心と世界とエネルギーと引き寄せの法則03

最後に肉体を持たない存在達全般について。色々なのがいるけれども、概して連中は人間の出す感情のエネルギーを食う。というかあっち側はエネルギーが全ての世界であり、更に深く見ていくと何もかもがエネルギーになる。エネルギーしかない。無いということは無い。というか「ある」だけが圧倒的に無限にあってそれに粒子分解されそうになってそこで縋ってみたのが「無い」でしたみたいな感じだ。「ある」を表現するための一つのテクニックが「無い」なのだと言ってもいい。だから「無」は作為的なんだと言える。自然なのは「ある」だ。自然というか元々なのは「ある」。

話を戻すがそうした存在を有り体に霊的存在達と呼ぶとすると、連中は人間の出すエネルギーを食う。感情のエネルギーなのだから当然色々な種類がある。それで例えば日本のまともな神社とかお寺や、台湾の道観にいるような存在は、感謝とか喜びのエネルギーを食っている。だから人間が幸せになったり平和に暮らしたり、喜んだりしている状態が連中にとっては望ましい。なのでその方向に人間を誘導しようとする。それがいわゆる人間の考える真っ当な意味での「神様」だ。真っ当で無い神様について知りたければギリシア神話とか北欧の神話とかを読めばいい。ただしそれらが悪神だと言いたいわけではない。人間の事情などに耳を貸さないとは言えるけれども。

真っ当な神様について書けば、例えば天部の神様は人間の相当泥臭い願いでも聞き届けてくれるけれども、それは仏法を宇宙に広めて万物衆生を救済するという目的あってのことだというのが大乗のシステムというか設定だ。御仏の教えに感動した天部の神様は仏法を修行し悟りを目指しつつ、かつ仏法を広めるために尽力しているという設定だ。

つまりお前の望みを叶えてやるから良い子になれよ、そして御仏の教えの素晴らしさを吹聴するんやで? というのが天部の神様の言い分ということになる。天部の神様は大乗仏教の神様なので、生きとし生けるもの全ての平安と幸福、そして救済を願っている。ただ一人として泣く者があることを許容できない。

天部の神々は無限に近い寿命ととんでもない力を持っている。だから天部の神様を裏切るとえらいことになる。仏罰が下るわけだ。マジです。個人的な見解だが存命の政治家でこの仏罰を食らったなと思える人もいるので馬鹿にしてはならない。
けれどもさすがに仏教の神様なので、なかなか命を奪うことまではしないと思う。一方神道の神様は容赦なく不心得者を殺してくるのでその違いは重要だ。

願いを叶えるという意味で言えば、昔から行なわれている願解きは効果がある。次回の願掛けにも繋がるし、願いが叶ったら必ず願解きに行った方がいい。祭祀かそれに近いことをすれば尚よいと思う。なにせ神様方の食べ物を捧げに行くわけだから。

中国やタイ、ラオスの山岳地帯などに住んでいる少数民族の間では独自の民族的呪術信仰が行なわれているが、そこで呪術師が行なう祭祀はかなりの範囲で願解きであるらしい。その結果、共同体の中ではエネルギーの循環と蓄積が成り立っているので、大概のことは呪術師の祭祀で解決できてしまうという。羨ましい話だ。
具体的にはパワースポットに行ったら願うだけでなく、感謝のエネルギーも置いてくるといいという事だ。

それから地球の霊的環境を大体において管理している連中。こいつらは逆にマイナスのエネルギーを食う。というかマイナスのエネルギーを食う連中はかなり沢山いて、決して珍しい存在では無い。まあ平たく言えばこいつらは「悪魔」とか「邪霊」とかそういう連中だと思えばいい。

本当は単純に「悪魔」とか「悪霊」と簡単に言ってしまうには問題があるのだけれども、その話を書くとまた長くなるし、取り敢えず奴らは我々人類にとって何ら利益を齎らさない連中なので、ここでは一括して「運営の連中」としておく。

奴らは人間の怒りとか悲しみ、苦しみとかの重いエネルギーを食うので、そういうエネルギーが増えやすい環境を望んでいる。そして地球はその方向でデザインされている。その意味で地球の霊的環境は最悪の部類に属すると言える。

