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日本人のための憲法原論(2023/06/26新装版)/小室直樹【読書ノート】


「憲法を語る」とは、すなわち人類の歴史を語ることに他なりません。
憲法の条文の中には、長年にわたる成功と失敗の経緯が刻み込まれているのです。
その長い物語を解き明かすのが憲法学なのですから、本当の憲法研究はとても面白く、エキサイティングなものなのです。
憲法も民主主義も、けっして「人類普遍の原理」(日本国憲法前文)などではありません。これら2つは近代欧米社会という特殊な環境があって、はじめて誕生したものですから、憲法を知るには、欧米社会の歴史と、その根本にあるキリスト教の理解が不可欠なのです。
憲法がどのように成長していったかを知ることによって、おのずと今の日本の問題点も課題も見えてくる。私はそう信じています。
憲法とは何か、民主主義とは何かという原点に立ち返ることこそが「日本復活」 への唯一の方法だと思うのです。
[まえがきより]


☆要約動画の紹介

リヴァイアサンと国家権力: 講演者は、トマス・ホッブスの「リヴァイアサン」を引用し、国家権力がどのように絶対的な力を持つべきかを説明している。ホッブスは、国家権力が人々を制御し、秩序を維持するために必要な「怪物」であると考えていた。
宗教改革と立憲主義: カルヴァンの予定説が近代民主主義と資本主義の「意図せざる生みの親」であるという点が強調されている。この予定説は、神が救済する人をあらかじめ決めているという考え方で、これが後に経済的な行動や社会的な構造に影響を与えた。
ホッブスとロックの比較: ホッブスは、人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」と見なし、強力な国家権力が必要であると主張した。一方、ジョン・ロックは、自然状態をもっと秩序立っているものと見なし、私有財産権の保護という形で国家の役割を定義した。
立憲主義の発展: ロックの考え方は、国家が人民にサービスを提供するものとして、民主主義と立憲主義の発展に大きく貢献した。国家は人民の生命と私有財産を守るために存在し、権力は人民によって制限されるべきであるとされた。
資本主義の起源: マックス・ウェーバーの理論が引用され、資本主義が禁欲的な宗教的背景からどのように発展したかが説明されている。特に、ピューリタンの禁欲主義が、後に資本主義の発展に影響を与えたとされる。
ヒトラーの経済政策: ヒトラーは究極のポピュリストとして、ドイツの経済を立て直すために国債を大量に発行し、重工業への投資を行いました。これは一時的な経済の活性化をもたらしましたが、長期的な視点では持続不可能な政策でした。
領土拡張の戦略: ヒトラーはドイツの経済問題を解決するために、領土拡張を目指しました。これには軍隊を使った実力行使が含まれ、フランスやイギリスなどの隣国の領土を徐々に削り取っていきました。
サラミスライス戦略: ヒトラーのこの領土拡張戦略は「サラミスライス戦略」と呼ばれています。この戦略では、相手国の領土を一気に奪うのではなく、少しずつ、段階的に領土を削り取っていく方法が取られました。例えば、日本を攻撃する場合、一気に全土を狙うのではなく、まずは島根の一部を奪うような形で徐々に領土を拡大していく戦略です。
イギリスの対応: 当時のイギリス首相チェンバレンは、このサラミスライス戦略に対して融和政策を取りました。彼はドイツの行動を一時的なものと見なし、ドイツとの関係を良好に保とうとしましたが、これが後に第二次世界大戦へと繋がることになりました。
チャーチルの役割とアメリカの参戦: チャーチルが首相に就任した後、イギリスの方針は変わり、アメリカのルーズベルト大統領に支援を求めることで、最終的に第二次世界大戦の形勢が逆転しました。

ネビル・チェンバレンと融和政策: ネビル・チェンバレンの融和政策と、それがナチスドイツのサラミスライス戦略を許してしまったことにより、戦争が拡大した。
ケネディとキューバ危機: ジョン・F・ケネディがミュンヘン会議の結果に着目し、大論文を書いたこと、そして1962年のキューバ危機において、彼が融和政策ではなく、強硬な態度を取った。
キューバ危機の解決: ケネディがキューバ危機において、ソ連のフルシチョフに対して強硬な態度を取り、最終的にはフルシチョフが核ミサイルを撤去することで危機が解決された。
外交政策の重要性: ケネディの外交政策がどのようにして世界の破滅を避けたか、そしてトップに立つ人の教養がどれだけ重要か。
ケインズ政策: ジョン・メイナード・ケインズによって提唱された経済政策で、不況時に政府がインフラ投資を行うことを主張。この政策は、不況を乗り越えるために公共事業を通じて雇用を創出し、経済を活性化させることを目指ざす。具体的な例として、アメリカでは高速道路やダムの建設がケインズ政策によるもので、特に有名なフーバーダムが挙げられる。オバマ政権下の政策も、ケインジアン的な要素を含んでいたとされ、太陽光発電やオイルシェールなどの新エネルギー政策に公共投資を増やした。
ケインズ理論の核心は、公共投資によって雇用が生み出され、その結果、経済が活性化し、さらに消費が促進されるという循環により、国家が公共投資を行うことは経済的に有益であり、投じた資金以上の経済効果を生む。しかし、ケインズ政策には批判もあり、その一つとして、ヒトラーの経済政策がケインジアン的だったという指摘がある。ヒトラーは公共投資を通じて不況からの脱出を図り、特にインフレを起こさないように金融政策を巧みに操った。明治時代の日本は、近代化のために天皇の神格化を行った。これは、国家の正当性を担保するための戦略であり、他の国では例を見ない独自のアプローチだった。
伊藤博文ら明治のリーダーたちは、欧米の憲法制度を学び、その基盤となる宗教的な要素、特にキリスト教の影響を理解していた。彼らは、日本においても同様の宗教的基盤が必要であると考えた。しかし、日本にキリスト教を導入することは現実的ではないと判断し、代わりに国家神道と天皇を中心とした宗教的・文化的基盤を作り上げた。これは、日本独自の「OS」として機能し、西洋の憲法制度(「ソフトウェア」)を動かすための基盤となった。伊藤博文は、この国家神道と天皇制をフィクションとして捉え、それを用いて日本の近代化と憲法制定を推進した。これは、民主主義と資本主義を日本に根付かせるための戦略だった。しかし、このフィクションが後に真剣に受け取られ、国家神道が本格的な信仰として受け入れられるようになった。これは、歴史の皮肉として指摘されている。

アメリカと日本の憲法と民主主義:深い洞察アメリカと日本の憲法、民主主義に関する興味深い議論が展開されている。この動画では、特にアメリカの「シビリアンコントロール」の概念と日本国憲法の現状と改正に関する議論。
アメリカのシビリアンコントロール:アメリカでは、大統領が軍の総指揮官として機能し、軍事力を民間のコントロール下に置く。この「シビリアンコントロール」は、軍隊の暴走を防ぎ、民意を反映させるための重要な仕組み。
日本国憲法の改正議論:日本国憲法に関しては、一部の人々が「押しつけ憲法」として改正を主張している点が取り上げられている。特に、徴兵制の導入が提案され、これがシビリアンコントロールとどのように関連しているかが議論されている。
アメリカのエリート主義と軍隊:アメリカの議会議員やその親族が軍隊に行く割合の減少が指摘され、これがエリート主義の増加と関連していることが明らかにされている。議員の多くが軍隊経験がないことが、戦争をしやすくする傾向にあるとの見解が示されている。
日本国憲法の起草過程:日本国憲法の起草過程と、それがアメリカ人によって行われたことの影響についても言及。アメリカ人の民主主義に対する楽観的な見方と、実際に民主主義が根付くのが困難であるという現実が対比されている。この動画は、アメリカと日本の憲法と民主主義に関する深い洞察を提供し、両国の政治システムの理解を深める貴重な資料となっている。特に、民主主義の実践と理論のギャップに焦点を当てた議論は、現代の政治状況を考える上で重要な視点を提供している。


第1章:日本国憲法は死んでいる(23)

あなたは護憲派?改憲派?

私が社会科学を研究しているのは、気の利いた「意見」を言うためではありません。学問とは本来、それぞれの人間が自分の意見を持つための「材料」、言い換えれば議論の前提となるものを提供するためにあるのです。それが学問の使命です。だからこそ、学問には方法論というものがあり、真実の探求が何よりも重視されているのです。
この本では護憲だの改憲だのといった話はするつもりはありません
そんなことよりもずっと大切なことを読者のみなさんにお伝えしたいと私は思っています。憲法をどうするか、変えるべきか変えざるべきかという問題は、この本をお読みになった読者1人1人が決めればいいことです。

日本国憲法は生きているか

・明治22年に制定された「決闘罪ニ関スル件」という法律
・昭和21年に制定された「物価統制令」、これは「終戦後の事態に対処し、物価の安定を確保し以て社会経済秩序を維持し国民生活の安定を図る」
(第1条) ためのもので、本来、終戦後のインフレに対処する目的で作られたわけですから、すでに歴史的役割は終わったとも言えるのですが、これもまだ生きているのです。

殺されたワイマール憲法

憲法は公式に廃止を宣言されなくても死んでしまうことがある
その最たる例がドイツのワイマール憲法(ヴァイマル憲法)。
第1次大戦でドイツが敗れドイツ革命が起き、皇帝ウィルヘルム2世が亡命。結果、ドイツにはワイマール共和国(ヴァイマル共和政)が誕生⇒ワイマール憲法。ナチスは憲法に従って国会選挙で勝利を収め1932年、第一党になる。ヒトラーが1933年1月30日、首相に就任したのも憲法規定に基づいた合法的なことだった。
ワイマール憲法はいつ死んだのか
1933年3月25日「全権委任法(授権法)」成立。ヒトラーの合法的独裁体制。

憲法とは慣習法である

憲法とは、成文法ではなく、本質的には慣習法である。
※成文法・慣習法(不文法[不文律]の一種):国際法もまた本質的に慣習法である。条約に明記されていなくても、慣習として国際的に確立されたルールは国際法であるし、また条約などで明記されていても慣習として行なわれていなければ、そのルールは国際法とは言えない。

「イギリスの憲法は慣習法であり、日本やアメリカの憲法は成文法だ」と習ったことでしょう。
たしかに、イギリスには日本のような「大英帝国憲法」などというまとまった条文はどこにもありません。イギリスの長い歴史から生まれた、さまざまな慣習や法律、あるいは歴史的文書が渾然一体となって「イギリスの憲法」を作っています。
これに対して、日本やアメリカの場合、国の最高法として定められた成文の憲法があります。しかし、たとえ「憲法」と題された法律があったとしても、憲法は本質的に慣習法なのです大事なのは法の文面ではなく、慣習にあるのです。
つまり、たとえ憲法が廃止されなくても、憲法の精神が無視されているのであれば、その憲法は実質的な効力を失った、つまり「死んでいる」と見るのが憲法学の考え方なのです。
だからヒトラーが政権を取って、全権委任法が制定されたら、そこで憲法は死んだと考える。憲法の精神が行なわれなくなった時点で、その憲法は無効になったというわけです。

アメリカ憲法は「欠陥憲法」だった!

1776年7月4日:独立宣言
1787年9月17日:アメリカ合衆国憲法案確定
1788年6月21日:9番目の邦が承認したことにより成立
そもそもアメリカ合衆国憲法には、最初、人権を保証する「権利の章典」がなかった!

権利の章典:1789年に開かれた最初の連邦議会の、最初の会期において憲法修正案が提案された。思想・信条の自由、国民の武装権、刑事事件における被告の人権保護などを含む「修正10ヵ条」は1791年に確定・発動した。アメリカ合衆国憲法では、この修正条項を「権利の章典」と呼ぶ。

当初の合衆国憲法には、信仰の自由や言論の自由などの人権条項が含まれておらず、今日の視点から見ると「欠陥憲法」と呼べるほど不完全だった。この欠陥は、憲法制定会議で反連邦派が猛反対したため、人権条項の導入がためらわれたことに起因する。その後、憲法発効直前に「修正条項」として人権条項、すなわち権利の章典が追加された。これは、憲法が効力を持つ前から修正が必要だったことを意味し、これはまるで家を建ててすぐに補修工事をするような状況だった。当時の合衆国憲法は、今日の基準で考えると、欠陥住宅に喩えられるほど不完全なものだった

ベンジャミン・フランクリがフランスの友人に宛てた手紙の中で、白状している。
インディアンと白人との間に戦われた戦争のほとんど全部は、白人がインディアンに対して何らかの不正を行なったことから始まったものなのです」(猿谷要著『物語アメリカの歴史』中公新書
西部の広大な大地を虎視眈々とねらうアメリカ人は、一方的に先住民を襲い、彼らを虐殺したのだ。

「すべての人は平等に造られている」と言いながら、先住民の人権なんてちっとも考えていない。いやもそも人間だとさえ思わなかった。だから、白人たちは彼らの土地を奪おうが、彼らを殺そうが平気平左だったのだ。
ヨーロッパ人が初めてアメリカ大陸を発見したとき、およそ100万人いたとされる先住民は1880年にはわずか6万6407人になっていた。

黒人奴隷を持っていた建国の父たち

アメリカの黒人奴隷制度は、合衆国建国後に拡大し、奴隷たちは資本主義経済の「商品」として扱われ、非常に悲惨な境遇に置かれた。特に、18世紀初頭の産業革命の影響で綿の需要が急増し、南部諸州での奴隷需要が高まった。アフリカから大量に「輸入」された黒人奴隷は、1200万人から1500万人に上ると言われている。初代大統領ワシントンや3代目ジェファーソンも多くの黒人奴隷を所有していた。ジェファーソンは、黒人奴隷のサリー・ヘミングスとの間に子どもをもうけたことも知られている。南北戦争後に奴隷制度は撤廃されたが、21世紀に至るまで黒人差別は根強く残っている。このような背景を踏まえると、アメリカが真に「民主主義の国」と言えるかは疑問が残る。

