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生きがいは社会の外に置く

最近、社会の内に生きがいを置くことの不毛さと危険さを感じたりする。

なぜならそれは、現代社会の限界に自分自身を落とし込めることになるから。

社会の中にあるもの。

仕事。家族。現代社会で語られる人生ストーリー全般。

そういったものに自分の全てを置き、やりがいを置くこと。

これは社会という騙し騙しの世界に自分の全てを置くことになる。

となれば結局、自分自身も騙す必要が出てくる。

この社会の中で全力を出すためには、どこかで自分を酔わせるしかないのだ。

そうして私は枠組の中に引っ張られ、その中のロールを演じ、自分の感情を揺さぶるストーリーの中に飲み込まれ、モードに入り込む。

この枠組の中では、常に未来に視点が向けられる。

未来の幸せのため。未来の成功のため。未来の準備のため。

そうしてモードで走り続け、一向に来ることのないその未来のために、今日を犠牲にし続ける。

そんな社会の中に自分の生きがいを置くと、いつの日か手痛く梯子を外される。

それは社会の中でキャリアを登れないとか、成功できないとか、そういう次元じゃない。

一向に来ることのなかった未来のために今日を捨て続けた結果、そこに待っていたのは死だけであった。

そういった類のものかもしれない。

社会の中のあらゆる上昇、あらゆる成功が、究極的に不毛であるということ。

そして社会の中に生きがいを置くことで、人は社会に自分の全てを捧げ自分自身を忘れる。それは時に非常に危険であるということ。

そんな社会の中の不毛さ、欺瞞に気づいてしまった時、社会=自分という仮初のアイデンティティは崩れ去り、クライシスを起こすのである。

私の周り、特に中年男性に見るクライシスは、かなりの確率でこれである。

社会は、個人の人生を全てその内に捧げさせるために必死だ。

最近のパーパスというやつもそれだろう。家族の幸せのために働く、というストーリーもそれだろう。

生きる目的を社会の中の仕事や人生と重ね合わせようとさせる。

そうして社会なんてものとは比べ物にならない私たちの人生や生を、社会の中に押し込める。

社会は、個人の全人生、全個人自身を捧げることを私たちに求めるのである。

しかも個人は、主体的な意思で行なっていると自己陶酔してそれを行うのである。

だから最近、自分の生きがいは社会の外に置くことのほうが適切で健全な気がしてきている。

社会の外とは何か。

それは、社会に惑わされた表象知から見ると、悪と呼ばれるもの。罪と呼ばれるもの。恥と呼ばれるもの。無用で、無意味で、無駄なこと。そしてそれは、潜れば潜るほど深淵で、神秘的で、合一的なもの。

そういったものである。

そういった社会の外にあるものにこそ、今この瞬間の絶対性の中に自分自身を溶け込ませることができる。

それが人間の全人を捧げる価値のある何かである。

子どもたちは、それを本能的に知っている。

彼らは無意味で、無用で、無駄なことに、時間と自我の全てを消し去り、没頭する。

そこには何の意味もなければ、未来もない。

ただその瞬間が、彼らの全人生なのである。

彼らはそもそも脱社会的な態度を生得的に身につけている。

そうして徐々に、社会の内に引き込まれていき、脱社会的な態度を忘れていく。

そうして、社会の内に自分の生きがいややりがいを見つけるように迫られる。

そうして、ロールにまみれ、モードを生き、未来のために今この瞬間を犠牲にし続ける人生を生き始める。

その様子を見て人は「大人になったね」と言う。

結論。

社会の内ではどこまでいっても自分自身にはなれない。

であれば社会に飲み込まれず、俯瞰する意識を持ち、その時その時に必要なロールを演じ切れば良い。

そして必要な生活の糧を、最小限の労力で得る。

加えて、得られた余剰分の糧と時間を、全て社会の外で無駄にすべきである。

社会の外では、無駄という概念すらない。

有用無用とは、社会の中の言葉である。

社会の外には、そんな二元性は存在しない。

それが今この瞬間に迸る生と死を流転させるための秘訣である。

そのためにも、無害な社会逸脱者になろう。

社会とは適当にやり過ごす壮大な演劇である。

どうせ演じるなら、どこか茶化してそれを演じ切ればよい。

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