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バベルの謎―ヤハウィストの冒険(2007/4/1)/長谷川三千子【読書ノート】

<バベルの塔>の隠された真実。大胆な推理で、旧約聖書
われわれは、「バベルの塔」の物語など、子供でも知っている、充分によく知りつくしている、とおもっている。しかし、ほんとうに、われわれ
はこの物語をよく知っているのだろうか?
これまでの聖書の常識を覆す旧約「創世記」の根本的な読み直し。天地創造からバベルの塔にいたるおなじみの物語の真の姿に迫ることで、一個の大胆極まりない精神の軌跡を明らかにする。和辻哲郎文化賞受賞作。

選民思想

始まりにおいて、神という至高存在があった。ユダヤ教徒にとってヤハウェと呼ばれるこの存在は、イスラエルの民の神に留まらず、全地の神でもあった。その全能は畏敬の念を起こさせるもので、ヤハウェの意志は地理や民族に制限されず、地上に住む者たちは全て、神の思し召しによって与えられ、また取り上げられる。
この神学的背景から、「選民思想」という命題が生まれた。これは全宇宙を治める神が、特定の一民族を選び、他よりも優遇するという概念だ。この思想は、イスラエル国家の成立に伴う暴力行為を正当化する根拠となることもあった。

律法書の作者

古代の書記たちがこの信仰の基本テキストを書き記した。「旧約聖書」の最初の五巻、つまり律法またはモーセ五書と呼ばれるこれらの文献は、現代の学問によって、四つの異なる文書資料から成り立っていることが明らかにされている。
それらは紀元前900年ごろに南王国ユダで成立したとされる
①「J資料(ヤハウィスト資料)
それから約一世紀後に北イスラエル王国で成立したと考えられる
②「E資料(エロヒスト資料)」
バビロニア捕囚の直前に祭司階級の書記によって書かれたとされる
③「P資料(祭司文書)」そして申命記の
④「D資料(申命記:デウテロノミオン) 」である。

ヤハウィスト(ドイツ語: Jahwist)とは、文書仮説で想定されているモーセ五書の創作者である。ヤハウェの名称を使った個人もしくはグループとされる。ヤーウィスト、ヤーヴィストとも。
『創世記』2章4節後半 - 3章では、創造主をヤハウェ・エロヒムと呼ぶ(日本では主なる神または神である主と訳されている)。この物語の部分は、ヤハウィスト資料と呼ばれる(同じくJ資料ともいう)。
以前の学説では、ヤハウィスト資料は祭司記者資料よりも古いとされてきたが、研究が進み、表現形式・信仰内容も知恵文学に近い部分もあり、現在では、上記バビロニア捕囚よりも後代という説が強くなってきている。
この場合も、神話というものではなく、知識階層の人々が自分たちの信仰を執筆しており、ヤハウェ・エロヒムと人間に対し深い洞察がなされている。

これらの文書資料は、パッチワークのように組み合わされて律法を形成している。そのため、通常読むと、一見矛盾する記述に遭遇することがある。例えば、大洪水の記述においては、雨が40日40夜降り続き、その後水が引いていくとある。しかし、他の箇所では、水が150日間地上に満ち続け、地上が完全に乾くまでにほぼ一年がかかったと記されている。このような矛盾は、編集者がJ資料とP資料の記述を混在させた結果生じたものである。

従って、これらの古文書の意図と意味を完全に理解するためには、どの資料から来たものかを特定し、その作者がどのような意図を持っていたのかを考える必要がある。20世紀のドイツ旧約学の重鎮ゲルハルト・フォン・ラートは、J資料の作者を一人の人物、つまり「ヤハウィスト」と見なし、この名無しの賢者が「創世記」の原初史を構想し、その大筋を作り上げたと考えられている。原初史に関わるのはJ資料とP資料のみであり、基本構想はヤハウィストによって作られ、P資料の作者はそれを改作しているのだ。P資料はJ資料に反発し、それを覆すべく書かれたと言われている。つまり、P資料を除いたJ資料の記述を読むことで、ヤハウィストの意図を探ることができるというわけだ。

原罪について

かつて、天地の始まりに、一つの神秘が織り成す物語があった。それは「原罪」と呼ばれ、キリスト教の神学において極めて重要な概念である。神と人、善と悪の認識の根源を探るこの概念は、聖書のJ資料とP資料という異なる文献の狭間を結びつけるために創出されたという、ある種の衝撃的な仮説が存在する。

この舞台はエデンの園、命の木と善悪を司る知識の木がそびえ立つ場所で、アダムとイブ、神への背反の物語が描かれる。アダムとイブ、神のもとに生を受けながらも、神の禁を破り禁断の果実を口にしたため、その罪は子孫である人類全体に受け継がれるという。

しかし、ヤハウィストと呼ばれる聖書記者の眼を通すと、この物語はまた違った意味を帯びる。神、アダム、イブ、そして蛇――これらの登場人物は物語に深い意味を添える。神に反旗を翻した蛇、その蛇に唆されるイブ、そしてイブの後を追うアダム。蛇は悪魔サタンの象徴とされるが、ヤハウィストの筆によると、そこには神の言葉が疑われ、蛇の言葉が真実を暴くという驚愕の事実が現れる

この物語を単なる堕落の譚としてではなく、人間と神、そして地(土)との関係性を探る鏡として見るならば、別の真実が浮かび上がる。神と土の間に存在する分裂、それは地の神である神の存在を危険なものへと変える。原罪の概念は、この物語の真意から目を背けさせるものであり、ヤハウィストにとっては、人類の罪ではなく、神と人の分離を描くための要素であった

アダムはデクノボーのように描かれ、意志もなく禁じられた果実に手を伸ばす。この物語は、子供のような無知を通じて、アダムとイブが親である神から離れ、自立の道を歩み始める過程を描く。これは神と人の親子の別れ、神と地との分離の物語なのだ。

そしてこの物語にはもう一人の天才作者、P資料の作者がいる。J資料の作者と同様に、P資料の作者についての情報は限られているが、彼または彼女が緻密な「神の世界創造」の物語を記述したことは明らかである。材料なき創造、つまり無からの創造を提示するP資料の作者は、このナンセンスとも思えるアイデアを論理矛盾を避けつつ表現する才能を持っていた。

しかし、これら複数の文献と著者が交差する点で、それぞれの意図を読み解く必要がある。異なる背景を持つ思想家たちが集結するとき、新たな発見が生まれる可能性がある。学問的な蓄積を尊重し、思慮深い考察を進めることで、知的にも魅力的な神学のタペストリーが現れるのである。


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