ゴールド・ラッシュの恐るべき真相

これは20世紀を代表する伝記作家シュテファン・ツヴァイクの『人類の星の時間』(みすず書房)という短編集に収録されている実話です。

1834年、破産したドイツ人ヨーハン・アウグスト・ズーターは31歳でアメリカに移住し、ニューヨークで働いた後、未開の土地であったカリフォルニアに移住して農園経営に成功する。彼は荒れ地を耕し、数千頭の家畜を育て、家族を呼び寄せた。しかし、1848年、彼の農園で砂金が発見され、この事実はすぐに広まる。ズーターの労働者と他の人々が彼の農園に押し寄せ、金探しを始め、彼の財産を破壊する。彼の所有地は不法占拠され、やがてサンフランシスコの町が形成される。このゴールドラッシュにより、ズーターは一夜にして大金持ちになるはずが、逆に最も貧しい乞食のような境遇になる。サンフランシスコは元々、ズーターの私有地に不法に建てられた町だった。

アメリカには民主主義がなかった

1850年、サンフランシスコ市が自身の所有地に建てられたことで不法占拠と賠償を求めたズーターは、裁判で勝訴するも、その判決を受けてサンフランシスコの住民が暴動を起こし、彼の家族は被害を受け、財産を失う。アメリカ政府は彼に対して何の支援もせず、ズーターは失意のうちにワシントンで死ぬ。この事件は、アメリカが自称する法治国家や民主主義国家の実態とは異なる状況を示しており、19世紀半ばにおいてアメリカには法も秩序もなく、ズーターの人権は守られなかった。これはアメリカの憲法が事実上「死んでいた」ことを示しており、当時のアメリカは無法地帯であったと言える。

アメリカ人は「アメリカは法治国家で民主主義国家だ」と自慢していますが、少なくとも1850年前後、建国から半世紀以上経ってもなお、アメリカには法も秩序もなかった。アメリカ国民であるズーターの「人権」を、アメリカ政府は守ってくれなかったのです。あの独立宣言の高邁な精神はどこに行ったのか。他人の所有地の上に、勝手に家を建て、町を造っても、それが許されるというのでは民主主義国家どころか近代国家ですらない。ただの無法地帯です。おまけにズーターの主張は裁判所でも認められていることではないですか。それなのに彼の家族は殺され、土地は奪われたままで連邦政府もカリフォルニア州政府も何もしなかった。
つまり、19世紀後半において、アメリカの憲法は「死んでいた」のです。
強調しますが、これは何も大昔の話ではありません。たった120年前のことです。そのころ日本は幕末・維新の時代だったわけですが、当時の日本にだってここまでひどい話はないでしょう。

なぜ、日本の憲法論議は不毛なのか

憲法は慣習法であり、成文法ではないのです。そして、憲法を生かすも殺すも、結局は国民次第だということです。
日本国憲法は生きているのか死んでいるのかという話を、日本の憲法学者から聞いたことがありますか。そんなことが書かれている憲法の本がどこにあります。みなさんも憲法の本というのは、前文から始まって、1条ずつ説明してあるものだと思っているでしょう。
※残念ながら、多くの日本の憲法学者には「憲法が生きる、死ぬ」という発想があまりないようだ。その原因は、憲法には事実上「事情変更の原則」が成立するのに、日本の憲法学ではこの原則の適用を好まないことにあると思われる。
言うなれば憲法学者には「憲法の脳死判定」のチェック役という重要な任務があるわけです。

憲法死んで、国滅ぶ

死んだ憲法の条文を改正しても意味がない!

私がこれから行なう講義では、「はたして日本国憲法は生きているのか、死んでいるのか」が議論の中心になります。これこそが本書のアルファであり、オメガなのです。
日本国憲法はすでに死んでいます。
もはや現代日本には民主主義もなければ、それどころか資本主義もない。
日本国には憲法はない!したがって、すべての改憲論、護憲論は現状においては無意味であるというのが私の結論。
私が冒頭で、改憲、護憲のどちらにも与しないと言ったのは、そのためです。

では、いったいどうすれば、日本の憲法は蘇るのか。
それを知るには、憲法学を学ぶことです。
そもそも憲法とは何か、民主主義とは何かを知る。
そのうえで、いつ、どのようにして日本の憲法が死んだか、そして誰が憲法を殺したかを追求しなければなりません。

このことをじっくり検討していくうちに、読者の目の前におのずから「どうすれば憲法は蘇るか」という答えが見えてくるはずです。

第2章:誰のために憲法はある(43)

[設問2] 憲法とは誰のために書かれた法律か
⇒憲法に違反することができるのは国家だけ
。故に、憲法とは国民に向けて書かれたものではない。つまり、国家権力すべてを縛るために書かれたもの。司法、行政、立法……これらの権力に対する命令が、憲法に書かれている。憲法は本質的には国家に対する命令だが、資本主義の発展にともなって巨大企業のように、国家に匹敵する強力な権力も出現してきた。そこで、憲法はこうした民間の諸権力をも縛るのだとされるようになってきた。

[設問3] 刑法とは誰のために書かれた法律か

法律とは何なのか

法とは、"誰か"に対して書かれた強制的な命令である
例:民法とは国民全体に対して書かれた法律である

刑法は殺人や窃盗を禁じていない!

では、刑法とは誰のために書かれたものか?
結論を先に言えば、刑法は民法とは違って、国民のために書かれた法律ではない。ましてや犯罪者もしくは犯罪予備軍を戒めるために書かれたものでもない。そのことは、刑法の条文を見ればただちに分かる。刑法の条文のどこを読んでみても、「人を殺してはいけない」とか「他人のものを盗んではいけない」とは一行も書いていない。
「人ヲ殺シタ者ハ、死刑又ハ無期若シクハ三年以上ノ懲役ニ処スル」(第一九九条)
「他人ノ財物ヲ窃取シタ者ハ、窃盗ノ罪トシ、一〇年以下ノ懲役ニ処スル」(第二三五条)

民法では18歳未満の男性は結婚できないと明確に規定されているが、刑法には「人を殺してはならない」という直接的な言及がない。
これに基づくと、人を殺す行為は刑法違反とは見なされないという論理的結論が導かれる。これは刑法が国民を直接的な対象としていないことを示唆する。しかし、殺人罪に対する死刑や懲役の罰則があることから、刑法が国民に対してある種の脅しとして機能しているという見方もできる。

刑法の規定は法三章(古代中国の法律)と根本的に異なり、現代の刑法では殺人や窃盗などを直接禁じていない。
「法三章」とは、漢の高祖が関中を征服した際に「殺すな、傷つけるな、盗むな」というシンプルな法律を出した故事に基づいており、現代の刑法もこれが複雑になっただけと考える人が多い。つまり刑法は直接的な規定ではなく、罰則を通じて間接的に行動を制御しているということ。

刑法違反ができるのは裁判官だけ

★刑法は『裁判官を縛るため』のもの/罪刑法定主義
刑法は、裁判官の行動を制限するためのものとして機能する。例えば、裁判官が殺人罪で有罪判決を下す場合、法律で定められた最低刑(死刑、無期または3年以上の懲役)よりも軽い刑を科せば、刑法違反となる。
裁判官は法律に書かれていない罪を創造したり、事後法(行為が発生した後に制定された法律)を適用して人を裁いてはならない。つまり、刑法に明記されていない行為や、その行為が発生した時点で法に触れていなければ、裁くことができない。
これらの原則は「罪刑法定主義」と呼ばれ、近代裁判制度の根幹をなす考え方である。日本国憲法第31条も、この原則を反映しており、法律の定める手続きに従わなければ、誰もその生命や自由を奪われたり、その他の刑罰を受けたりしてはならないと定めている。

裁判で裁かれるのは誰か

[設問4]刑事訴訟法は誰に対する命令か?⇒行政権力に対する命令
刑事訴訟法は行政府全体に対する命令を含んでおり、警察官から法務大臣、総理大臣に至るまで、行政府のすべてのメンバーがこれに従わなければならない。日本において、裁判官は司法権に属するが、検察官は行政権に属する。両者は同じ司法試験に合格する必要があるが、属する分野は異なる。
検察官は政府の一員であり、過去には「権力の走狗」という表現で言及されることもあった。しかし、日本人は一般的に検察官を信頼しており、特にマスコミは検察の発表を真実として受け入れる傾向がある。これは民主主義への理解不足を示している可能性がある。

[設問5]刑事裁判とは誰を裁くためのものか?⇒行政権力の代理人たる『検察官を裁く』ためのもの:刑事裁判では、判決が確定するまで被告は無罪と見なされることが近代民主主義裁判の基本原則。物的証拠や心証がどんなに不利であっても、判決が下されるまでは被告は無実として扱われるべきであり、「犯罪者を裁く」という表現は原則として不適切。

「遠山の金さん」は暗黒裁判をしていた!?

日本人というのは、裁判を「真実を明らかにする場」と考えています。裁判にかければ、どんな悪事も暴かれて、真実が満天下に暴露されると純情にも信じています。しかし、それは近代裁判では通用しない。そもそも近代裁判では「真実の探求」なんて、本来の目的ではないのです。極論すれば、真実なんてどうだっていい。事件の真相など、知る必要はない!

検察=性悪説が近代刑事裁判の大前提
性悪説この発想と対極にあるのが儒教思想。儒教では権力のトップにある天子は聖人であり、天子を補佐する官僚は君子であると見なす。だから、国家権力は正しいに決まっていると考える。

国家権力をもってすれば、どんな証拠でもでっちあげられるし、拷問にかけて嘘の自白を引き出すことだって簡単にできる。そこまで意図的ではないにしても、誤認逮捕などはしょっちゅう行なわれているに違いないと考えるのが、近代裁判なのです。国家はひじょうに強大な権力を持っているのですから、その権力の横暴から被告を守らなければならない


近代裁判の本来の目的は「真実の探求」ではない。
近代裁判では「客観的な真実」というものは存在せず、存在するのは検察官の「真実」と被告(弁護人)の「真実」だけである。
裁判官の任務は検察官の主張する「真実」を検討し、法的な瑕疵があるか、立証が完璧でない場合はその主張を「真実」と見なさない。

「有罪率99パーセント」の恐怖

裁判官は、本質的には被告の味方であって、検事の敵

刑事裁判では、検察側に少しでも法的な落ち度があれば、被告は無罪となる。裁判官の主な役割は、検察の手続き上のミスや法に触れる捜査を見つけ出すことである。日本のマスコミはしばしば、警察や検察の言うことを盲信し、権力寄りの報道をする傾向がある。これは民主主義の理解不足を示している。マスコミは国家権力の暴走から人民を守る役割があるにもかかわらず、しばしば警察の発表を疑わずに報道する。これにより、冤罪の被害者が生まれる可能性がある。
日本の刑事裁判で告訴された事件の有罪判決率が非常に高い(99パーセント以上)ことは、裁判官が本当に検察を裁いているのか疑問を投げかける。
近代裁判の原則に従えば、検察の手続き上のミスがあれば被告は無罪となるが、日本の裁判官がこの原則に従って検察官を適切に裁いているかどうかについて疑問が残る。

デュー・プロセスの原則

Due process(適法手続き)は、法的な手続きの公正さを保証する法原則。主に、全ての人々が法の下で平等であり、公正な裁判を受ける権利を持つという考えに基づき、個人が政府による恣意的な権力の行使から保護されるべきであるという理念を反映している。具体的には、以下のような要素を含む。
・法律に基づいた公正な手続きの保障。
・裁判の機会、合理的な通知、公平な審理などの基本的な法的権利。
・個人が政府による不当な逮捕、拘束、財産の没収、または他の基本的な権利の侵害に対して保護されること。
Due processは、米国憲法の第5条と第14条に明示的に記載されており、多くの民主的な法制度でも同様の原則が採用されている。これは、法の支配と個人の自由を保護するための重要な概念である。

刑事訴訟法は刑法よりも大切な法律
刑事訴訟法は、多くの人が考えるような刑法の付属品ではなく、むしろ刑法よりも重要な法律である。この法律は、検察官を含むすべての行政権力を制限し、刑事裁判のルールを定めている。検察官がこの法律に違反した場合、被告は無罪となる。検察側は、刑事訴訟法を含む多くの法律に従う必要があり、これらの法律に触れることなく行動しなければならない。
デュー・プロセスの原則は、行政権力が徹底的に法律を守る必要があり、違反すれば被告が無罪放免になるというものである。
アメリカはこのデュー・プロセスの原則を徹底しており、法廷小説の面白さも、検察官や警察が法律に従って行動する必要があるためである。これは日本の遠山の金さんとは異なる点である。

デュー・プロセスが最も端的に現われた法廷小説の1つにヘンリー・デンカーという作家が書いた『復讐法廷』というものがある。

この小説は、悲劇的な事件から始まる物語です。ある老人が、自分の娘アグネスが強姦され、殺害された犯人とされる黒人男性、ジョンソンを射殺することで復讐します。ジョンソンには、アグネスのジュエリーを持っていたり、DNAが一致したりと、犯人であるという圧倒的な証拠がありましたが、彼は裁判で無罪となります。
物語は、ジョンソンがなぜ無罪放免になったのかを掘り下げます。その答えは、「デュー・プロセス」(適法手続き)の原則にありました。事件が起きた州では、仮釈放中の人間を尋問する際には弁護士の立ち会いが必要でしたが、ジョンソンは仮釈放中でありながら弁護士なしで尋問され、逮捕されてしまいます。この州法違反とデュー・プロセスの原則違反が、彼の弁護士の主張となりました。
日本の読者は、確固たる証拠があるにも関わらず、ジョンソンが無罪となることに納得がいかないかもしれません。しかし、この物語で描かれるアメリカの法廷では、証拠がどれだけ犯人であることを示していても、被告の権利を守るためにデュー・プロセスの原則に厳密に従います。このため、捜査当局が州法を守らなかったことにより、提出されたすべての証拠は却下され、ジョンソンは自動的に無罪となったのです。

なぜ、疑わしきは罰せずなのか

1000人の罪人を逃すとも、1人の無辜を刑するなかれ(近代法の思想)
権力の犠牲になって、無実の人が牢獄に送りこまれることだけは、何としてでも避けなければならない。権力の横暴を絶対に許してはならない。
一人の犯罪者ができる悪事より、国家が行なう悪事のほうがずっとスケールも大きい。だからこそ、刑事訴訟法をはじめとするさまざまな法律で、行政権力をぐるぐる巻きに縛らなければならない。

法務大臣が死刑執行して、どこが悪い?