無論そんな事実が畑の作物である我々人類とかにばれては困るという程度の知能は連中にもあって(ただし連中は脳を持たないので純然たる思考力では人間に圧倒的に及ばない)エサ場の環境を正当化するための活動にも非常に熱心だ。人間は愛を学ばなければならないとか、この世は霊的な修行の場だとかいう観念は、こいつらがばらまいた嘘なので注意が必要だ。宗教に紛れ込まされた義務とか強制系の設定には、こいつらのばらまいた嘘が非常に多い。

何かをしなければならないとか、何かにならなければならないということは無い。
義務も責任も地球の上でしか通用しない分割されたエネルギーだからだ。
人間が生み出し、運営の連中が人間を搾取するために利用しているエネルギーだ。
つまりどうでもいいものなのだ。

「永遠」に触れればそれが判る。全てが遊びであり、人生は始った瞬間から、やりたいことだけをやる残務処理なのだと判る。ただそれが楽しいか苦しいかは全く別になるので、その事を絶対に忘れてはいけない。

何かをしなければならないとか、何かにならなければならないということは無い。
むしろ何もしないことが重要だ。目指すべきは振幅では無く、水平線。エネルギーをニュートラルにすること。クンダリーニを上げると言ってもいいし、中気を貫通させると言ってもいいけれども。とにかくニュートラルになること。それが全てと言ってもいい。

地球は巨大なテーマパークだ。そこを食用作物栽培所にしているのは霊的環境を運営している連中の都合でしか無い。
ただ受ければいい。ただ感じていればいい。
だがそれが出来ないくらいに肉体から入力されてくる情報は威力があって、邪魔なのだ。
例えば肉体が断末魔の状況で、歌って踊れるエネルギーなんか出てくるわけが無い。
絶え間ない断末魔の苦しみを放出して、運営の連中に「エネルギー美味しいです」と思われる以外、何も起きないだろう。

人間はニュートラルではありえない。その存在自体が分割されたものだからだ。
これは空間という事でもあるし、陰陽という事で考えてもいい。
シンボル的には正多面体をイメージしてくれれば一番ニュアンス的に近いかと思う。それぞれの面が選択された(同時に選択もした)局面であり、個性なわけだ。

ちなみに正多面体は5種類しかない。このことも面白いし、重要なことなのだけれど、それは近年で言えば神智学とか人智学、古代で言えばピタゴラス教団の考えてきたようなシステムの話になる。更にそれを順番というか、過去と未来というような時系列で考えた場合は7になるが、これは印欧語族の認識方法というか宗教方法であって、仏教などでは10になる。どちらが正しいという話ではなく、単なる数え方の違いだ。個人的には7で考えて行く方法は見通しが良くて素晴らしいと思う。

肉体をもって生きる以上、そこには必ず偏りというか力みというか無理が掛かっている。
その最たるものが重力だ。しかも重力下で生きるように肉体は出来上がっている。この矛盾を活かす方法、クリアする方法が神秘修行で、つまりは内丹であり錬金術だ。だから道家による仏家批判が出て来るわけだ。仏家は陰神しか作れないというその批判は肉体に対する信念の持ち方の差だ。肉体の浄化という視点についてはインドのハタ・ヨーガと仙道の二流派が最も優れたシステムを持った例として有名所だと思う。

だから信念というか、信教というか何でも良いけれど、自分なりの決め付けを持つのならば自分が愛せるもの、受け入れられるもの、そこに喜びが見いだせるものを抱くのがいい。
そうしたものを何度も自分に言い聞かせていれば段々定着してくるが、この時にエネルギー的な偏りが無いように、そして出来るだけ一つの信念に集中することが大事だ。

つまり自分で自分を洗脳するわけなんだけれども、洗脳の仕方があるということだ。
引き寄せの法則なんかはこの仕組みを利用したものだけれど、あんまりがっちり執着して念を出してもそれは偏りがあるエネルギーになってしまうので、引き寄せの場合には効果を出すのは難しいだろうと思う。引き寄せるためにはそれが実現する宇宙と一体化する必要があるわけで、則ちそれは中立、ニュートラルということだから。信念の強化という意味でならどれだけ偏執狂的に自己洗脳をしても構わない。

とにかくエネルギーを分割してはいけない。けれど瞑想などの行法の結果、自分というのが見えてくると、それこそ国会とかの議会以上の混乱振りが判ってくる。覚者というのはこの猿が喚き立てるような混乱議会を、議長ただ一人に纏めた連中のことだと言ってもいい。同時にいくつもにエネルギーを分割することなく、意図的に一つに集中できる連中だ。だから物凄い事が可能になる。

