見出し画像

コロナうつ社会とその先にあるもの、東京オリンピック(1)

今月の中頃、厚生労働省が「コロナうつ」と呼ばれる症状について1万人を目処としたインターネットリサーチを実施したようです。

ここ数ヶ月よく聞く「コロナうつ」という言葉。実はあくまで俗称で、その実態を掴みかねているのが実情です。
以下、コロナうつとして挙げられている症例の一例です。

スクリーンショット 2020-09-28 17.03.59

出典:https://ayase-mental.com/%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%AE%E3%81%94%E4%B8%8D%E8%AA%BF/1026/

調査結果の発表が待たれます。

皆さんの中でも、メンタルヘルスに何かしらの問題やこれまで感じたことのない不安に苛まれている方もいらっしゃるのではないでしょうか。僕も先月初めて精神科にお邪魔しました(特にこれといった診断を受けた訳ではありません。)

個人レベルではなく、社会全体も「自粛疲れ」して鬱屈としているのを皆さんも薄々感じていらっしゃるでしょう。

その一方で、東京におりますと、人の流れが戻りつつあるのを肌に感じます。平日の朝晩はラッシュに近い状況ですし、休日の渋谷は人が溢れています。

10月1日からは、Go To トラベルキャンペーンに東京都民も追加される予定です。しかし旅行に対するバッシングは未だ根強く、旅行に行くべきか悩まれている方も多いのではないでしょうか。

このように、外に出たい/外に出てはいけない(出たくない)というアンビバレントな感情の中で、社会が浮ついているように思われます。

このような状況で、「アフターコロナうつ社会」がこの先どのような状況に向かっていくかについて今回は考えてみたいと思います。

喪とメランコリー

アフターコロナうつ社会を考える上で参考とするのが、フロイトの「喪とメランコリー」(1917年)という論文です。

この論文は、端的には「健康的な落ち込み(喪)とメランコリー(鬱)の違いについて」書かれたものです。
最初に、この論文の現在の立ち位置を確認しておきましょう。

対象が心因性に限定されていたこともあったろうが、そのことは十分に成功しなかったようだし、その後のうつ病論には本論文がそこまで影響を与えることはなかった。(出典:横浜精神分析研究会

要するに、実際のうつ病を考える上ではこの論文の有効性はそこまで認められておりません
それゆえ、「コロナうつ」という新しい現象に対して、この文章が一つの物差しになればいい、くらいの軽い気持ちで読んでいただければ幸いです。

日常を失った私たち

人は何か大切なものを失った時、平常とは異なる精神状態におかれます。
そもそも、喪やメランコリーは、この喪失状態から心が回復する過程の精神状態のこと。

その上で、正常な悲哀(喪)とメランコリー(鬱)には大きな違いがあります。

一つ目が、失った対象の性質です。
フロイトにより、鬱病を発症する喪失が、「遥かに観念的な性格のものとなる場合もある」と注意が促されます。

このような喪失が発生したのは確かだと思えるのに、何が失われたかが明確に認識できない場合もありうる。【…】さらに患者本人が、鬱病のきっかけとなった喪失について自覚している場合にも、何を喪失したかが認識されないこともある。【…】喪失したものが十分に意識されている喪との違いはそこにあると考えることもできよう。(「喪とメランコリー」(『人はなぜ戦争するのか エロスとタナトス』フロイト 中山元訳

多くの人にとって、「かけがえのない日常」という形の定まらないものが失われたコロナショックは、メランコリー発症のトリガーになりかねません。

二つ目が、症状の違いです。

メランコリーの症状として「深刻な苦痛に貫かれた不機嫌さ外界への関心の喪失愛する能力の低下あらゆる行動の抑止自己感情の低下など」が挙げられます。
その多くが、喪と共通なのですが、1番の違いは「自己感情の低下」、もっと言えば「鬱病の患者の厳しい自己卑下」です。

喪では、外界が貧困になり、空虚なものとなる。ところが鬱病では、貧しくなるのは自我そのものである。

皆さんの中でも、何にも興味が沸かなかったり、或いはひどい自己嫌悪に落ちこんでしまっている方がいらっしゃるのではないでしょうか。


在宅勤務なのにやる気が出ず、SNSなどを見てるうちに気付いたら夜。急いで仕事をしてはひどい自己嫌悪に陥ってしまったり。夫婦二人家にいるのに家事が進まず、些細なことで揉めてしまったり。
自分の能力や未来に不安を覚えて転職サイトばかり見てしまったり。