日本の法務大臣の死刑執行に対する法的責任と、それに対するマスコミの態度、日本の死刑制度に対する歴史的・社会的背景
刑事訴訟法475条は、死刑判決が確定した場合、法務大臣は6ヶ月以内に死刑を執行する命令を出さなければならないと規定している。これは法務大臣に対する命令であり、法務大臣の個人的な意見や裁判所の判決に対する見解は関係ない。しかし、現実には法務大臣が死刑執行の命令を出すとマスコミから非難される傾向がある。死刑執行を命令しない法務大臣は評価されるが、法律に従って命令を出す大臣は冷血漢と見なされることが多い。
著者は死刑制度の擁護をする意図はないが、死刑に反対する場合は刑法の改正を目指すべきであり、マスコミが刑事訴訟法を無視する態度は、日本の民主主義や裁判制度を自ら破壊していると指摘している。
日本の律令制の時代から、死刑制度はあるが実際に執行されることは少なかった。この歴史的背景から、日本では死刑そのものを廃止するよりも、実際に執行しないという考え方が根強いかもしれない。

言論の自由は、家庭にも職場にもない!

国家の途方もない力の前に立つ時、多くの人々は憲法の本質的な役割を誤解している。憲法は、警察や軍隊を動かすことができる国家権力のような怪物を縛るためのものだ。たとえば、家庭での一幕:理屈を武器に親に反抗する子どもに対し、親はうんざりして「黙っていろ」と言う。すると子どもは「言論の自由の侵害だ」と反論する。しかし、これは子どもの誤解である。家庭内でのこのようなやり取りは、言論の自由の範囲外だ。
会社の会議室でも似たようなことが起こる。部下が意見を出すも、上司によって完全に押し黙らされる。部下は自分の発言が封じられたと感じるかもしれないが、これもまた言論の自由の侵害ではない。
政治の世界でさえも同様。ある政治家の発言に対し、右翼団体が街宣車で抗議行動を起こし、「辞めろ」と糾弾する。しかし、これは政治家の言論の自由を侵害しているわけではない。
これらの日常の光景―家庭での言い争い、職場での意見の抑圧、政治的な抗議―は共通の糸で結ばれている。憲法に保障されている言論の自由は、国家の圧倒的な力からの保護を意味するものであり、個人間や職場内の階層の対立を制御する道具ではない。
言論の自由の真の本質は、私たちの個人的および職業的な生活を彩る日々の議論や意見の相違からではなく、国家の巨大な力からの保護にある。

日本人傭兵は憲法違反か

たしかに憲法第2条には、こう記してあります。
第24条:集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
憲法は「表現の自由は、これを保障する」と記していますが、では、いったい誰から保障してくれるのか。その答えは「国家」なのです。つまり国家権力によって国民の言論の自由が侵されるようなことがあってはならないというのが憲法の言っていることなのです。言論の自由を侵すことができるのは国家だけ。憲法第2条に違反できるのは、国家だけなのです。
だから、親が子どもの口を封じようと、上司が部下の発言を禁じようと、右翼が言論妨害をしようと、そんなことは憲法の関知せざるところである。言論の自由とは関係ない話だ。もし、どうしても法に訴えたかったら、もっと別の罪状、たとえば名誉毀損や脅迫、営業妨害などで告訴すればいい。それを言論の自由なんて持ち出すから、話が無茶苦茶になる。

さらにこんな馬鹿な議論もある。
最近の日本では海外に単身渡って、どこかの国の傭兵になるという若者が少なくないそうです。なぜ彼らがそんな危険を冒すのか、その理由はさまざまでしょうが、こうした若者たちのことを非難して「日本は憲法で、海外での武力行使は放棄している。日本人がよその国に行って傭兵として銃をぶっ放すのは憲法違反だ」なんて言う人がいますが、これはまったく憲法が分かっていない証拠。

憲法は国家を対象にしたものであるから、個々の国民とは関係のないものです。したがって、その若者が何をしようと憲法違反に問うことはできない。現時点で、日本には海外で傭兵になることを禁じる法律はないんだから、日本人が個人で外国の傭兵になって何をしようが、それこそ「自由」なんです。もちろん、その国で殺されるかもしれないがね。

十七条憲法と日本国憲法は、まったく別物

多くの日本人は憲法に関して基本的な理解しか持っておらず、一部の学者でさえ日本には三つの憲法があったと誤解している。これらは聖徳太子の十七条憲法、明治憲法、日本国憲法である。しかし、十七条憲法は国家権力を制限する発想がなく、欧米の憲法とは全く異なるものである。近代法の根底には「権力を制限し抑え込む」という思想があり、この思想に基づいて今日の憲法が誕生した。憲法は国家権力の暴走を防ぐための「最後の鎖」として存在する。専門家でさえこの点を誤解していることは問題である。

近代国家は恐ろしい怪物「リヴァイアサン」(トマス・ホッブズ
ホッブズのいうリヴァイアサンとは、旧約聖書に登場する怪物レヴィアタンから名付けられた。(レビアタン・リヴヤタン)

近代国家は暴力装置(武力)を独占する。軍隊と警察がそれで、民間にはこうした武力に対抗する力はない。これは近代国家の特徴であって、近代以前にはなかった事態である。たとえば中世では封建諸侯が自前の軍隊を保持していた。だからこそ、近代西洋文明は持てるかぎりの知恵を振り絞って、この怪物を取り押さえようとした。
その知恵の1つが、罪刑法定主義であり、デュー・プロセスの原則だったりするわけですが、そうしていろんな法律でがんじがらめにしてもなお不安は残る。そこで法律や制度でぐるぐる巻きにしたうえに、さらに太い鎖をかけることにした。それが憲法というわけです。だから、憲法はあくまでも国家を縛るためのもの。一般国民に対して「仲良くせよ」「平和を愛せ」なんて、訓辞を垂れている余裕はない。敵はリヴァイアサン、そんな悠長なことは言っていられないのです。

第3章:すべては議会から始まった(67)

民主主義と憲法とは関係ない!

デモクラシーの基本要素だと思っている議会制度も、多数決の制度も民主主義とは本質的には何の関係もない。
デモクラシーとは選挙で選ばれた国民の代表が議会で話し合って、多数決で法律や国家予算を決めていくことだと思っているがそれは大きな間違い。そもそも、憲法や議会などという制度はデモクラシーという考えが生まれるずっと前からあったもので、けっして民主主義のために発明された制度ではなく、別の目的のために作られたもの。これらの制度が作られたのは、むしろ民主主義とはまったく反対の理由からだった。

国王はいても、国家がなかったヨーロッパ

「国家」という概念は、歴史的に見れば新しい。国家の本質を形作るのは国境・国土・国民という三つの要素。これらが揃って初めて「国家」という存在が成立する。過去には国境も、国土も、国民も明確な形で存在していなかった。国語すらなかった時代もあったのだ。
この事実を理解するのは、日本人にとって難しい。日本は島国で、独自の文化と言語を持つ民族が住んでいた。だから、国境や国土がない状態、国民のいない国を想像するのは困難だ。しかし、憲法の発祥地であるヨーロッパでは、長い間国境や国土という概念がなく、国民という概念も存在しなかった。これは憲法、そして民主主義を理解する上で重要なポイントだ。

中世ヨーロッパには国王がいた。
国王と聞くと、絶大な権力を持つ人物を思い浮かべるだろう。しかし、中世の国王はそんなに大きな権力を持っていなかった。自分の王国を完全に支配しているわけでもなく、むしろ自分の思い通りになることの方が少なかったのだ。
・王国:中世の王国のことを英語でrealm(レルム)(ラテン語regnumレグヌム)近代の国家はstate(ステイト)
中世の王はrex(レックス)で近代の国王はking(キング)
日本語では王国も国家も「国」の字が入るので似たもののように思うが、欧米ではまったく違う単語を使う。

奴隷と農奴はどこが違う

・農奴:serf(サーフ)/奴隷:slave(スレイヴ)
中世の国王が不自由だった理由:古代ローマ帝国の崩壊後、ヨーロッパは文字通り千々に乱れた。この時代は、限られた土地を支配する封建領主たちが勢力を伸ばし、農奴たちが彼らのために働き、土地を耕していた。ヨーロッパの広大な国土には、これらの領主たちが散らばり、各々が自らの領地を守っていた。
この農奴という存在を日本人に理解させるのは難しい。日本人から見れば、古代ギリシャやアメリカ南部の奴隷と中世ヨーロッパの農奴は同じように見えるが、実は大きな違いがある。
農奴は土地とセットであるという点が、奴隷と異なる最大の特徴だ。奴隷は家畜と同じ扱いを受け、親から子どもが引き離され、自由に売買されることもあった。これが残酷な奴隷制の現実だ。
一方で農奴は、家族をバラ売りすることはできなかった。彼らの主な仕事は土地を耕すことだから、子どもを売り払えば次世代の労働力が失われる。領主も農奴の子どもを勝手に売ることは許されなかった。農奴にはそのような特権が与えられていた。
しかし、土地が別の領主の手に渡れば、どんなに酷い領主であっても文句を言うことは許されず、逃げ出すこともできなかった。農奴は土地と一緒に「セット売り」される運命にあった。
それでも、奴隷と比べれば、農奴にはわずかながら特権があった。この小さな特権が後に大きな意味を持ち、農奴たちがやがて自由を手に入れる糸口となるのだ。

王様は学級委員長

・権力者としての封建領主:調停役としての国王⇒思い通りに出来たのは直轄地だけ
この時代の国王を「同輩中の首席」(primus inter paresラテン語)と表現
中世ヨーロッパは、大小様々な領主たちが自分の土地と武力を持ち、勢力を誇示していた。この状況では、安定性が欠けていた。領主間の紛争が起こると、仲裁する者がおらず、すぐに武力衝突や戦争に発展してしまうのだ。
この不安定さを解消するために、中世ヨーロッパには国王が登場した。この時代の国王は、日本の戦国時代の大名のように他の領主を力で圧倒したわけではない。彼らは領地争いの調停役として生まれたのだ。
大領主たちの中で最も影響力のある者が国王となり、全体の調整役を務めるようになった。これは、いわば学級委員長のような役割だった。
国王の権力は限られていた。各領主は独立した事業主のように自らの領地を統治しており、国王はその領地内の事柄に口出しすることはできなかった。農奴に対しても、国王が命令を下すことは不可能だった。
国王が自由に支配できたのは、自身が直接統治する土地だけだった。
このような力のない王様がいても、国が存続していたのは、中世ヨーロッパのユニークな特徴だ。王様自身に大きな力がなくても、国が一つにまとまっていたのは、王と家臣間の契約によるものだった。

契約を守るのが「いい家臣」と言われるわけ

中世ヨーロッパでは、主従関係は契約に基づいて成立する。王と領主が契約を結び、それが関係の基盤となる。例えば、領主が自分の土地を王に保護してもらう代わりに、戦争時に何人の兵士を提供するか、王が人質になった場合の身代金の支払いなど、具体的な約束事が含まれる。もし王が人質になり、家来が契約で定められた身代金を支払ったが王が解放されなかった場合、王は家来に「もっと身代金を払え」と要求することはできない。契約にない要求はできないのだ。また、家来も「これ以上の支払い義務はない」と主張し、王を見捨てて別の王と契約を結ぶことが許されていた。これが不忠義とは見なされない。

中世ヨーロッパでは、家来は「人間」にではなく「契約」に忠実であることが重要だった。王が契約を守るかどうかが、その王の評価を決める基準となっていた。契約を守る王は「名君」、守らない王は「暴君」と見なされた。この伝統が、欧米でビジネスの際に契約を重視する理由だ。日本人はビジネスの基本を人間関係と考えるが、欧米では契約を交わし、それを守ることが最も重要視される。契約という概念は近代資本主義経済が誕生するよりもずっと前から存在していたことを覚えておくべきだ。

日本の武士に「武士道」はなかった

中世ヨーロッパでの王と家臣の関係は、契約に基づいていて、日本のような人間関係に基づく結びつきとは違っていた。
ヨーロッパの騎士道と日本の武士道を比較すると、意外な事実が浮かび上がる。実はヨーロッパの方が、王様の仇討ちが行われていたのだ。これを見ると、日本人の家臣たちは主人に対して冷たいとさえ言える。

江戸時代の日本では仇討ちの物語が多いが、その大部分は親の仇を討つ話で、主人の仇を討つ話はほとんどない忠臣蔵や秀吉が信長の仇を討った例は例外で、これが珍重される理由だ。日本人の主従関係は、実際にはそんなものだった。

戦国時代には「主人の仇」という概念すらなかった。多くの戦国大名の末路を見れば、彼らの家臣たちは主人の仇を討つことなど考えもしなかった。中には主人を裏切り、敵に仕える者もいた。武士道が確立したのは江戸時代であり、それでも主人の仇を討つ者はほとんどいなかった。しかし、秀吉だけが例外だった。信長が本能寺で明智光秀に討たれた際、彼だけが京都に向かい、仇討ちを果たした。他の信長の家臣たちは何もしなかったため、「秀吉は偉い」と称賛されたのだ。