エネルギーを分割しない最高の方法は何もしないことだが、「しないこと」というのは物凄く難しい。現実の生活という四方八方からの引っ張り合いに抗してエネルギーを真ん中に持っていく必要があるからだ。死力を尽くす必要がある。

上にも書いたが覚者や、または一度なり何回なり到達した人達の中には世界は完璧だとか、全ては美しいとか言う人がいる。
物凄く大きな間合で見ればそれは完全に正しい。ただ「美しい」というのにはかなり感情のエネルギーの傾きが入っているので、別の言葉の方が良いと個人的には思うが。

物凄く大きな間合で見るならば、全ては今のままで何も問題は無い。その意味では世界も何もかも完璧であり、一切の欠陥は無い。
ただしそれは真ん中の視点であり、具体的な個人の実状に関しては全く役に立たない意見でもある。

例えば毎日毎日絶え間ない怒りと絶望に苛まれている人物にそんなことを言っても通じるわけが無いし、エネルギーが低下し過ぎている人に対しても同じように通じない。
彼らは毎日じっとして自分の人生が一秒でも早く終わるのを、死が訪れるのを待っているかも知れない。
風呂はもちろん食事も面倒で、数日に一度菓子パンを一個食って後はぼんやりと横になっているだけかも知れない。

怒りと苦痛を何とかやり過ごし、今日という日が終わったとしよう。
だが明日になれば今日と同じ、何の代り映えもない糞尿以下の一日がまた始るだけだという確信を抱いているのならば、人生を続ける意味など全く無いという結論に到っても何の不思議も無いし、むしろそれこそが正常だろう。
個人が消滅しているレベルでの正解は、個人の役には立たないのだ。

最大公約数的な一般解は、一般解であるがゆえに個別事例では役に立たない。
ヨーガはその辺のことをよく判っていて、誰でもヨーガは自分のヨーガを作り上げるべきだと説いている。かのガンジーもそう言っている。
もっともガンジーにその事実を教えたのは、パラマハンサ・ヨガナンダだという話だけれども。

問題は手法ではなくその本質をどう体現するかということなのだが、人には手懸りが必要だ。それも初心者にこそ必要になる。例えばそれは、あまりに自由度の高いゲームが達人しかプレイできない事にも似ていると感じる。「なんでもできますよ」と言われても初心者は何をやっていいのか、何をやるべきなのか想像すら付かないからだ。
だから戦闘しか出来ない初期のコンピュータRPGが、自由度が殆ど無限のTRPGよりも遥かに爆発的に世の中に広まったのも、それが大きな理由の一つだと思う。

TRPGは面白い。それに習熟すればするほどシステム自体が不要になっていく。何もかも自分で作れるようになるからだというのもあるし、プレイ中の様々な処理の目安がつくようになって、システムを使わなくても大体出来るようになるからだ。乱数が欲しいだけならサイコロを振れば良いだけだし、そもそもTRPGのルールはその世界というかドラマの全てを内包できるようには出来ていない。世界そのものを舞台に、他の人生を体験するというゲームなのだから当たり前だとも言える。規模が大きすぎるのだ。

だから取り敢えずサイコロを振ってみるかという処理が便利になる。ところがそれは特定のゲームに固有のルールではないわけで、つまりはTRPGが上手く遊べるようになればなる程、ルールやサイコロ自体が無くても困らなくなる。

ただしそれは物語を紡ぎ出し、体験することではあるのだけれども、果たしてゲームと言えるのだろうかという疑問が残る。残るが、では全体がゲーム自体だとしたら? という疑問もまた浮かぶのだ。古代のギリシア人は死と眠りは兄弟の神だと言ったが、その二つを区別するのは実は非常に難しいのではないかと思う。

他の人生を体験するゲームであるTRPGは、観客と登場人物自身が同一、つまり不可分であるという非常に面白い構造を持っている。インドの不二一元論(アドヴァイタ)などに触れると、そのことに特に感慨深いものを感じる。世界は劇場であり人生は夢だが、その夢を見ている観察者が存在する。ヤージュニャヴァルキヤよ、お前は「それ」である。というところだろうか。

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