心と世界とエネルギーと引き寄せの法則01

(前置き)長くなったのでいくつかに分割してます。

霊能者によって言っていることが違ったりするのはなんでだろうと昔から疑問だった。
先に結論から言うと、霊能者達が言っていることは基本的に全て正しいのだと今は考えている。

もちろん霊能者が嘘を吐いていたりインチキだったりする場合は例外だけれども、それ以外に関して言えば、基本的に霊能者の言う内容は全部正しいのだと思う。
客だって馬鹿ではないのだから霊能者はきちんと見ようとするし、見えた結果を(凄い祟りなどの大きな問題がある場合は判らないが)そのまま誠実に伝えようとしてくれる筈だ。
だってインチキを除外すれば、わざわざ嘘をこねくり出す方が大変なのだから。
それでも基本的にというのは、霊能者も人間だからどうしたってリーディングの結果に先入観というかその人なりの世界観が反映されるということだ。

例えばある人にとっては金剛薩埵に見えるものが、別の人には大天使ミカエルに見えたりする。それがどちらも正しいということだ。
なんでそうなのか。それは全ての人間はただ一人で1つの宇宙を主宰しており、しかも他の全ての人間とそれらの宇宙は重なり合っているからだ。

わけがわからないだろうが安心して欲しい。私にもどう書いたらいいかよく判っていないからだ。取り敢えず言葉に起こしてみたらそんな感じになるということだ。
そしてその感じというのは私の「感じ」であり、つまり持ち味であり、「偏差」だ。
この持ち味が要するに全ての人間にあるのだ。大日如来やミカエルやシヴァはその偏差の結果の認識に過ぎないとも言える。

だからと言って例えば「Aという神もBという神も見え方が違うだけで同じ神だ」と常に決め付けたいわけではない。そういうこともあるだろうし、そうでないこともあるだろうと思う。
つまり「青いシャツを着ている人は全て同一人物だ」などと言うつもりはない。これはシュタイナーが指摘していた危険性だけれど。

そういうことが言いたいのではなくて、例えば神でも天使でも精霊でもなんでもいいが、とにかく人間側が受け取っているのは観察者主観的な印象であって、そこにはその人なりの受け止め方が出てくるのだという事を言いたい。
そしてその受け止め方を構築しているのが、その人個人の経験とかその他の膨大なデータであり、民族とか信教なんかはそのグルーピングの一種に使えるだろう。

その意味で以下は私の観測結果なので他の人とは違っているものもあるという事を最初に断っておく。

まずは神様。そもそも私たちが「神」とか言ってるものはなんなのよ? という話から。
ここでは人格神的な「神」について述べるけれども、肉体を持たない意識存在というか、とにかくそうした連中の一つとして「神」はいる。一杯いる。

ただそれが人間や宇宙を創造したわけではないので注意が必要。体外離脱などすると色々なことを言う奴に出会すが、基本的には無視して問題は無い。もちろん有用な情報をくれる奴もいるし、助けてくれる奴もいるし色々ではあるんだけれども、交流していて混乱するような場合は無視して構わない。
ちなみにロバート・モンローが出会した奴に「自分は神だ」と主張して「崇拝しろ」と要求してきたのがいるが、ヤハウェの元ネタの一つはこの辺かも知れない。

そしてそうした存在は人間の祈りというか願望で生み出されている場合と、暗黒宇宙のどっかからやって来たり通過していったりする連中がいる。どちらにしろ根本的な意味での創造主では無い。

というか根本的なものというか何というか――私はそれを創造主と呼ぶのには違和感がある。人格的なものではないので。それは「無限」とか「根源」とか「永遠」と言った方が私の場合にはしっくり来る。
それは一体なんですかという疑問が起こる人もいると思うので説明しておくと、要は言葉の言い方の違いだという話になる。
根源は根源だし無限は無限だ。そこから世界とか宇宙が生まれてきている出発点というか流出点だと思えばいい。

