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カミカワ

カミカワは腰の辺りまである髪の毛をいつも三つ編みにして、化粧らしい化粧もしていない上に縁なしのメガネをかけていた。描写ではなく、複雑なマチエールで味のある画面づくりに重点を置いた絵を描いていて、それはまさしく入るべくして入った油絵科といった感じだった。正直言って技術的な意味では上手くはなかったけれど、大らかな性格を反映したスケール感のある絵を描いた。

ぼくと大分から出てきたカミカワは高校3年生時の年明けからはじまる美術予備校が主催する入試直前講習会で同じアトリエになり、その後3月中旬までとくに会話をするわけでもなかった。他の現役生はどうだったのかは知らないけれど、3月頭の芸大の一次試験と高校の卒業式の日にちが被ってしまい、ぼくは卒業式に参加することなく高校生活を終えた。講習会には青森出身のシラタもまた現役生として講習会に参加しており、3人してぼくの高校の先輩に当たるヤマガタという、当時芸大の学部生の指導の元で絵を描いていた。カミカワと会話を交わすようになったのは3人揃って浪人生となってからだったので彼女のその当時の絵は観る機会がなくて覚えていないけれど、シラタの絵は講師たちからも見込みありと思われていたのか現役生としては随分と良い評価をいつももらっていたのでよく覚えている。それに引替えぼくの描く絵は自分でも分かるほどどうしようもなくひどくて、どうにかしたいという思いはあるもののどうしていいのかさっぱり分からず、また講師の提案するアドバイスもぼくの頭の中で具体的なイメージとして湧いてこないものだからいつも散々な出来映えで講評会は苦痛の時間でしかなかった。その当時ぼくたちのいたのは一号館の一階奥にある1-5と番号の振られた大きなアトリエで、その横に申し訳程度の添え物のような2号館アトリエというのがあった。その建物にまつわる唯一有名な逸話として伝わる昔話があって、シーザーを裏切ったことで名高いブルータスという石膏像をどうしても上手く描くことが出来なかった浪人生が、絶望のあまり2号館内のどこかで首を吊って自殺したというのだった。ウソか本当か既にはっきりとしないほどの昔話であり、しかも自殺の理由があまりにバカらしいので、既にその話は笑い話として連綿と伝えられているみたいだった。とはいえいつも薄暗い雰囲気の2号館はその話を抜きにしても気味悪く、さらにそこにいたのは浪年を重ねたふるつわものみたいな人たちばかりで、現役生だったぼくには恐ろしくて近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。中でも印象に残っているのはモリグチさんという小柄の男と、その周辺の生徒たちだった。当時はそれが流行りだったのかなぜかその辺りの人たちは皆してロッカーみたいな黒尽くめの格好をしていた。後にモリグチさんと普通に話をするようになって、本館の目の前に実家があるものだからたまに授業をさぼって家にいたりすると担当の講師が迎えにきてイヤになるとか、毎朝本館の大きなシャッターを開ける音がうるさくて、その気はなくても否応なく起こされてしまうと愚痴をこぼすのを聞いた。その他に覚えているのは同じ1-5アトリエでたまに学校に来ては線の細いデッサンを描くモトジマさんという独特な顔つきをしたひとつ年上の女の子で、入試直前講習会の期間中に何かのきっかけで話す機会があったときに聞いたところによると、つい3・4ヶ月前まで日本画科にいたのだという。住んでいるのは所沢方面、その予備校が池袋にあったことを考えると、あまり近いとはいえないところから通っているらしかった。ところでモトジマさんが記憶に残っているのは印象深い顔つきをしていたからだけではなくて、後にぼくが4年目の大学受験に失敗して、他に身の振り方を思い付かないまま新宿の予備校に50%の授業料免除で入学して振り分けられたそのクラスの前年度の生徒に彼女がいたという話を聞いたからで、思いがけない縁に興奮したぼくがめでたく芸大に合格したモトジマさんの絵とはどんなものなのかと参考作品として置かれていた作品をせがんで観せてもらったところ、4年前の、手を汚すなんて考えられないといった印象とは真逆の、身体の中から溢れ出すような過剰なマチエールで埋め尽くされていて、図らずも当時のぼくの目指していた表現をまさにやり尽くしているといった感のあるそれらの絵は、その一年後かろうじて芸大入学するまで亡霊のようにぼくを苦しめ続けたものだ。この話にはまだ続きというかオチがあって、大学入学から更に1年後、絵画棟のエレベーターで偶然モトジマさんと乗り合わせることがあって、池袋の予備校での6年前の入試直前の講習会の時の話を切り出してみたところ、確かにそこにはいたけれど、ぼくのことはまったく覚えていないということだった。もともと6年前に話をしたのも2・3度くらいしかなかったけれど、それを言っても思い出すものは何もないらしかった。おかげでそれから彼女が卒業するまでの2年の間、顔を合わせる度に微妙な会釈を交わす羽目になった。ちなみにモリグチさんはぼくの一年後に入学して、大学生になったのに家の前にいる予備校生たちを見るたびにゲンナリすると愚痴をこぼし続けた。

一浪の頃はカミカワと気が合って、浅草の映画館にオールナイトで黒澤明特集を観に行ったりした。ぼくは途中で必ず眠くなったけど、朝方映画館を出ると彼女はずっとスクリーンを観続けていたみたいで、面白かったといって帰って行った。
2浪目の夏頃だったと思うけど、目黒の方に土日に外部者も参加できるクロッキー教室を開催する予備校があって、普段の授業だけでは飽き足らずに通ってみるとそこにぼくと同じ目的で来ていたカミカワがいて、その頃には日本画に転向していた彼女は池袋の予備校に通うのを辞め、家の近所の小さな絵画教室で絵を教わっていると言っていた。芸大とか美大とかいったものには、あまり興味はなくなったと言っていた。

いつ頃聞いた話だったか忘れたが、子供の頃のカミカワは友だちと一緒に遊ぶついでに当時飼っていた犬を散歩に連れて行って、どういうつもりだったか滑り台の一番上の台の上に乗せ、手摺に手綱を結び付けたのだという。幼少のカミカワと友だちは公園内の他の場所で遊びに夢中になり、ふと滑り台の方を見ると足を踏み外した飼い犬が手綱のせいでプラプラ揺れていたという話には本人もおもしろ話として話していたので大いに笑わせてもらった。これで死んでいたら笑えないかもしれないけれど、生きていたのだからまあ良しとしよう。

兄、姉、カミカワという順番だったと思うけど、彼女には兄弟が2人いた。彼女は、上二人とは異母兄弟なのだと言った。上二人を産んだ母親が死に、その妹が父親の元に嫁ぎ産まれたのがカミカワなのだと言っていた。それに関係してかどうかは忘れてしまったけれど、兄弟とはうまくいっていないというようなことを何度か聞かされた。また、はっきりとは言わなかったけれど、性的なことで父親から受けた扱いのことで、カミカワは父親を嫌っているふうだった。

後に九州のある地方について書かれた文献を読むことがあって、娶った嫁が早死した場合、それを申し訳なく思う嫁側の実家がその姉妹を新たに差し出すのだということが書いてあった。それは大分の話ではなかったけれど、カミカワの家のようなことはよくあることなのだと、なぜかぼく自身を納得させたものだった。

随分前に連絡を取り合うことはなくなって、先の引っ越しの時に連絡先を記した手帳もなくした。30歳までに結婚して子供を産むと言っていたけれど、果たして彼女の望む通りになったのか、分からないままになった。

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