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「私」はどこにも行けてなかった(2023年5月16日時点の「私」の傾向性)

幾度となく内面に向き合い、潜り、全てを吐き出し、浄化し、変容してきたと思っていましたが、私は結局どこにも行けていなかったという事実に直面し、絶望しました。

どこまでいっても「私」という枠組みに絡め取られる。

「私」が、「私」を変容させたと言う。そうして「私」は新しい「私」を着る。

どこまでいっても、どこまでいっても、それはことごとく「私」である。

「私」は非常に巧妙に「できた」「わかった」と宣言する。

しかし結局のところ、理解できる時点でそれは思考である「私」に絡め取られている。

この全てを達観しているか如く語るのも、紛れもなく「私」である。

どこまでいっても、どこまでいっても、「私」が脱げない。

この事実を目の当たりにして、そして諦めようとする時、「私」のこめかみが軋むように痛む。

これは「私」の抵抗なのかもしれない。

しかし、それでももうどうしようもないくらいわからない。

どこに向かえばいいのか。何をすればいいのか。何を意識すればいいのか。

本当にお手上げである。

その事実を、残酷なまでに突き付けられた時、私の頭痛は頂点に達する。

その日の夜、見た夢は、とても象徴的だった。

私は、皆に非難されていた。仕事でうまく立ち振る舞えない私は、多くの人に非難されていた。

なるほど、そういうことか。

「私」がなぜ「私」をここまで思考で作り上げ、頭痛まで起こして抵抗するのか。

それは恐怖を隠し、恐怖を感じる機会から「私」を防衛するためである。

「私」は全てをコントロールしたい。理解可能な状態にしたい。わかったことにしたい。説明できるようにしたい。私が正しいということを証明したい。

だから「私」は思考で「私」を守るのである。

今こうして説明する「私」もそうである。

そして「私」はこの思考力と説明能力で多くの評価を得てきた。

これは「私」にとって、「私」を守るための方法かつ「私」を承認してもらう方法なのである。

だから「私」は軋むような頭痛で「私」を手放すことに抵抗するのである。

もう一つ見た夢は、「私」は友人に無理なお願いをされていた。

「私」はその場をうまく、スマートに、かつ相手の気分を害することなくその申し出を断る方法を必死に思考する。

これも結局、防衛のためだ。

自分が無理難題に巻き込まれること。相手の気分を害すること。結果、「私」自身が気分を害されること。

その事態から逃れるために「私」は「私」を思考で作り上げる。「私」は必死に弁明する。

その「私」とは、妥当で、説得力があって、思考できて、説明がうまく、早口な「私」である。

結局、何度抜けたと思っても、何度変容したと思っても、「説明可能な状況の中で自分を守り安心していたい私」の上で踊っていただけだ。

「私」はことごとく「私」という枠組みに絡め取られている。

その事実に気づいた。

しかし、その夢を見た翌日、「私」の頭痛は消えていた。

そして毎朝日課にしている体感を感じ分けるシャバアーサナというヨガを行った時、いつもより豊かな、かつ動きの大きい体感を感じられた。

これがいいことなのか、悪いことなのか、それすらわからない。

ただ、私の現在地点はここだ。

わかった気になっていたとしても、講釈垂れていたとしても、私は何もわかっていない。どこにもいけていない。

私は必死に泳ぎ、何度水槽を出たと思っても、それは結局、より大きな大水槽の中の小さな水槽だったのである。

そしてその大きな水槽の中から水上を見上げると、水槽の出口がまるで見えない。見上げた先は、空と、水と、水槽の壁が、遠すぎて溶け合っている。そこにあるのはただの水色である。

こうなると、上がこの水槽の出口なのかもわからない。前かもしれない。下かもしれない。いや、今私は、上を向いているのか、下を向いているのか。

私はことごとく、全方位が水色に覆われた水槽の中にいる。

私はどこに行けばいいのか。どのようにそこに行けばいいのか。行くとは何なのか。そことは何なのか。何もわからなくなっている。

ことごとく「私」。どこまでも「私」。どいつもこいつも、あいつもこいつも「私」。何度脱いでも、何度抜けても、「私」、「私」、「私」。

もう、お手上げである。

ただ、師はこう答えた。

「何もわからないということがわかったこと。それでいい。何もわからないという自分の立ち位置がわかったこと。これでいい。」

「こちらの世界と彼方の世界は全てが逆転してる。わかったと思ったのなら、それはわかっていない。足をとられている。」

「私」は、わからない。何もわからない。

私はどこまでいっても「私」である。

それでも「私」は防衛のためにわかったふりをして、「私」を脱したふりをする。

これが「私」の現在地点。

これを書いてわかった気になっているのももちろん「私」である。

さて、ここからどうしよう。

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