインド人の高僧を招いていた。これはもう本当に莫大な黄金を積んだらしい。
 そこまでしてインドからの仏教の取り入れに尽力していたのだ。
 インドでの仏教の命脈は13世紀初頭に後期密教最後の、そして最大の宗教センターであったヴィクラマシーラ大寺院がイスラム教徒によって破壊され、仏教徒達が虐殺されたことによって断たれたが、その運命を予想していたインド人仏教僧達によって後期密教の全てはチベットへと伝えられる事になった。
 かくしてチベットには後期密教が完全な形で伝わったわけだが、どうもその辺があまり広まっていない。
 日本の仏教界とかを見てみると、自分達の方が内容も正確だし上だ、みたいなことを言っている人すらいるらしい。
 そんなことはありえない。日本の仏教は中華経由だし、その総論的な整理は天台宗に依存しているわけで、以前も書いた言語問題などがある。
 一方のチベットはじかにインド人の後期密教の高僧達を呼び寄せ、自分達からもインドに留学生を派遣し、サンスクリットをきっちり学んで本当の本物を求める姿勢で全力を尽くしている。どちらの方がインド仏教に精確な教えかなど言うまでもない。
 例えばヴィクラマシーラ大寺院最後の座主であるシャキャーシュリーバトラは、ネパール経由でチベットに亡命し、サキャ派第4世サキャ・パンディタに授戒している。流派的正当性で言ったらぐうの音も出ない話である。
 かくしてチベットにはインド仏教の法燈が伝えられたわけだが、その後期密教には当然タントラ系ヨーガ、つまりハタ・ヨーガと同系統のシステムが含まれていたわけで、それが表題に掲げたタントラ仏教系ヨーガという話になる。
 これはもちろんプラーナ制御の肉体系の修行法であるから、実質的にはもうハタ・ヨーガと言ってしまって良いと思うのだけれど、上に書いたようにチベット人は正確にオリジナルを受け継ごうとしたから、現代のクンダリーニ・ヨーガとかと内容を比較すると、かなり興味深いことが色々とわかるのだ。
 要するに古い形をそのまま残しているのがチベット仏教のタントラ系ヨーガだという事になる。
 もちろんチベットでもオリジナルはオリジナルで残っているが、他の宗教システムなどを取り入れて構成された流派もある。
 チベット人の歴史観ではインドからの仏教の伝来は二つの時期に分けられていて、それぞれを確か古義と新義とか言ったと思うが、古義の代表であるニンマ派には中国系の禅宗や道教の影響があるらしい。
 現在ではチベット仏教は代表的なものを4つ選んで四大宗派と言うらしいが、その他の宗派もあるし、それぞれの内部に分派もあるしで、チベット仏教と言ってもかなりの数があり、その修行法にも当然違いがある。
 そのチベットで最大の宗派がゲルク派(徳行派)で、あのダライ・ラマの属す宗派になる。ゲルク派の開祖がツォンカパだ。
 上にも少し書いたがツォンカパという人は尋常じゃない宗教的天才であって、後にゲルク派が法王政府を作ってチベットを実質的に支配したこともあり、ツォンカパの考え方がチベットにおける仏教修行のモラルというか、常識観を形成する上で大きな影響を与えたことは間違いないと思う。
 ツォンカパの定めたルールには、戒律を確り守る、顕教を確り学んでから密教に進む、実際の性ヨーガは行わない、などがあるが、タントラ仏教系ヨーガをガチで修行するのは最後の最後だ。
 それも許可制である。密教の生起次第と言われる心身浄化と空の修行を仕上げてからでないと進めない。
 しかも生起次第を仕上げた修行者の内、こいつなら大丈夫だろうという人材を師のラマが選び出して修行を許可するシステムになっている。
 実際には生起次第を仕上げた10人の内、タントラ仏教系ヨーガつまり究境次第に進めるのは精々1人といったところらしいから、いかに狭き門か判ろうというものだ。
 なんでそんなに厳しく制限するのか? ヤバイからである。
 修行に特に制限とかが無かった時代、究境次第の修行をする中で発狂・死亡・廃人が続出し、おいおいちょっと待てよという状態になったらしい。
 本来天地宇宙の道理に従って働いているプラーナを、人為的に制御して悟りという目的を達成しようという修行法である。