私の周りでも、これまで感じたことのない悩みや感情に囚われている人が多いように思います。

その意味で、コロナうつはメランコリー的症状を多く含んでいると言えるのではないでしょうか。

愛と憎しみの対立

分析は進みます。
フロイトはメランコリーの進行する心の内に、「愛と憎しみの対立」を発見します。

愛する対象そのものは放棄されたはずなのに、対象への愛だけは放棄できないと、その人はナルシズム的な同一化へと逃げ込む。そして愛する相手の代わりに自我を備給の対象とするが、その対象に憎悪が働くようになる。そして自我を罵倒し、侮辱し、苦しめることで、サディズム的な満足がえられるのである。

ここでは「愛する対象を失った時、愛の対象を捨てきれず、自分の内部に愛するものの一部を投影しては、それを自分自身で攻撃してしまう」と言ったことが書かれています。

この分析は、アフターコロナうつ社会を考える上で重要だと思います。
つまり、個人の内面に以上のような分裂が起こるとき、社会にもまた、同じような分裂が起こりうるのではないか?という仮説が立てられるでしょう。

コロナによって社会の分断がこれまで以上に進んでいます。

旅行したい人とそれを反対する人、或いは芸能人が外出することへの攻撃。スーパーに殺到し買い占める人とそれを非難する人、夜の仕事を続けざるをえない人とそれを攻撃する人。通常に出勤したい人とリモートワークを続けたい人。
双方に陣営がついてはSNSで応酬し合う様子が、SNSで頻繁にみられます。

多くの人が日常に戻りたい/戻れないというアンビバレントな感情に苦悩しており、その感情が他者に対する攻撃性へと転換しているのでしょう。

このように、「かけがえのない日常」を失った私たちの社会は、「喪とメランコリー」に支配された状態と言えるでしょう。

待ち受ける祝祭?

それでは、「喪とメランコリー」に囚われた個人/社会は、この先どのように進んでいくのでしょうか。

フロイトの論に戻ります。

鬱病にみられる奇妙な特徴として、それが症状的には正反対な状態である躁病に転換する傾向がある。【…】多くの鬱病の症例は周期的に再発するものであり、再発する前には、躁病の傾向がまったくないか、ほとんど見られないのである。

躁病とは、気分が異常に高揚し、夜も眠らずに、支離滅裂な言動を発したり、危険を顧みなくなるような状態になる病相のことを指します。(wikipediaより)

要するに社会が臨界点に達した時、暴動まがいな祭り(祝祭)や乱痴気騒ぎが起こる可能性が十二分にありうるということです。

精神分析家の斉藤環さんのnote記事「コロナ・ピューリタリズムの懸念」においても、以下のような高らかな宣言がなされています。

COVID-19のパンデミックは、いつかは終息する。それは間違いない。その後に何が来るだろうか。確実に言えることは、「親密さ」の禁欲がただちに解除され、祝祭的な反動が訪れるであろうことだ。その後にいくつかの後遺症を遺しつつも、徐々に「経済」と「社会」が、そして「日常」が回復されていくだろう。むしろそうあらねばならない。(筆者太字)

コロナを「乗り越える」

一方で、社会が「喪的」にコロナうつを乗り越えるとき、暴動/反動を防ぐことは可能でしょう。

フロイトは喪的な経過について以下のように述べています。

愛する人を失った者は、現実を吟味することで、愛する人がもはや存在しないことを確認する。そこでその者は、失われた対象との結びつきから、すべてのリビドーを解き放つべきであると認識するのである。【…】正常な状態とは、現実を尊重する態度を維持することである。

奇しくも私たちが最も恐れているのは、人が大量に接触する場。
すなわち祭りです。

私たちが「現実を尊重する態度を維持」してコロナを乗り越えるとき、
暴動ではない新しい「祭り」があるはず。

つまり、これからのまつりのあり方を見ることは、これからの社会のあり方を見ること
と直結していると言えるのです。

次回予告

菅首相は来年には東京オリンピックを開催する意向を発表しています。

東京オリンピックが妄想・分裂に塗りたくられた「躁的」な祝祭となるか

(個人的には、ミッドサマーの「皆で感情を増幅し共有する」一見幸福な共同体のあり方は、裏側で分裂を強要する躁的な祝祭のイメージにぴったりでした)

画像2

コロナという現実と向き合った「抑うつ的」な、統合と協調の「ハレ舞台」となるか。

東京オリンピックはまさしく、その後の日本のあり方を象徴するものになるのは間違えなさそうです。

というわけで次回の記事では、
「バーニングマン」などの事例を見ながら、コロナを乗り越えた新しい「まつり」のあり方を見ていきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?