信長が討たれた時、あるキリシタン大名が宣教師に相談した。宣教師は驚き、「ご主人の仇を討つのが臣下の務めではないのか」と答えた。ヨーロッパ人にとって、主人が殺されたら仇を討つのが当然だったが、当時の日本の大名はどうすべきか分からなかったのだ。

ヨーロッパの騎士道では、契約に基づく主従関係があった。「もし王が討たれたら、必ず仇を討つ」という契約があれば、それを実行するのは当然。契約を守らなければ誰も相手にしない。彼らは契約を守り、仇討ちを行うことに徹底していた。日本の家臣たちは、それに比べると頼りなく、裏切ることも多かったのだ。

中世ヨーロッパ理解の2つのポイント

中世ヨーロッパを理解するには、特に重要な2つのポイントがある。
一つは、国境も国土も国民も存在しなかったという事実。もう一つは、国王の力が極めて限定されていたということだ。
これら2点を結ぶ鍵となるのが「契約」である。
この時代の主従関係は、人間関係に基づくのではなく、契約に基づいていた。これが、島国である日本とは異なる、ヨーロッパ特有の現象を生み出している。
たとえば、一人の家臣が二人の王に仕えることがあり得た。日本では考えられないが、ヨーロッパでは9世紀のカロリング王朝時代から、これが珍しくなかった。二君に仕えることが不道徳とは見なされなかったのだ。
例えば、フランスの王から土地を与えられた領主が、同時にスペイン王からも別の土地を与えられたとしよう。この領主は、契約上フランス王とスペイン王の両方の家臣であり、その領地内で起きたことについてはどちらの王も口を出せない。このようにして、国境や国土の概念は曖昧であった。

さらに複雑なのがフランスとイギリスの関係。13世紀頃、英国王はフランスにおける最大の領主だった。つまり、イギリスの王はフランスの王から土地を得ていたので、契約上はフランスの家臣である。しかし、同時にイギリスの王であるため、対等な立場にあり、フランス王の命令を聞く必要はなかった。このため、イギリスとフランスはしばしば戦争をしていた。

このような事例から、中世ヨーロッパの王国には国境や国土の概念がなく、ましてや国民の概念も存在しなかったことがわかる。農奴は領主の持ち物であり、国王のものではなかった。
中世ヨーロッパの王国にあったのは、王と家臣との契約関係だけ。これが中世ヨーロッパ理解の第一ポイントである。

カロリング王朝:476年に西ローマ帝国が滅亡した後、西ヨーロッパを統一したのはゲルマン人のフランク王国であった。フランク王国は前期のメロビング王朝、後期のカロリング王朝に分けられるが中世封建制度が確立するのは、カロリング王朝初期のカール大帝(シャルルマーニュ)のころからである。

王様は中間管理職?

中世ヨーロッパにおいてもう一つ注目すべき事実は、国王の権力が非常に制限されていたことだ。当時のことわざ「王は人の上に、法の下に」は、「国王は社会階層の最上位にいるが、法の制約を受ける」という意味だ。しかし、これを単に「国王は偉い」と解釈してはならない。実際のところ、中世の王様は人と法の間で板挟みになり、行動が制限されていたのだ。まるでどこかの国の中間管理職のように。

国王は家臣たちが領主として統治する土地には干渉できない。王が自由に支配できるのは、自分の直轄地のみだった。さらに、家臣たちとの契約が王の行動を縛る。家臣は契約を守るが、国王も同様に契約を遵守する義務がある。国王が契約以上の要求をすれば、家臣は契約を破棄する権利があるため、王は簡単に家臣たちに追加の要求をすることができなかった。

たとえば、戦争を行う場合、家臣たちが提供する兵力は契約で定められている。国王が「もっと兵を出してほしい」と願っても、それを要求することは許されず、無理な要求をすると契約解除のリスクがある。したがって、国王は家臣との契約に縛られ、その権力は限定されていたと言える。

「永遠の昨日」が支配する中世

中世ヨーロッパで国王にとっての大きな障壁の一つは「法」だった。この時代の法は現代の法律とは異なり、伝統や慣習がその土台をなしていた。これらは「慣習法」と呼ばれるもので、国王であっても絶対に遵守しなければならないものだった。国王が独自に法律を制定することは不可能だった。

今日、私たちは多くの伝統や慣習に縛られているが、中世の伝統と比べると、その影響力には大きな違いがある。中世の「伝統主義」とは、単に過去にあったことを基準にして未来の行動を決めることを意味していた。大塚久雄博士の言葉によれば、これは「過去にあったことを、ただそれが過去にあったという理由で、それを将来に向かって自分たちの行動の基準にすること」である。また、マックス・ウェーバーはこれを「永遠の昨日」と表現した。つまり、昨日と同じことを繰り返すことが正しいとされ、新しいことを試みることは許されなかった。

現代において「伝統は大事だ」と言う場合、そこには「良い伝統」という意味が含まれている。しかし、中世ヨーロッパでは伝統が良いか悪いかに関わらず、絶対視されていた。合理的判断を持ち込むことは許されず、国王が既存の慣習法を変更しようものなら「暴君」と呼ばれることになった。新しい法律を制定することも許されなかったので、国王は「法の下」に置かれていた。

結果として、中世の国王は家臣の制限と伝統主義の板挟みに遭い、行動の自由が大きく制限されていた。このような状況では、憲法によって権力を制限するという発想は生まれにくかった。しかし、歴史は常に動いており、封建制度を揺るがす出来事がやがて起こり、歴史の流れが変わっていく。

※大塚久雄(1907-96):「大塚史学」と称される、独自の世界史像を提出したことで知られる経済史の大家。東京大学教授を長く務めた。マックス・ウェーバー理解にかけては世界一。一般向けの書籍としては『社会科学における人間』『社会科学の方法』(ともに岩波新書)をお勧めする。
※マックス・ウェーバー(1864-1920):社会学の巨人。経済史のみならず、宗教史、官僚制の歴史などその研究テーマは多岐にわたる。あまりに頭がよすぎたために30代で神経疾患を患い、以後、長い時間を病院で過ごすが、誰にもわずらわされない環境にいたおかげで、あれだけの研究を残せたとも言われる。
※対極にある:1例を挙げれば、東京帝国大学で国史学科の教授を務めた平泉澄博士(1895-1984)は、神話を歴史的真実であると解し、日本建国以来の伝統尊重を強く主張したことで知られる。それゆえに、この平泉博士の思想は、ウェーバー=大塚の観点から見れば、伝統主義と対極にあるのだ。

ペストと十字軍が封建領主を没落させた

中世社会の解体には複数の要因があったが、特に重要なのは農奴の数の激減である。この減少の主要因は、1348年頃に発生したペストの大流行だった。例えばイングランドでは、ペストによって人口の25%から33%が減少したとされている。農奴の数が減少することで、彼らの地位は向上した。領主は農奴に依存していたため、生き残った農奴たちの要求に応えざるを得なくなり、農奴が支払う地代が次第に減少し、彼らの経済状況は改善していった。

さらに、貨幣経済の発展が領主に打撃を与えた。中世初期の経済は自給自足と物々交換が中心だったが、1096年に始まった十字軍により変化が訪れた。十字軍は聖地パレスティナ奪還に失敗したが、彼らはイスラム文明から多くの知識や贅沢品を持ち帰り、ヨーロッパに新しい技術や物品をもたらした。これにより、新しい商工業者の階級が出現し、都市にて貿易や手工業が盛んになり、貨幣経済が発展していった。

この貨幣経済の成長とペストによる農奴の減少は、自給自足生活を送っていた封建領主たちに直接的な影響を及ぼした。彼らは新しい商品を買うための貨幣をほとんど持っておらず、貨幣を獲得する手段も限られていた。このため、彼らの生活は困窮し、地代の支払い方法は生産物から貨幣へと変わりつつあった。

貨幣地代への変換は農奴にとって有利だった。収穫物を高く売ることで収入を増やし、貯金することが可能になり、農奴たちは豊かになりつつあった。農奴たちは貯めた貨幣で自由農民になる者も現れ、多くが自由な都市に逃げ出した。これにより農民の数はさらに減少し、彼らの領主への立場は強くなった。
加えて、新大陸からの銀の流入による激しいインフレがこの状況に追い打ちをかけた。1700年の物価は1500年の3倍以上に跳ね上がり、これに対抗するため一部の領主は農地を牧羊場に変えた。これが第1次囲い込み運動と呼ばれ、多くの農民が土地を追われ、乞食や泥棒になるしかなかった。これらの要因が相まって、中世社会の崩壊は加速したのである。

国王の新しい「金づる」

中世社会の解体が進む中で、最も利益を得たのは国王だった。中世の国王は、家臣と伝統主義に挟まれ、行動が制限されていた。慣習法は変更不可能だが、国王にとって真の悩みの種は、面倒な家臣たちだった。家臣たちの力が弱まるにつれ、国王の相対的な力は増していった。
確かに、国王も大領主の一人として、直轄地からの収入は減少傾向にあった。しかし、国王には別の収入源があった。それは、都市の商工業者たちだった。
当時のヨーロッパは山賊や海賊がはびこる危険な場所だった。商人や旅行者を襲い、略奪や暴行を繰り返すのは日常的な出来事だった。封建領主たちはこれらの犯罪者を取り締まるどころか、時には彼らを雇って自分の兵隊として利用していた。
地方の領主たちは兵士を求める際に、力の強い人間を好む。兵隊には強さが求められるため、暴力や略奪を行う者が評判を得て兵士となることが多かった。そのため、盗賊や海賊を取り締まることはなく、実際に軍隊が平時にこれらの行為で生計を立てることもあった。
このような状況で商売をしていた都市の商工業者たちは、封建領主を嫌悪していた。彼らは封建領主と敵対する国王に目を向け、金銭の提供や融資を通じて「私たちの安全を保障してください」と懇願した。
国王にとってこれは絶好の機会だった。金銭が豊富にあれば、国王は家臣に頼らずに自らの軍隊を編成できた。従来は戦争ごとに領主が提供する兵力に依存し、領主たちが指揮を執っていたが、金銭の力で国王は自分自身の軍隊を持つことができるようになった。これにより、国王は家臣たちとの力の差を一層拡大することができた。

※山賊海賊:イギリス海軍もその母体となったのは、海賊たちであった。エリザベス1世時代、スペインの無敵艦隊を破ったことで知られるドレイクやブレイク、ウォルター・ローリーは、その代表である。

常備軍、現わる

このような状況の中で、常備軍が誕生した。以前の領主たちの軍隊は、ゴロツキや無法者の集まりで、戦闘力はあるが組織的な強さは欠けていた。一方、国王の常備軍は安定した軍資金を基に、定期的な訓練を行い、兵器の進歩にも対応していた。その結果、プロフェッショナルな常備軍と、アマチュアの軍隊との間には大きな差が生まれた。例えば、数の上で優れていたとしても、アマチュアの軍隊は常備軍の前には敵ではない。これは兵学の基本原則である。この事実を日本史上でも、織田信長が如実に示した。

戦国時代の他の大名たちが持っていた兵力は主に農民で構成されていた。しかし、信長は「兵農分離」を実施し、農民からの兵力集めをやめ、専門的な軍事訓練を行いプロの兵士を養成した。これが信長の軍の強さの源泉であり、彼の圧倒的な勢力を生んだ。例えば、武田信玄の軍は強力であったが、農繁期に戦争を行うことは困難であり、戦争が長引けば農業そのものが衰退する危険性があった。しかし、信長軍は常時戦争が可能なプロの軍隊であった。

ヨーロッパでも同様の現象が起きた。常備軍を持った国王の力は飛躍的に増し、商工業者たちはさらに発展し、都市は大きく成長した。これにより、領主たちの立場はますます弱まっていった。

なぜ教会は堕落していったのか

中世社会の変化の中で、国王が最も利益を得たことは確かだ。しかし、国王の新しい勢力に対し、伝統主義を武器にした貴族たちが反発していた。彼らは王が慣習法を破り新しい秩序を築こうとしていると非難し、自らの特権と既得権を守るよう主張していた。この伝統主義は、当時のヨーロッパでは強力な説得力を持っていた。

同様に、教会も国王の権力増大に不満を抱いていた。特に教会は広大な領地を持ち、ローマ法王は全ヨーロッパに精神的な影響力を持っていた。しかし、教会は貨幣経済の変動により内部的に困難を抱えており、免罪符の販売や聖職者の地位の売買などによって資金を集めていた。

教会のこのような行動は、後にルターによる宗教改革のきっかけとなるが、教会の堕落はすでに始まっていた。このような状況下で、中世の王国は変化し、「等族国家」、すなわち身分制国家へと変わっていった。この国家では、王と貴族、新しい階級の商工業者、そして教会がそれぞれの権利を主張し、国内は異なるグループが共存する状態になった。

このような背景のもと、国王と商工業者の連合と、貴族と教会の連合の間で対立が生じた。しかし、この対立は戦場での衝突ではなく、議会という場で行われることになった。これが、議会の始まりである。

議会が誕生した2つの理由

ヨーロッパの議会制度は、1265年のイギリスでの最初の開催を皮切りに、各地の王国で次々と開かれるようになった。フランスでは1302年に初の「三部会」と称される議会が開かれた。これらの議会は「身分制議会」または「等族議会」と呼ばれ、貴族、聖職者、平民という身分に基づいた部会で構成されていた。

議会が設立された背景には、民主主義の発展やより良い政治を実現するといった前向きな理由ではなく、2つの具体的な動機があった。

一つ目の理由は国王側にある。商工業者からの資金提供により強化された国王の権力だったが、さらなる財源として領主たちの土地への課税を考えていた。しかし、王と家臣との契約に基づく関係のため、新たな租税を課すには契約の改訂が必要だった。個々の大領主と契約を変更することは現実的でないため、議会を通じて租税問題を討議し、全領主の合意を得る方法が考えられた。国王にとって、議会は資金集めの手段として機能したのだ。