 しかもその制御の舞台は自分の体そのものだと来れば、もう考えるまでもなく果てしなくヤバイのは理解できると思う。
 インドのハタ・ヨーガではアーユル・ヴェーダなどを使って安全確保に努めているが、そうした知識は当然チベットにも伝えられているわけで、それでも犠牲者続出したというのだから相当ハードに修行したのだろう。
 以前書いたかと思うが、日本の禅門もこれまたかなりヤバイ流派で、昔の歴史を調べると死人・廃人続出していてタントラ仏教系ヨーガと事情は似たり寄ったりになる。
 要するに神秘修行のやばさというのは瞑想系か肉体系かという次元の話ではなく、そもそも神秘修行自体がヤバイのだという事だ。ガチでやるならば。
 さてゲルク派の場合は生起次第と究境次第に分かれているが、カギュー派にはナーローの六法というものがある。こちらは最初にクンダリーニを点火(いきなりそこから入る)して、その後クンダリーニの炎を使って他の五つの技法を仕上げていくというシステムだ。
 もちろんヤバイ。やばくないわけが無い。カギュー派にも色々な聖者というか覚者というか超人がいるが、最も有名な聖者と言えばミラレパだろうか。
 タントラ仏教系ヨーガには性ヨーガが含まれている。その事が禁欲を超重視する仏教修行者にとって大問題だったことは既に述べた。
 そのテキストとなる後期タントラ経典(無上瑜伽タントラ)はチベットでは父・母・双入不二の三つに大別されるがどれも性ヨーガを含んでいる。
 そこで実際にどうするかという話になる。もちろん実行した修行者はいたし、それで成就した人もいたらしい。実際に黒魔術のような儀式を行った行者もいたという話だ。
 例えば母タントラとされるヘーヴァジュラ・タントラ(喜金剛タントラ)には「悟りのためなら何をやっても許される」と書いてあるくらいだから、それを文字通り実践した奴がいたとしても何の不思議も無い。
 西洋人などが発狂しそうなそうした教えが、必ず暗黒魔界地獄堕ちという結果になるわけではない。まさに性と殺戮のヨーガで悟りに到達した者もいるわけで、ここでも単純な善悪とか一時代的な倫理観で物事を見ると間違いを起こすという好例が見られるわけだ。
 エネルギー的には汚穢の極に持って行ったエネルギーを神秘技法で転換させることで、汚穢の極から、清浄の極へと一気に持って行くというのがそうした流派の発想法だから、理屈としては合っている。両極端は一致するというやつだ。
 とにかく、遠く、ドラヴィダから持ち込まれた女性の持つ本源の力にはそれだけの威力があったわけだが、問題はそれが仏教の戒律とマッハの速度で正面衝突することで、それを解決したのがゲルク派開祖のツォンカパだ。
 ツォンカパは修行者が完全な聖人で、性欲が一切無ければ性ヨーガをやってもよいと定めた。
 もちろんそんな奴がいるわけがない。実質的には現実のパートナーを相手としての性ヨーガを禁じたわけだ。
 だからゲルク派では性ヨーガの実習は観念上のパートナーを用いて行なう事になる。
 ここでちょっと話がずれるけれども、日本のインターネット情報を媒介に発達した、いわゆるタルパをパートナーにしたら性ヨーガが可能なんではないかと思う。それも物凄く理想的な環境で修行できるのではないか。これは冗談では無く、真面目な話だ。
 ツォンカパ自身は自分が定めた境地に達していたとされているが、弟子達が不完全な状態で性ヨーガに進む事を危ぶんで遂に生涯、性ヨーガは実践しなかった。
 そして死の間際に霊的な明妃(ダーキニー)を召喚し、幻身、光明(真の光明)、双入という最終過程を一気に完成させたらしく、そのまま解脱したと言われている。
 幻身も光明もチベット仏教の最終境地を形成するハイテクニックで、特に幻身はとんでもなく異常に難しいと言われているけれども、それを臨終の際で一気に仕上げてしまう辺り、さすがツォンカパと感動せずにはいられない。
 ツォンカパが遷化する瞬間、文殊菩薩が出現したと伝えられているが、さもありなんと思う。

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