こういう事を書くと「じゃあ宇宙に穴が開いているんですか?」と聞かれることがあるが、そういうことではない。そういう風に見える人もいるだろうがそうではない。だが根源の前に立てば直撃的にそれがわかる。
知人に何人か視える人がいる。私は視覚系は駄目なのでよくわからないが、彼らに言わせると「二重写しに見える」とか「ひっきりなしに変化し続けている」とか言う。彼らだったら文字通りの穴として根源を見るかも知れない。

いつも思うのだが、こうして書いていて「いや……妙に違うよな」という感じが付きまとう。
これは根源が中心だからだ。中心は理解と存在が一致しているから(この言い方自体もう本当では無いんだけれども)そこは沈黙の点になる。わかっていれば言う必要も無いし言う気も起きないというのはそういうことで、例えば今私はその中心点から外れているからこうして書いているわけだし、書けるわけだ。まさしく「知る者は言わず、言う者は知らず」という事だが、とにかくそういう事だ。そんな感じ。

「根源」と言わず、どんな言葉で表現してもいいとは思う。
例えばそれが「神」でもいいのだが。
ただし、その場合伝承の過程で必ずそこに人格が措定されてくる事になる。人間というのはそういうものだから。それは肉体というか、五感によって構成されている世界像の強力さであり、言わば宿命だと思う。

まさしくイエスはそれを「神」と呼んでしまったので、そこからおぞましい誤解が数多く生まれてしまったわけだ。それでも聖書は超一級のテキストだし、その周辺にも素晴らしいテキストが沢山存在するのは間違いない。

そしてその辺の事情を知悉して全力で避けてきたのがヒンズーというか、古代インドの修行者達だ。彼らはそれを「それ」と代名詞で表現した。
言葉を使うのならば一番筋が良いやり方ではないかと思うが、やっぱり哲学者とか、そっち方面で脳味噌を動かし慣れている人でないと判りにくい面もある。
つまりは言葉で表現するには問題があるという事で、それは言語がそれ自体で局在化されたエネルギーの一形式だからだ。

例えばここでは「永遠」と呼ぶことにするとする。
誤解を生むと困るので書いておくけれど、「神」とか言いつつ、キリスト教はしっかりとこの「永遠」ということについて理解していて、その証拠もぞろぞろ出てくる。仏教や道教、イスラム教はもちろん、シベリアやアマゾンのシャーマンが保持しているのと同じように、素晴らしい体験と叡智の蓄積がキリスト教にはある。

ただし残念ながら一般のキリスト教信者達の間では、案外とそのことが知られていないという事なのだ。「神の愛は無限であり永遠である」というような言い回しにしても、実は文字通り完全に「そうなんだ」けれども、確かに言葉の用法によってはそうとしか言えないんだけれども、やっぱりそれを信者一般に広めるのは無理だよなと思う。何せキリスト教徒の数は23億人だという。気が遠くなる数字だ。その人達全員に正確な内容を伝えるのは不可能ではないかと思う。

グルジェフが言ったように「黄金の量には限りがある」のだ。それをピタゴラスは「肉は大人の食べ物だ」と言ったわけだが、要は限られているし、得る者しか(得るべき、ではない)得られないという事だ。参考までに物質的な黄金について言えば、なんでも地球全部の金を集めてもプール一杯分にもならないらしい。それもあって価値があるとされるわけだ。

その「一般の人達が考えるキリスト教的永遠」のことを「喩えるなら田舎の国道沿いにある寂れたテーマパークのようだ」と言った人がいるが、痛切かつ適切だなあと私は思っている。同時に普通の信者の世界像の限界を感じて悲しくもあるが、悲しんでる時点でもうエネルギーが偏っている。それこそが問題だ。
繰り返すがキリスト教は「永遠」を知っている。理解している。ただそれが信者の間に膾炙していないだけだ。

では究極的にその「永遠」に実体というか、正体があるのかと問えば、あるとも言えるし無いとも言えるのが難しい。
そもそもそれを言葉なんかで特定しようとすることに意味があるのかと考えてしまうのだが……ふと思ったがフーテンの寅さんだったら「そういうことはあんまり考えない方がいいと思うよ」とか言いそうな気がする。そうだとしたらまさしく賢者の意見だと思う。