二つ目の理由は貴族たちの側にある。彼らは国王による常備軍の強化や土地への課税を危険視していた。伝統的な特権を守るため、彼らは議会で国王に慣習法を再確認させ、自らの権益を保護することを目指した。彼らにとって、議会は自らの権益を守るための場だった。

結局、議会は国王も貴族も、それぞれの利益と特権を守るための道具に過ぎなかった。後に民主主義の象徴とされるようになるとは、当時の人々には想像もつかなかったことだろう。

※三部会:フランス語で三部会は「Etats Generaux(エタ ジェネロー)」と呼ぶ。原義は「すべての身分」という意味である。ちなみに、ドイツの議会はStandetag(スタンデターク)諸身分の会議)と呼ばれた。

マグナ・カルタは「反民主主義の憲法」

かつて、ヨーロッパの複雑な政治の波が、ある革新的な概念、「憲法」の誕生へと導いた。1215年のある日、イギリスは「マグナ・カルタ」を公布し、これが憲法の歴史において記念碑的な瞬間となった。イギリス人はマグナ・カルタを近代民主主義の発端と考えがちだが、その真実は異なる。

その背景には、ジョン王の貴族と教会に対する過度な課税があった。これに反発した貴族たちは、彼らの権利と慣習法を守るよう王に要求した。マグナ・カルタの目的は、伝統の維持と特権階級の権利保護にあった。

「自由民」という言葉は、貴族や裕福な土地所有者を指し、広範な国民を含むものではなかった。しかし、マグナ・カルタは無価値ではなかった。この契約は、後の議会政治の基盤となり、国王が法の下に置かれることを確認した。

時が流れ、マグナ・カルタの「自由民」の範囲は広がり、最終的には全国民を指すようになった。また、王の行動を法に基づいてチェックする裁判所が、後のイギリス議会へと進化した。

初期の議会は王の税金徴収のための道具だったが、マグナ・カルタで確立された権利を基に、しばしば国王に対抗した。最終的に議会の権力は国王を凌ぐまでに成長し、民主主義とは無関係に誕生したマグナ・カルタが、イギリス民主主義の出発点となったのだ。

孔子はかつて弟子の子路に「蕩々たる揚子江も、その源流は「濫觴(らんしょう)」つまり觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流である」(『孔子家語:こうしけご』)と教えました。小さな小川を見ても、それが下流で大河になることは誰にも予想ができない。それと同じようにマグナ・カルタという「非民主主義的な」文書から、議会政治や民主主義が生まれてこようとは誰も想像しなかった。しかし、このマグナ・カルタこそがまさに近代デモクラシーの濫觴となったのです。

多数決誕生の意外な舞台裏

中世のヨーロッパで、ゲルマン社会は全員一致の原則に従っていた。その証拠に、騎士たちの決議の際、剣を高く掲げる様子は、騎士物語を読めばすぐに目に浮かぶ。だが、歴史の舞台裏では、意外な変化が起きていた。

12世紀、ローマ教会では、多数決の原則が確立したのだ。そのきっかけは、ローマ法王の選定だった。法王の地位は終身であり、選ばれるための血統はない。枢機卿たちは、法王が亡くなると「コンクラーベ」と呼ばれる会議を開催し、次期法王を選定する。ここで、全員一致の原則を適用していたら、選定は永遠に終わらない。そこで、多数決の原則が取り入れられたのである。

やがて、この方法は議会にも導入された。税金を徴収するため、全員一致では決められないため、「多数決で認められたことは、全体の総意と見なす」というルールが作られた。多数決が民主主義や議会と直接関係なかったことは、ポーランドの議会が18世紀まで多数決を採用していなかったことからも明らかだ。

こうして、多数決の舞台裏には、意外な物語が隠されていたのである。時が流れ、世界が変わる中で、決定の方法もまた、歴史の荒波に翻弄されていたのだ。

※自動的に決まる:中世ヨーロッパの相続においては、古代ゲルマンの慣習に由来する「サリカ法」が絶対の権威を有していた。サリカ法に定められた相続順位は、国王ですら変えることができなかった。生きている人間の都合で相続順位を勝手に変えることができる日本や中国とは、まったく違うのである。

南北戦争で多数決は定着した

かつてのポーランド、ヨーロッパの強国。14世紀、ヤギェウォ朝の時代には、その勢力はプロイセンやリトアニアをも包み込み、ロシアの圧力にも屈しなかった。しかし、16世紀が訪れると、ロシア、プロイセン、オーストリアによる分割の悲劇がポーランドを襲った。その一因は、ポーランド議会の非効率さにあったとされている。全員一致の原則では、物事は決まらない。そこで、ヨーロッパの身分制議会では多数決が次第に導入されたのだ。

しかし、多数決が民主主義において普遍的になったのは、アメリカの南北戦争頃かもしれない。南部11州が連邦政府に反旗を翻し、少数意見が多数決によって抑圧された。リンカーン大統領は、南部11州の不満に対して、連邦離脱は非合法であると断言した。

このような多数決の歴史を、日本人は学校で習わない。その結果、「多数決で決まったから正しい」という誤解が生じる。だが、多数決は効率的に物事を決めるための、一種の便法。多数決で決まったことが正しいなどとは、誰も保証していない。そこにあるのは「多数の意見を、全体の総意とする」という約束事のようなもの。多数派の意見が、全体の意見であると「かりに」見なしておこうということでしかない。多数決は擬制、一種のフィクションだ。にもかかわらず、多数決が「正しい」と信じることは、日本人の誤解の一つである。多数決は、物事を決めるための一つの道具であり、その結果が常に正義を意味するわけではないのだ。

※少数者の意見:アメリカ連邦議会には「フィリバスター」制度が設けられていて、少数意見を持つ議員の演説時間は制限しないことになっている。彼の演説を聞いて、意見を変える議員が現われるのを期待しての制度である。また、連邦議会の議事進行では、多数派と少数派の差が少ない場合、なるべく話し合いで妥協点を見つけるという慣行がある。「数は力なり」と、すぐに強行採決に持ち込む日本の国会とは、大違いだ。

教科書が教えない「憲法」、「民主主義」

「憲法や議会と民主主義は何の関係もない」ということを発見したのは。福田歓一教授という、政治思想史学者の大発見です。東京大学出版会から『政治学史』という大著が出ているが、これは文句なしの名著です。
この本は福田教授の講義録をベースに作られたものですが、その講義のむずかしさたるや、東大法学部の講義で何百人も聴講者がいたのに、試験を受けたのはたったの3人だったという逸話があるくらいです。

さて、この福田歓一教授がノーベル物理学賞の湯川秀樹博士とある晩、一緒に食事をした。そのとき、ふと福田教授が「憲法や議会は民主主義と何の関係もないのですよ」と話したら、湯川博士ほどの学者も仰天した。
湯川博士は最後に福田教授にこう言ったそうです。
「僕がこんなことも知らんのは、福田さんが教科書を書かんのが悪いんや」
それについて、福田教授は自分のエッセイでこう記されている。このような事実を「はっきりさせたのでは、(教科書)検定を通る気づかいはない」と。
その理由について、福田教授は書いていない。沈黙を守っています。
そこであえて推測すれば、要するに文部省の役人たちは、議会があって、憲法があれば日本の民主主義は安心だと国民に思わせておきたいのでしょう。そういう結論になるではありませんか。

福田歓一(1923-2007)兵庫県生まれ。政治思想研究の第一人者。一般向けの著書に『近代の政治思想』『近代民主主義とその展望』(ともに岩波新書)がある。

第4章:民主主義は神様が作った!?(101)

絶対君主、現わる

かつてのヨーロッパ、そこは王権と貴族たちの激しい対立の地だった。議会や憲法のような政治的枠組みが生まれたのも、この争いの産物だ。しかし、ここでの争いが民主主義を生むわけではない。王が勝てば、彼の権力はさらに絶大に。貴族が勝てば、単に伝統主義が復活するだけだ。

時代は変わり、貴族の影響力は衰えていった。貨幣経済の興隆の中で、彼らは力を失い、王権はますます強力になる。こうして絶対王権の時代が幕を開けた。スペインから始まり、フランスとイギリスでその力を発揮した。
フランスでは、ルイ13世の下で三部会が閉じられ、170年の長きにわたって議会は存在しなくなる。その息子、ルイ14世は「朕は国家なり」と豪語し、王の言葉が法となった。
一方、イギリスでは、ヘンリー8世が独自の道を歩む。彼は王妃キャサリンとの離婚を望むが、ローマ法王の反対に遭う。すると彼は国王至上法を制定し、自らイギリス教会の頭となる。修道院を解散し、その財産を没収した。教会さえも彼の前では無力だった。
ヘンリー8世の再婚相手、アン・ブーリンはエリザベス1世を産むが、王の心は別の女性に移る。アンは不倫の罪で処刑された。ヘンリー8世の行動は矛盾に満ちていたが、絶対王権の下では彼の意志がすべてだった。これが絶対王権の論理、王は善悪さえ決定できたのだ。王の権力は絶対であり、彼の自由は制限されなかった。

かくしてリヴァイアサンは生まれた

ジャン・ボダンというフランスの思想家は、旧教と新教の対立が続くヨーロッパで「国家に関する6章」を著し、主権という概念を提唱した。彼は主権を「国家の絶対かつ永続的な権力」と定義し、国王が教会や貴族の影響を受けず、法律を自由に制定できると主張した。これには課税権や徴兵権も含まれ、絶対王権の時代に王国を「国家」へと変貌させた。ボダンの理論は今日の政治理論にも影響を与え、近代国家の原型を形成した。

※ここまでのまとめ:近代国家の成立は重要だから、まとめておきたい。
①近代国家は絶対主義国家からスタートした。だから、近代国家はとてつもなく恐ろしい。
②近代国家は主権:sovereignty(ソブリンティ)を持ち、その主権は絶対である。
③中世の王権:prerogative(プリロガティブ)はひじょうに限定されたものだったが、それが漸次、強大になり、絶対王権:absolute prerogative(アブソリュートプリロガティブ)、主権へと成長した。
④中世の「自由」とは特権:privilege(プリビレッジ)のことであって、その内容は身分によって異なっていた。特権が人権:humanr ight(ヒューマンライト)になるには長い時間が必要であった。

十字架と聖書が怪獣退治をした?

絶対王権の時代のヨーロッパで、リヴァイアサンのように強大な力を持ち、法や人民の財産・生命を自由に扱える王たちがいた。しかし、このリヴァイアサンのような絶対王権を変えたのはキリスト教であった。十字架と聖書を持って、キリスト教はこの怪物のような権力を縛り上げた。当時、ローマ教会は既に以前ほどの権威を持たず、教会の分裂や権威の衰退が起きていた。しかし、この時代にキリスト教の中で「宗教改革」が起こり、これが民主主義の誕生に影響を与えた。

※叙任権闘争:本来、教会聖職者の任免権(叙任権)は教会側にあるのだが、中世、国王の権力が大きくなってくると、国内聖職者を国王が任命し、実質的に教会を支配するようになった。ことにドイツ(神聖ローマ帝国)ではその傾向が強く、ついにローマ法王の任命にまで皇帝が口を出すようになったので、皇帝と法王との対立は激化した。これを称して「叙任権闘争」と呼ぶ。

腐敗しっぱなしだったローマ教会

14世紀から、ローマ教会は深刻な腐敗を見せていた。教会は免罪符を売り、金貸し業を営むなど本来の教義に反する行動を取っていた。さらに、教職の売買(売官)や法王の私生活の乱れ(隠し子を要職に就けるなど)も日常化していた。このような教会の腐敗に対する批判として、マルティン・ルターが1517年に「9ヵ条の提題」を公表し、教会と法王を弾劾した。この批判によりルターは教会から追放されるが、彼の教えは広まり、「プロテスタント」(新教徒)と呼ばれる信者が生まれた。これが後に絶対王権に挑戦し、宗教改革が西洋史全体に大きな影響を及ぼすきっかけとなった。

※選帝侯(せんていこう):イギリスやフランスで絶対王政が発展するのとは反対に、ドイツでは国王(神聖ローマ帝国皇帝)の権力が衰退したので帝位継承に乱れが生じた。これを「大空位時代」と言うが、この後、ドイツの国王は国内7人の有力諸侯(「選帝侯」)によって選ばれるようになったのである。

世界史を変えた天才

ジャン・カルヴァンは、世界史を変えた天才で、プロテスタンティズムを発展させ、一大思想体系を作り出した。
彼は聖書を徹底的に研究し、「予定説」という結論に達した。この予定説は絶対王権を終わらせ、民主主義の誕生に貢献した。予定説を信じる人々は、内面的に何も怖れなくなり、外面的には勤勉で金銭的にも成功するようになるとされる。しかし、予定説はキリスト教の深い奥義であり、その恩恵を受けるためにはキリスト教への改宗が必要である。カルヴァンの思想は、絶対王権に対抗し、世界史に大きな影響を与えた。

聖書すら読ませなかったローマ教会

ルターやカルヴァンの時代には、ローマ教会は腐敗していて、聖書を信者に読ませなかった。教会は聖書が書かれたギリシャ語やラテン語を読める者が少ないことを利用し、聖書を隠していた。その代わり、信者は「サクラメント」(秘蹟)と呼ばれる儀式を信仰の中心としていた。これらの儀式は、生まれてから死ぬときまでの7つの儀式で、天国へ行くために必要とされていた。しかし、これらの儀式は聖書には書かれていない。加えて、教会は救済財という概念を利用し、秘蹟を行うことで信者が救済されると主張していた。免罪符の販売も行われ、金を寄付すれば天国に行けると教えていた。このような教会の状況は、キリスト教本来の教義とはかけ離れたものであった。

宗教改革とは原点回帰だった

宗教改革は、ルターやカルヴァンによって行われたキリスト教の原点回帰運動である。彼らはローマ教会の腐敗、特にサクラメントや免罪符の慣行に反対した。カルヴァンは予定説を提唱し、どんな行動をしても人間は絶対に救われないと主張した。これはキリスト教本来の教義への回帰であり、改革というよりは教義の原点回帰であった。ルターも一時期予定説を信じていたが、後にこの考えから離れた。対してカルヴァンは予定説を徹底的に推し進め、ルターとは異なる道を歩んだ。宗教改革は、キリスト教徒であっても理解が難しい「過激思想」を含んでいたが、キリスト教の本質への回帰として重要な意味を持っていた。

近代科学と仏教の共通点

★仏教:法前仏後/キリスト教:神前法後
釈迦は、人間の苦しみは理由なく無作為に訪れるわけではないと見た。すべての涙、すべての悲しみには根本原因がある。彼はこの原因と結果の相互作用を「ダルマ」と名付けた。ダルマは人間の苦しみだけでなく、宇宙そのものを支配する法則である。では、苦しみからどう逃れるか。その答えもまたダルマにあった。苦しみを取り除くには、苦しみそのものにではなく、その原因に取り組むべきだ。目の前の痛みにとらわれていては、根本的な原因を見落とし、苦しみは永遠に消えない。
宇宙を動かすダルマ、因果律を理解することが鍵である。ダルマを知ることで、苦しみの原因を消し去り、悟りへの道が開かれる。
この論理は近代科学の真髄とも通じるものである。釈迦が人間の苦しみの理由を求めたように、ニュートンもリンゴが地面に落ちる理由、月が落ちてこない理由を探求した。彼の追求は万有引力の法則の発見につながり、物理学の基礎を築いた。
仏教では、「法前仏後」という言葉がこの智恵を表している。因果律は釈迦が悟る前から存在していた。釈迦でさえ、この宇宙の法則を変えることはできない。だからこそ、ダルマを悟る必要がある。法が先にある、それゆえに「法前仏後」なのである。


※釈迦とニュートンの姿勢は同じだが、仏教は倫理的因果律で、ニュートン物理学は事実(起こるか起こらないか)の因果律。この点は大きく異なる。

神はすべてを超越する

キリスト教では、神が全てに先立ち、法則を作ったとされる。これは「神前法後」と表現され、神がこの宇宙を創造し、宇宙の法則を定めたという考えに基づいている。聖書において、神は「最初に光あれ」と言い、実際に光を生み出すなど、物理現象さえ神が創造したとされている。神は全知全能であり、どんなことでも可能で、神の意志に妨げられる要因は存在しない。

しかし、人間の善行が神の決断に影響を与えることはない。神は全てを超越した存在で、物理法則の影響も受けず、人間の行動によって考えが変わることもない。太陽が東から昇り、西に沈むように、神の決断も動かされない。このため、キリスト教では、人間はどんな行動をとっても神による救済は左右されないとされる。

あなたが善行を積もうが何をしようが、神の決断はけっして動かされない。こう考えるのがキリスト教:5世紀初頭、キリスト教の教義をめぐってアウグスティヌスとペラギウスとの間で大論争が行なわれた。「人間に自由意志はある」と考えるペラギウスにアウグスティヌスは断固として反対し、「人間には独力で善をなしうる能力はない。それは神の恩恵のみによって可能である」と言った。ルターやカルヴアンの思想は、アウグスティヌスと基本的に同じである。

人間は2度死ぬ

キリスト教では、全ての人間がアダムとイブの原罪を持つ堕落した存在であり、その罰として死が与えられている。しかし、聖書における「死」とは一般的な理解とは異なり、肉体の死は「仮の死」とされる。天国や地獄への即時の行き先はなく、これらは比喩に過ぎない。本当の死は、将来起こるとされる「最後の審判」の際に訪れる。最後の審判で人々は一時的に復活し、神によって真の死、すなわち永遠の死を与えられる。この永遠の死により、人間はもう復活することはない。これがキリスト教における人間の死の概念である。

ルールを変えられるのは神様だけ

キリスト教では、全人類がアダムとイブの原罪を背負っているとされ、この罪を免れることは人間の努力では不可能である。しかし、最後の審判で神は一部の人々に「永遠の生」を与え、「救済」するとされる。この救済は人間の行いに基づくものではなく、神自身が決定する。神は万能であり、自身が定めたルールを変えることもできる。したがって、救済されるか否かは神の意志によるものであり、人間の力では神の決定を覆すことはできない。これがキリスト教における救済の本質である。

善人が救われない理由

[設問]最後の審判において、神が救済するのはどんな人か
神が永遠の命を与える相手は、どのような人物か。もし神が善人だけを救うなら、誰もが善人になろうと努力するだろう。これは子どもが親の好意を引き出すためにいい子を演じるようなものだ。しかし、全知全能の神が人間の計略に乗ることはあり得ない。
神は人間の小さな策略を見透かしている。だから、簡単な条件に基づいて救済を決定することはないだろう。神の判断基準は人間の想像を超えている。神が善人を選ぶとしても、その基準は私たちが思いつかないものに違いない。
[回答]どんな人間が救われるかは誰にも分からない
つまり、とんでもない悪人が救われて、善人が救われなくても、何の不思議もないということ。神の判断基準は、人間にはとうてい推測も付かないと考えるべき。

人間の努力も意志も意味がない!

カルヴァンの予定説では、「誰が救われるかはその人が生まれる前から決まっている」とされている。救済されるか否かは、個人が生まれる前にすでに神によって定められており、個々の人生や行いは関係ない。神は万能であり、各人の運命を事前に定めている。そのため、人間の努力や意志は救済に影響しないとされる。神は物理法則や宇宙を創造できるほどの存在で、個々の人生の運命を決めることは容易いこととされる。すべては神が予定した通りに起こり、最後の審判も例外ではなく、偶然は存在しない。この理論によれば、人間の努力や意志は結局何の意味も持たないとされる。

預言者は「神のラウド・スピーカー」

カルヴァンの予定説は、神がすべてを予定しているという聖書の教えに基づいている。この理論は、聖書を詳細に読むと随所にその教義が表れており、カルヴァンだけでなくルターも一時期はこの考えを信じていた。
しかしカルヴァンが活躍していた当時でさえ、予定説に対して批判が後を絶たなかった。その代表がジョン・ミルトン。イギリスではシェイクスピアに次ぐ大文豪だが、彼は予定説を批判して、こう言っている。
「たとい地獄に堕されようと、私はこのような神をどうしても尊敬することはできない」

この教義には批判も多いが、それはキリスト教の立派な一部である。
神が全てを予定していることは、特に預言者たちの物語で明らかである。預言者は「神の言葉を預かる人」として、神のメッセージを伝える役割を担う。彼らは神から直接指名され、神のラウド・スピーカーとして機能する。預言者になる人物の選定基準は不明であり、信仰心が篤いかどうかとは限らない。預言者エレミアの例がそれを示している。

神はこうやって現われる

エレミアという少年がいたが、彼についての詳細は旧約聖書には記されていない。どこにでもいる普通の少年だったと考えられる。ある日、神が突然彼の前に現れ、「お前は預言者である」と告げる。神はエレミアが生まれる前から彼を預言者として選んでいた。エレミアが驚いて「私は若者に過ぎません」と答えたが、神は彼の意見を受け入れるわけもなく、「わたしが命じることをすべて語れ」と命じた。預言者は神の言葉をそのまま伝えるだけの役割を持つため、能弁である必要はなく、年齢も関係ない。

預言者ほど、つらい仕事はない!

エレミアは神に従って預言者になったが、彼の人生は決して幸福ではなかった。神は彼に妻を持つことや、弔いや酒宴に参加することを禁じた。エレミアはエルサレムに派遣され、神を忘れ享楽にふける人々に対して警告を伝える役割を担ったため、必然的に人々から嫌われる存在になった。エレミアは神の命令を守り、不幸なことばかりを告げる役割を果たした。預言者とは神の警告を運ぶ存在であり、そのためにしばしば不幸な立場に置かれる。聖書において、預言者になることは極めて厳しい運命であり、神の意志に従うことが求められる。

予定説の恐るべきパワー

予定説に基づく信仰は、人間の救済がすでに神によって決定されているという理念に基づいている。神が全知全能であるため、信仰しても個人の救済は神の決定に左右されない。これに対し、日本人の感覚では御利益を求める信仰が理解しやすいが、予定説を信じる真のクリスチャンやカルヴァン主義者は、神の偉大さを尊重することに価値を見出している。カルヴァンの予定説を信じる者は、信仰によって神のことを常に心に留め、熱心な信者となる。この予定説はヨーロッパ全土に広がり、ユグノーやピューリタンなどの新教徒に影響を与えた。しかし、予定説を理解するためには、その論理を頭で理解するだけでなく、信じる人々の気持ちになることが重要である。

救われる人は、どんな人?

予定説によれば、「誰が救われるか」は人間の理解を超えているが、神様が救済する人々には共通点があると推定できる。救われる人は、間違いなくキリスト教を信じ、神の万能を信じているはずである。神は万能であり、救済を予定すると同時にその人がキリスト教を信じるよう導く。したがって、神から救われる人はキリスト教徒である可能性が高い。ただし、単なるキリスト教徒ではなく、筋金入りの信者である必要があり、例えば、教会に行かないグウタラ信者や堕落したキリスト教を信じる者は救われない。真に救われる可能性があるのは、予定説とカルヴァンの教えを信じる人々である。

なぜ、予定説を信じると熱心な信者になるのか

★神の予定説を信じるとものすごいパワーが!
★救いの必要条件=予定説を信じる事
予定説を信じることは、救われるための「必要条件」とされるが、「十分条件」とは限らない。つまり、予定説を信じるだけでは必ずしも救われるとは限らないが、予定説を信じる人は救われる可能性があるとされる。予定説によれば、人間の一生は神によって定められており、予定説を信じること自体も神の導きによるものと考えられる。このため、予定説を信じることによって「神から選ばれたかもしれない」と感じることができ、これは信者にとって大きな光栄となる。結果として、カルヴァンの予定説を信じるプロテスタントは、非常に熱狂的に信仰を深め、信仰心が冷めることなく、むしろ加速度的に増していく傾向がある。

「新人類」が近代を作った

信者は、予定説に出会い、それを信じること自体が神の導きだと感じるようになる。これにより、自分が救われる可能性があると思い、信仰にさらに力が入るようになる。信仰が深まるほど、神の導きを感じ、さらに信仰を深めるというサイクルが生まれる。ただし、どれだけ信仰を深めても、実際に救われるかどうかは分からないため、信仰心に終着点はない。

カルヴァンの予定説が普及することで、プロテスタントは大きく変化し、信仰の無限サイクルに入り、従来のキリスト教徒とは異なる「新人類」として現れた。この新しいタイプのプロテスタントは、絶対王権の崩壊だけでなく、近代民主主義や資本主義の出現にも影響を与えた。カルヴァン自身は宗教者であり、歴史を変える意図はなかったが、彼の思想がヨーロッパ全体、さらには世界史に大きな影響を与えた。

コラム:かくして議会は誕生した~イギリス憲法小史(136)

イギリスはなぜ議会を産み出したのか

イギリスの議会制度と民主主義の発展には、中世封建体制の崩壊と王権の発展が関連している。イギリスでは1265年に最初の議会が招集され、その後「模範議会」が開かれ、貴族院(上院)と庶民院(下院)に分かれた。当初は貴族院が強かったが、次第に庶民院が力を持ち、国王の力を上回るようになった。この逆転現象がイギリス独自の民主主義を産み出した。

ジェントリーとヨーマン

庶民院はジェントリー(準々貴族)とヨーマン(準々々貴族)という特権階級によって支配されていた。ジェントリーは貴族に次ぐ階級で、土地を所有する中小の特権階級であり、ヨーマンも小規模ながら土地を所有する自作農で中堅階級を形成していた。ジェントリーは全国で約2万5000人、当時のイギリス人口の約1%であり、後には富裕な商人や医者、弁護士などからもジェントリーが出た。ヨーマンは産業革命で主役となった。イギリスの議会政治史は、このジェントリーとヨーマンが中心となって進んでいった。

貴族:公爵duke(デューク)・侯爵marquis(マーキス)・伯爵earl(アール)・子爵vicecount(ヴァイスカウント)・男爵baron(バロン)/準貴族:準男爵baronet(バロネット)・士爵knight(ナイト)/平民(庶民):準々貴族ジェントリーgentry・準々々貴族ヨーマンyeomanry

国王と手を組んだ「庶民」

中世封建制度の崩壊とともにイギリスでは国王の力が強まり、国王は貴族に対抗するためにジェントリーやヨーマンを積極的に登用した。これはフランスの絶対王権と異なり、国王が独自の軍隊や官僚を持つ代わりに、地方行政をジェントリーから選ばれた治安判事に任せるなど、貴族の力を抑える戦略を取った。治安判事は無給だが、国王の期待に応え、王国統治に貢献した。このような現象は、マックス・ウェーバーによって「イギリスの名望家行政」と呼ばれた。

国王軍の中心はヨーマンであり、彼らは「何人にも服従せず、ただ自分の王に服従する」と言われた。ヘンリー7世の時代(1485-1509)には、大貴族たちが前の対仏戦争や内戦で戦死や没落したことで、ジェントリーやヨーマンの活躍によりさらに力を失った。これにより、国王と「庶民」が手を組む形で政治が進行し、イギリスの政治構造に大きな影響を与えた。

「議会の中の王」

イギリスでは中世封建制度の崩壊と共に国王の力が強まり、大貴族を弱体化させたが、国王には教会の抵抗があった。当時、教会領は王国の3分の1を占め、教会から得た富はローマ法王庁に送られていた。この教会勢力を封じることが王権の未来にとって重要だった。