それはさておき、この地球、つまり私たちが肉体を持って暮らしているこの地球では成り立つ法則が、別の世界では通用しないということはよくある。
例えばロバート・モンローがある宇宙人に会った時にどこから来たのか尋ねた話がある。
それが遠いのか近いのかという話になったとき、相手の宇宙人は「遠いってなんですか?」と逆に聞いてきた。遠近という概念自体がない連中だったわけだ。そこでモンローは途方に暮れるわけだがそんな感じ。それのもっと甚しいことが「永遠」に近付けば近付くほど起こってくる。

例えばAであると同時にAでは無いとか、地球の常識というか理屈的にはおかしな事が成立してくる。時空間が無くなるのでそうなるんだと思う。
ともかく完全に中心に入ると消えちゃうのでここでは中心圏内と書くけれども、その圏内に入ると何も判らなくなる。判らない事すら判らないというか意味不明前後不明と同時に完璧完全無欠というような状態になる。

そしてそこから外れた途端に言葉が溢れてくる。解釈が始るわけだ。「始めにロゴスありき」というのはこの中心圈からのズレの、最初の段階についての一つの表現だと私は思っている。
気付いた瞬間と言うべきか、「あり」から「我あり」の瞬間と言うべきか、そのタイミングを捉えた名言の一つだと思う。

少し話が脱線するが「ロゴスありき」というのは非常に一神教的というか、一神教ならそうなるよなという説得力がある。ゼウスはアテナを頭から産んだが、男の場合、他に手が無いからだ。言葉であり、論理である。それは神と共にあり、神なのだ。一神教では。

一方女は違う。流れの中にいて連続性があり子供を産む。それら全てが日常で普通なのだから始末が悪い。
女には神話は必要ない。あるのは現実だけだ。神話も伝承も男のためのものだ。

ゼウスの神話が確立されていく過程の中で、男性の色々な面が理想的男性像という形に収斂していくわけだけれども、さすがに男らしさの極致を示した出来映えになっていると思う。少なくともゼウスはオシリスやシヴァのように女の前で無抵抗に寝っ転がったりはしない。絶対にしない。ゼウスにはそれまでの男神には無い種類のプライドがある。それは瘠せ我慢であり、敗北を知りながらなお受け入れない頑冥さだ。現実よりも理想を優先させる妄想力とも言えるが。

けれどもしもゼウスがカーリーに出会ったら、一瞬の内にばらばらにされたあげく、全ての血を飲み尽くされ食われてしまうだろうな(笑)
でもそこがまあまた素晴らしいわけだ。男は。ゼウスは叫ぶだろう。「俺は絶対に負けねえぜ!」と。

一神教と多神教のどちらが優れているかという話は意味が無い。自分に向いている方を選べばいいだけで、要は使い方次第の話だからだ。
知っておくべきはそのシステムの特性の方で、一神教の場合は女神が受け持つべき内容を全て男神が引き受けているという構造がある。そのことを押さえておくのは重要だ。

話を戻す。中心圈にある間は解釈も言葉も一切存在しない。あるのはエネルギーだけだ。後で振り返ってそれを美しいと感じてしまう気持ちは判る。でもそれは価値評定だ。その時点でもうエネルギーが偏っている。
つまり無駄が起こっている。それは邪魔でしかない。全てを捨てろと言ったブッダはどこまでも正しい。

だが入滅に向かう最後の旅の中で、ブッダは繰り返し「世界は美しい」と口にしたそうだ。
時に泣き、時に笑い、喜びに躍り上がり、悲しみに打ち拉がれる。人は喜怒哀楽に溢れ、愛欲に溺れるが、それを知り尽くしていて尚、ブッダは「人の人生は甘美である」と言ったらしい。おそらく穏やかに深く息を吐きながらそう言ったと思う。意外だと言うよりも何よりも、正直この事実は重すぎて私には処理に余るものを感じる。エネルギー的に。