ヘンリー8世は、王妃キャサリンとの離婚問題をきっかけにローマ教会と徹底的に戦った。彼は議会を招集し、ローマ教会との絶縁を決定的にする法案を審議させ、「国王至上法」を制定し、修道院を解散させた。この過程で、ジェントリーやヨーマンは国王と協力し、議会の力が強まった。議会の協賛なくして王が絶対権力を振るうことができないという原則が確立され、「議会の中の王」という概念が生まれた。

ヘンリー8世は絶対君主でありながら議会を尊重し、その結果、議会は「議会主権」に向けて重要な役割を果たすようになった。庶民院は王権との連携により力を増し、イギリスの議会政治が形成されていった。

混乱するイギリス

ヘンリー8世の死後、9歳のエドワード6世が王位を継いだが、彼の病弱さと若さのために伯父サマセット公が摂政となり、イギリスは混乱期に入った。エドワード6世とサマセット公は新教徒であり、イギリス国教会の教義をプロテスタント風に変更した。1549年には礼拝統一法が制定され、教会内の変革が行われたが、これにより国内で反乱が発生した。

エドワード6世の在位6年後の死により、政局はさらに混乱した。サマセット公の弟ウォリック伯が王位継承順位を変更し、ジェーン・グレイを女王にしようとしたが、これは王国の基本法に反する行為だったため、議会は承認できなかった。この状況に対して、ヘンリー8世の最初の妻キャサリンの娘であるメアリ・テューダーがジェーン・グレイを王座から引きずり下ろし、後に彼女を死刑にした。この一連の出来事により、イギリスは大きな混乱を経験した。

ブラッディ・メアリとの対立

メアリ女王(「ブラッディ・メアリ」)が即位しても、イギリスの政治混乱は収まらなかった。メアリはカトリック教徒で、父ヘンリー8世の時代に制定された反ローマ教会の法律を撤廃し、多くの新教徒聖職者を異端として処刑した。議会はこれに反対することができなかったが、一方で、メアリ女王も法律を廃止する際には議会の決議を必要としており、完全に議会を無視することはできなかった。

さらに、メアリがスペイン王子フェリペ2世と結婚した際、議会はイギリスがスペイン王国の政策に左右されないこと、フェリペ2世が「イギリス王」を名乗ることや、イギリスの国費を直接に使うことを拒否する決議を行った。このように、ヘンリー8世時代の「従順議会」は、新しい時代への移行の初歩を踏み出していた。

名君エリザベスが議会を育てた

メアリ女王の偏狭な信仰姿勢を見て、イギリス人はカトリックが嫌になっていたので、彼女の死後、新教徒のエリザベス1世が女王になったのを見て、大いに歓迎した。エリザベスは、ヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンの娘である。
このエリザベス女王は美貌と同時に、政治の天才にも恵まれていた。彼女は父ヘンリー(8世)の政治手法を踏襲し、さらにそれを深めていった。また議会との関係もさらに良好になった。
彼女は絶対君主でありながら、その権力を直接に振るうことが少なかった。どんな政策もかならず議会の支持を得てから行なうことにしたし、また、議会をそのように導くことの名人であった。
スペインに対する宣戦布告(1588年)や、スコットランド女王メアリ・ステュワートの処刑といった歴史的決断は、すべてエリザベスの意志でありながら、彼女はけっして自分からそれを言い出さず、議会から言い出すようにし向けた。彼女は純粋な絶対君主であったけれども、後代の立憲君主のように振る舞ったのである。
女王と議会の良好な関係の中で重要な変化が起きた。
それは「議会における言論の自由」の確立である。この権利こそ、のちに憲法の最重要項目となる(日本国憲法第5条帝国憲法第3条)のだが、その濫觴(らんしょう:源流)はエリザベス朝に発する。
エリザベスは議会を重視し、議会の支持を渇望したから、けっして議会に圧力をかけなかった。そこで議員たちは女王を愛しながらも、あえて女王の結婚問題や相続問題を活発に論じた。こうした「無礼な発言」をしても女王自身は、それを許した(議会の側が自粛したり、枢密顧問官が弾圧した例はある)。こうして議会は言論の府へと変貌していったのである。
子どものなかったエリザベスが死に、「王国の基本法」に基づいて即位したのが、「謀反人」メアリ・ステュワートの子ジェームズ1世である。
スコットランド生まれのジェームズはイギリス議会の何たるかを知らなかったので、議会を無視して、王権神授説を振り回した。また、議員に対して有形無形の圧力をかけた。
その結果、ついにジェームズの弟であるチャールズ1世のとき、ピューリタン革命が起こるわけだが、このとき議会が国王に抵抗したのも、エリザベス時代に作られた伝統ゆえであった。
名君エリザベス時代に発達した議会は、ついに国王をも倒すほどに成長したのである。

王政復古から名誉革命へ

ピューリタン革命がクロムウェルの死とともに終わりを告げると、王党派が力を盛り返し、殺された国王の子であるチャールズ2世が1660年に即位する。いわゆる王政復古である。王政復古は、当初、革命の混乱に懲りたイギリス人に歓迎されたが、チャールズ2世も、その弟ジェームズ2世もともにカトリックであったため、その蜜月状態は長く続かなかった。
ジェームズの時代になると、議会の離反は決定的になった。かくして行なわれたのが名誉革命である。
1688年、議会の代表者たちは秘密裏にオランダ総督であるオレンジ公ウィリアムに嫁いだ新教徒のメアリに接触した。彼女にその意志があるのならイギリス国王位を与えるという前代未聞の提案がなされた。この提案を聞いたメアリとウィリアムはさっそくイギリスに軍隊を率いて上陸、ジェームズは亡命した。
こうして議会はみずからの力で新しい国王を選んだわけだが、そこで問題になったのはメアリの夫ウィリアムの扱いであった。
結局、議会は1689年、「権利の宣言」を起草し、これを承認することを条件にウィリアムとメアリを「共同統治者」にすることに決した。
この宣言では、法の支配が国王の支配に優先すること、課税には議会の承認が必要であること、議会内における言論の自由などが記されていた。この宣言は「権利の章典Bill of Rights」として議会で可決され、法律となった。
この名誉革命によってついにイギリス議会の地位は確定したのである。

第5章:民主主義と資本主義は双子だった(145)

人間は便器である!?

人間はただの便器かもしれない。予定説によると、人間が救済されるかどうかはすでに決定している。これを深く掘り下げると、「人間は神の奴隷である」という結論に至る。表面上は自由意志を持っているように見えるが、それは幻想に過ぎない。人間は神に操られる人形、つまり神の奴隷に過ぎない。最終的な審判で誰が救われるかは、神の意思によるものであり、人間には意見する権利はない。パウロの「ローマ人への手紙」では、この考えが明確に述べられている。神の救済計画に疑問を持つ信徒もいたが、パウロは断固として言い切る。「神に逆らうものは誰か。造られたものが造った者に、『なぜこんなに造ったのか』と言えるだろうか。焼き物師は同じ粘土から、高価な器とそうでない器を作る権利がある」。美しい花瓶も便器も、土から作られる。何を作るかは陶器職人の裁量であり、土には選択権がない。同様に、人間が救われるかどうかは、人間を創造した神のみが決めることだ。自分が救われない理由を神に問うことは、土が「なぜ自分は便器になったのか」と陶器職人に尋ねるようなものだ。

なぜ、神は人を救うのか

神が人を救う理由は何か?不救助の人は便器のようだと感じられることがある。それではなぜ神は人を救うのか?全員を永遠の死に追いやる方が単純ではないか?これについて、パウロは「神の豊かな栄光を示すため」と述べている。神が堕落した人間を救うことで、神の力の偉大さを証明するのだ。神の救いは憐れみからではない。神の思いは人間には計り知れないが、理にかなっている。エデンの園での裏切りが全ての始まりで、人間は原罪を背負っている。この原罪を与えたのは神自身だ。神が人を救うのは、憐れみ以外の理由である可能性が高い。
人間は神の栄光を示すための道具に過ぎない
これがカルヴァン主義の核心だ。キリスト教の神は人間を軽視している。人間には価値も可能性もないとされる。しかし、神への依存が人間に残された唯一の道だ。キリスト教から民主主義が生まれるのは疑問が残る。キリスト教の予定説では、人間は神の奴隷であり、権利も自由もない。これは近代民主主義とは正反対だ。

仏教は人間の努力と可能性を肯定する。仏教は民主主義に近いかもしれないが、民主主義はヨーロッパのキリスト教社会から生まれた。これには必然性がある。

笑止千万「子どもの人権」

民主主義を理解するためには、まず「人権」の概念を理解する必要がある。人権は近代民主主義と密接に関連しており、人権理解なしに民主主義の理解もない。しかし、日本では人権の理解が不足していると指摘されている。特に「少年の人権」という用語の使用は誤解を招きやすい。少年法改正を巡る議論で、「少年の人権を守れ」という主張があるが、これは実際には「少年に特権を与えよ」という意味に近い。少年法による未成年者の保護は、大人にはない特権を子どもたちに与えることになる。そのため、少年法の議論は本来「子どもに特権を与えるか否か」に焦点を当てるべきである。日本のマスコミはこのような基本的な人権の概念を誤解しており、議論のすり替えをしていると批判されている。

最初に特権ありき

「少年の人権」という話が出る背景には、人権という概念が近代民主主義の誕生と深く関連していることがある。近代民主主義が登場するまで、人権という考えは存在しなかった。中世には、特権が支配的であった。王や領主、商人、職人、農奴まで、すべての階層に特権があり、これらは世襲された。この特権社会は絶対王権が成立した後も基本的に変わらなかった。しかし、予定説の信者が登場すると、特権は「人権」という概念に変わった。人権は特定の人たちだけでなく、すべての人に平等に与えられるものとされた。したがって、「少年の人権」という言葉は、歴史的な進歩に逆行するものであり、人権は全ての人に等しくあるべきものであるとされる。

王様も領主も神の奴隷

中世社会が予定説によって急激に変わり、特権が人権に変わった理由は、プロテスタント信者の心理を理解することで明らかになる。予定説を信じるプロテスタントは、神様について常に考え、自身が最後の審判で救われるかどうかに焦点を当てていた。彼らにとって、現世の事柄は重要ではなかった。予定説の根底には、無限で万能な神様の存在がある。このような神様を信じると、王様や領主なども含め、すべての人間が神に比べれば無意味な存在に見えるようになる。プロテスタント信者は、すべての人間が神の前で平等であると感じた。その結果、神の目から見れば、王様も領主も平民も差がなく、すべて神の奴隷に過ぎないという認識が生まれた。これにより、人間が神の下で平等であり、持っている権利も同じであるという人権の概念が誕生し、民主主義の基盤が形成された。

予定説は「革命のすすめ」!

予定説は、社会を見る目を変えることで、革命を促進する役割を果たした。当時の社会は伝統主義が支配しており、「永遠の昨日」という考え方に基づいて、社会の仕組みや決まりを変えてはならないとされていた。しかし、予定説を信じるプロテスタントは神の絶対性を信じており、従来の伝統や社会の仕組みが神の御心に沿っているかどうかを重視した。このため、神のためであれば社会の仕組みを壊して作り替えることも許されると考えた。この思想は、フランス革命やロシア革命を含む近代の多くの革命につながり、平等の概念や革命の概念を生み出した。これらの概念はカルヴァン以前には存在せず、近代民主主義を理解する上で非常に重要なポイントである。

※予定説の産物:20世紀の世界を動かしたマルクス思想は、本質的に予定説である。マルクスは資本主義の崩壊は必然であって、その後に「労働者の楽園」が来るとしたが、これはまさに予定説ではないか。もちろん、この場合、「救済」されるのはマルクス信者に限られるというわけである。だがマルクスの予定説は、ソ連の崩壊によって力を失った。これに対して、カルヴァンの思想は回り回ってアメリカ合衆国を作ったわけだから、やはり本家本元は強い。

革命を起こした総理大臣の子孫

予定説が近代民主主義の基礎になった典型例は、イギリスのピューリタン革命だ。この革命は予定説を根拠に行われた。ヨーロッパ各地に広がったプロテスタンティズム、特にカルヴァンの影響を受けた予定説は、ピューリタンやユグノーなどの信者に深く根付いていた。この思想は特権階級を否定する動機となり、新しい社会秩序の構築へと導いた。
1642年のピューリタン革命は、絶対王権に対する議会の反発から始まり、内戦を経て国王チャールズ1世が処刑されるに至った。これは当時のヨーロッパでは考えられない出来事だった。
オリバー・クロムウェルはジェントリー階級出身で、先祖はヘンリー8世時代の重要な政治家だった。しかし、熱心なピューリタンになった彼は王権に対する考え方が変わり、王様を殺すことを正当化した。この変化は、予定説が人間の思考や行動を大きく変える力を持つことを示している。

民主主義の扉を開いた「人民協約」とは

ピューリタンの信仰に目覚めたクロムウェルが国王殺しを行ったが、思想的にさらに先進的だったのが「水平派」である。水平派は万人が平等であるべきだと考え、1647年には選挙権の平等や思想信仰の自由を保障する民主主義的な成文憲法案「人民協約」を提案した。この人民協約は、アメリカ独立宣言よりも120年以上前のものであり、現代の民主主義の基礎とも言える内容だった。

しかし、クロムウェルはこの水平派の考えを受け入れることができなかった。1645年に彼が組織した「ニュー・モデル・アーミー」は、手工業者や農民を中心とした水平派によって支えられていた。革命成立後、クロムウェルは革命軍全員による会議を開催し、革命方針を討議するなど進歩的な姿勢を見せたが、水平派が提唱するよりもさらに先進的な民主主義の実現には至らなかった。

※ニュー・モデル・アーミー:「新模範軍」とも訳されるクロムウェルの軍隊が強かったのは、この軍隊のシステムが画期的であったからである。中世の戦争は、騎士と騎士の一騎打ちといった個人プレーが中心だったが、ニュー・モデル・アーミーは集団としての作戦行動を重んじた。家柄や職業に関係なく、実力主義での人材起用が行なわれたし、軍律も厳しかった。