揚げ足を取るわけでは無いが、もしも繁華街の裏路地みたいに生ゴミとゲロと糞尿に汚れていて、人間以外の隣人はゴキブリとドブネズミしかいないような場所であっても、ブッダは「世界は美しい」と言っただろうかと思うことがある。ブッダという人の個性から考えて悩ましいのではないかなと思う。

阿含経に出てくるブッダは口が悪く、何もかも捨てよ。全ては毒でありウンコだというような事を言っている印象があるので、とてもではないが「世界は美しい」などと言いそうもない感じではある。それでも言ったというのだから、つまり肉体の持つ引力というか影響力の凄さは凄じいという事だろう。肉体有る限り、覚者もまた人間なのだ。

一方イエスならば間違いなくゲロまみれの路地裏でも「美しい」と言っただろうと予想する。イエスならば全く動じることなく全ては美しいと言い得るのではないか。
こんな話がある。おそらくはペルシャの秘教団体に伝えられている話で、ある時イエスが弟子達と一緒に歩いていたら、道の脇だかに犬の腐乱死体が転がっていた。悪臭と惨状に弟子達は顔を背けたが、イエスだけは「ごらん。何て綺麗な歯をしているんだろう」と犬の死体を指して弟子達に語ったという。ここから積極性の行に思考が繋がるのがキリスト教系システムの「らしさ」で、何というか個人的には好みではないんだけれども、すげえなと思う。

覚者の示したものから実際的な行を編み出すという教団の実際性は別としても、こういうエネルギー調整の仕方は、実は物凄く反社会的な面を持っているというのが重要だ。
イエスのこの行為、判断からはいくつかの重要な事実が読み取れるけれども、それは一貫して反社会的なものだからだ。

だから聖者は火炙りにされるのだ。イエスも実際、処刑されているし。
確かスーフィー(イスラム神秘主義)の覚者だったと思うが、火炙りにされながら「神よ。なぜあなたは私に示して下さったことを人々にも示して下さらないのですか?」と言ったという。そういうものなのだ。残念ながら。

「永遠」に対して遡っていくことを霊的上昇と捉えるのは、主にキリスト教を始めとする一神教系の世界観なので、あんまり上昇という言葉は使いたくないのだけれど、まあ別に上昇でも構わない。確かに体感的には上昇という感じを受ける人は多いのではないかと思う。私もそうだった。

他にもインドの行者や、例えばシベリアのシャーマン達もそうであるようだ。彼らの世界観というか異世界構造などからの類推だけれども。
問題はそれを教団のシステム設計に組み入れてしまった場合で、その場合はにっちもさっちも行かなくなるのではないか。一神教がそうだし、南洋諸島の信仰とかを見てもそう思う。それは欠点と言うよりも柔軟性がなくなるというか、個性という意味においてだけれども。

中心圏内に近付いていく過程で二つのルートがあると言ったのはシュタイナーだ。それはアポロンの道とデュオニュソスの道ということだが、非常に言い得て妙だと思う。そう、まさに地下界への道はデュオニュソスによって象徴されるのが相応しい。

この二つの道を秘儀参入者は通過する必要がある。先に前者のルートを取る人の方が圧倒的に多いらしいし、その方が安全かつ順当なのだというが、少数ながら逆の順番で行く人もいる。そして欧米人にとっては覚醒的自己意識が決定的に失われるデュオニュソスの道は恐ろしいものであるらしい。ところがインドでは逆にそれが素晴らしい祝福になる。

アポロンの道は神の完全性を体感する道になるらしい。神の叡智と完全性を直に見、体験するというが、その祝福の後に(10年後とかに)修行者は今度はデュオニュソスの道を歩まなければならないわけだ。その辺の報告についてはバーナデット・ロバーツの著作が最高だと思う。

世に出て行くというのは外部へ開いていくということだ。だから覚者として弟子を持ったり、後に教団を生み出してしまったりした人は、アポロン的な方向の人なのだと感じる。
だからこそ「永遠」の特性というか表現を決める際に、そうした覚者達に愛とか慈悲という方向性を選ぶ人が多いのではないかと私は思っている。

続く。

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