パトニーの大論争

ロンドン郊外のパトニーで開催された「パトニーの大論争/パトニー討論」では、水平派が「イングランドで生まれたすべての人間に選挙権を」と主張した。これに対し、クロムウェル側の代表者アイアトン将軍は「財産を持っていない人間は国政に口出しすべきでない」と反対した。当時の社会では権利が身分によって異なるというのが常識で、財産による区別が重視されていた。水平派の「万人が平等な権利を持つ」という考えは、当時としては革命的で、迫害されるほど先進的だった。
しかし、この平等や人権の概念は時間をかけて定着し、最終的には受け入れられるようになった。アメリカ独立宣言はこの論争から120年以上後のことで、イギリスで普通選挙が行われ始めたのは1911年で、女性の選挙権は第二次世界大戦後まで待たなければならなかった。このように、人権という概念は当初は馴染みがなく、受け入れがたいものだったが、やがて広く認められるようになり、現代の民主主義につながっている。

資本主義の起爆剤

予定説の誕生がもたらしたのは民主主義だけではなく、近代資本主義の出現も同時に促した。実際、民主主義と資本主義は双生児のような存在で、この二つは切り離して考えることができない。近代資本主義の成立は、単に技術の進歩や産業の勃興によるものではなく、プロテスタンティズムという起爆剤が必要だった。この歴史的事実を明らかにしたのが、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーである。彼は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という著書で、プロテスタンティズムが近代資本主義の形成にどのように影響を与えたかを示している。

陶朱・猗頓の富(とうしゅ・いとんのとみ)

先ほども述べたように、資本主義は、その名のとおり産業が発展し、資本が蓄積されていけば、自然に生まれてくのと思われています。しかし、考えてみれば、何も近代のヨーロッパを待たずとも、それ以前にも経済が発展した場所はあるし、また大富豪もたくさんいた。そのいい例が中国です。かの司馬遷が著わした『史記』の中に『貨殖列伝』という有名な巻がありますが、これは春秋・戦国時代の中国において、商業で成功を収め、大富豪となった人々の伝記を記したもの。言うなれば、サクセス・ストーリーの巻です。
中でも有名なのは、陶朱の物語です。熟語に「陶朱・猗頓の富」という言葉があるくらい、この2人の成功はよく知られています。

春秋時代の越王であった勾践(こうせん)の忠臣に 范蠡(はんれい)という人物がいた。この范蠡はある時、越王に進言して「国を富ませたければ、物価法則を利用すべきです」と言った。つまり、物価上昇が極端になれば、やがて物価は下落に転じる。逆に、物価が極端に下がれば、その後は上昇する。この法則を熟知して、市場でモノを売り買いすれば、国庫はたちまちにして豊かになるでしょうと言ったわけです。

この当時でも優れた商人なら、こうした法則は知っていたかもしれませんが、それを国家の経済政策にすべきだと説いたのは、おそらく范蠡が史上最初であったでしょう。
この結果、越国はたちまちにして豊かになり、長年の宿敵であった呉国を倒すに至るのですが、この大成功を見届けると、范蠡は越国の首相を辞任して、自分自身が商人になって金持ちになることを思い立った。
ーー首相から商人とは、大胆な転職ですな。
こんな例は現代でも、なかなか見あたりません。そのくらい、当時の中国においては商業が盛んであったとも言えるわけですが、その范蠡は陶という地に行って、未公と名乗った。すなわち、陶朱です。
胸は天下の中央で、諸国の通商がしきりに行なわれている。朱公はそこで店を開き、マーケットの動向をよく観察して、大いに利益を上げた。あまりにも金持ちとなったものだから、陶朱と言えば金持ちの代名詞になった。
ちなみに、「陶朱・猗頓の富」の猗頓とは、朱公の弟子になった人物です。猗頓は朱公から経済法則の奥義を伝授され、牧畜で得た富を元手に製塩業を行なって巨富をつかんだと言われています。

なぜ、中国やアラブでは資本主義が誕生しなかったか

春秋・戦国時代から2000年以上前の中国では経済が盛んになり、宋の時代には世界一の経済力を持っていた。この経済大国宋との交易で平清盛は巨富を築いた。明代には中国の経済力が国際的に頂点に達し、大航海や万里の長城の完成などがあった。宋では大運河が建設され、商業都市や産業が勃興し、文化も発展した。しかし、中国には資本主義は発生しなかった。
アラブ世界も、経済力や文化力がヨーロッパよりも桁違いに高かったが、こちらでも近代資本主義は生まれなかった。シンドバッドの物語は当時のアラブ商人の姿を象徴している。中国とアラブ世界はかつての栄華を誇ったが、現在でも近代資本主義が存在しないと言っても過言ではない。

資本否定の思想が資本主義を作る

大塚久雄博士は「前期的資本」という概念を用いて、資本主義の成立について説明している。元手としての「資本」は人類の歴史と共に古くから存在していたが、それがどれだけ集中しても、近代資本主義の精神が注入されなければ、前期的資本に留まる。マックス・ウェーバーは「近代資本主義の萌芽は、資本に敵対的な経済学説が支配してきた地域に求められる」と述べている。
近代資本主義の成立には、金儲けを真っ向から否定する思想が必要だった。これは民主主義の平等や人権の概念の成立と似ており、人間の価値を否定する予定説が必要だった。同様に、利潤を追求する資本主義が誕生するためにも、金儲けそのものを否定する思想、つまり予定説が必要だった。

利息を禁じたキリスト教

カルヴァンが現れる以前のキリスト教は、金儲けや利子を取ることを許さない宗教だった。これは聖書に基づく教えで、「出エジプト記」には高利貸しのようになることや同胞から利子を取ることを禁じる戒律が記されている。旧約聖書を聖典とするユダヤ教徒もキリスト教徒も金貸しをすることは禁じられていたが、同胞以外から利子を取ることは許されていた。例えば、シェイクスピアの『ベニスの商人』に登場するユダヤ人の金貸しシャイロックはキリスト教徒から利息を取っており、これは宗教的に問題なかった。
一方で、儒教には金儲けを否定するような考え方はなかった。孔子は『論語』で「富と貴きとは人の欲するところ」と述べているが、これは人間の本性を指摘したものであり、金儲けが道に反するとは言っていない。

儒教と独占禁止法の共通点

孔子の儒教は、天下すなわち中華世界の統治を行う政治家や役人を対象としており、庶民は主な対象ではない。その目的は、天下を統治する者が儒教の教えに従って正しい政治を行うことによって、社会全体がうまくいくことにある。儒教はキリスト教や仏教のように個人の救済を目的とする宗教ではなく、集団救済の宗教と言える。儒教は利潤の追求を明確に否定も肯定もしないが、商業において富の独占は否定している。孟子は「富の独占はいけない」と述べ、これは独占禁止法のスローガンに似ている。
資本主義の追求が独占に行き着くと市場原理が失われるため、自由市場を保護するために独占禁止が必要である。しかし、儒教のもとでは、利潤追求を最初から許してしまうため、前期的資本の段階を越えて近代資本主義には至らない。近代資本主義を生み出すためには、利潤追求を真正面から否定する宗教、例えばキリスト教のような宗教が必要とされる。

世界の1割を所有したフッガー家

キリスト教が利潤追求を禁じていたが、商業や金貸しが必要だったため、徐々に規制は緩くなった。この代表例がイタリアのメジチ家と南ドイツのフッガー家で、フッガー家は世界の富の10分の1を所有していたほどだった。メジチ家は銀行業を通じて大富豪になり、法王やフランス王妃を輩出した。フッガー家は銀や銅の採掘で巨利を得て、スペインとオーストリアのハプスブルク家から巨額の借金を引き受けた。
当時のカトリック教会はこれらの大金持ちに何も言わず、むしろ献金を受けていた。ルターはフッガー家の蓄積された富について批判していた。フッガー家は自らの救済を願い、「フッガライ」という共同住宅を建築し、貧しい人々に提供した。これは世界最初の福祉施設と言われ、入居条件はフッガー家の魂の救済を祈ることだった。
しかし、これらの巨大な富を持つ家族が現れても、そこから資本主義は生まれなかった。キリスト教の影響下にあった当時のカトリックでは、資本主義は誕生しなかった。

カルヴァンのルール

カルヴァンの予定説では、金儲けや富は絶対に良くないとされ、人間は富によって堕落すると考えられていた。カルヴァンは徹底して質素な生活を推奨し、少しの楽しみすら遠ざけるべきと説いた。彼は酒を飲むこと自体は問題視せず、酔っぱらうことを禁じた。この考え方は後にアメリカの禁酒法として復活する。
ジュネーブ市当局から信仰生活の指導を要請されたカルヴァンは、多くの禁令を出した。これには、成人前の少女が絹の衣装を着ることや、成人の未婚女性がビロードを着ること、金や銀の刺繍のある服、宝石類の使用、婚礼の宴席での菓子や砂糖漬けの果物の禁止などが含まれる。酒は地元の赤ワインのみ許され、酩酊は禁止されていた。獣肉や鶏肉、パイの食事も禁止され、結婚以外の男女関係も許されなかった。
カルヴァンの時代のジュネーブでは、芸術のすべての形式が禁止された。音楽、彫刻、聖書「詩篇」の朗唱時における旋律への心向けも禁じられていた。さらに、クリスマスやイースターのお祭りも「聖書に書かれていない」として禁止されていた。

KGBをしのぐ秘密警察

ジュネーブの生活では、カルヴァンのルールに従い、あらゆる娯楽が排除された。市民はちょっとした楽しみも感じてはならないとされ、これがカルヴァン主義の厳しい規律だった。ジュネーブはカルヴァン主義の牙城で、熱心な信者たちはこれを当然と受け入れていた。
不信心な人々を取り締まるために、宗教評議会という秘密警察が設立された。シュテファン・ツヴァイクの「権力とたたかう良心」によれば、この秘密警察はKGBをしのぐほど厳格で、市民の家に押し入り、禁じられた食べ物や甘いお菓子がないか調べていた。密偵たちは市民生活の隅々にまで入り込み、信仰生活をコントロールしていた。
カルヴァンのルールを破れば、刑罰が与えられた。歌を口ずさんだり、カルヴァンの教えを誹謗すれば監獄行きや死刑になることもあった。しかし、最も重い罰は破門で、教会から見放されると救済の可能性がなく、永遠の死が待っていると信じられていたため、市民は破門を避けるために徹底してカルヴァンのルールに従った。

予定説を信じれば、カネが貯まる

ジュネーブの市民たちはカルヴァンの教えに従って質素な生活を送っており、これはカルヴァン主義者たちの間で共通の生活様式だった。予定説の信者は、カネを儲けて楽な生活をしようとは考えていなかった。カルヴァンの教えは資本に敵対的な思想とされ、利潤追求を否定していた。
しかし、ここに皮肉が生じる。カルヴァンの教えを信奉し、予定説を信じるほど、その人の手元にはカネが流れ込むようになる。質素に暮らすことによって出費が減り、同時に収入が増えて裕福になるという現象が起こる。カルヴァンの教えを守ることによって、逆に財産が蓄積するという、意図しない結果につながるのがこの皮肉のポイントである。

「天職」の誕生

予定説を信じると人が裕福になる理由を理解するためには、当時の金銭観と労働観を知る必要がある。中世の人々は、日曜日の安息日以外でもあまり働いておらず、生活を支えるのに必要な分だけ稼ぐという考え方が一般的だった。職人などは週に1日か2日働いて日銭を稼ぎ、それ以外はゴロゴロ過ごすことが多かった。当時のヨーロッパでは、キリスト教の金銭倫理に基づき、必要以上にカネを稼ぐことは悪徳とされていた。
しかし、予定説を信じる人々はこれとは異なり、自分の職業が神が選んだ「天職」と考え、安息日以外はひたすら働くという姿勢を持っていた。この「天職」という概念はプロテスタント以前のヨーロッパには存在しなかった。仕事を天職として捉えれば、怠けることは許されず、働き続けることが神の御心に沿う方法とされた。結果として、働いて働いても稼ぐ必要はないため、貯金が増えることになった。これが予定説を信じる人々が裕福になる理由である。

働かざる者食うべからず

キリスト教には元々、「労働こそが救済の手段である」という思想がある。「働かざる者食うべからず」という言葉は、キリスト教の修道院の戒律から来ており、レーニンの発明ではない。キリスト教の修道僧たちはワインやバターを作るが、これは自給自足のためだけではなく、「祈り、かつ働け」という教えに基づいている。キリスト教では、働くことが救済につながるとされている。
一方で、仏教にはこのような思想はない。特にインド仏教では、僧侶の経済活動が禁じられており、彼らの生活は在家信者からのお布施によって支えられている。インドの気候や食糧事情により、修行者たちは少ないお布施で生活できる環境にある。しかし、仏教が中国に広まると、気候の違いなどから、仏教僧も変質し、権力者に迎合したり、信者からの布施を強要するようになった。それでも、仏教僧は自分で働いて稼ぐことは考えない。働くことは修行の妨げとされており、これが仏教とキリスト教の大きな違いの一つである。

受験勉強とキリスト教

キリスト教には「労働こそが救済の手段である」という行動的禁欲の思想があり、「働かざる者食うべからず」という考えはキリスト教の修道院の戒律から来ている。パウロは伝道を天職とし、そのためにあらゆる楽しみを犠牲にしていた。修道僧たちも同様に、労働によって行動的禁欲を実践していた。
プロテスタントの登場により、行動的禁欲は修道院から一般社会に広がった。大工や鍛冶屋、農民も自分の天職を全力で行い、他の喜びをすべて禁欲することが神の御心に沿うとされた。予定説では救済されているかどうかが人間にはわからず、その答えは最後の審判まで分からないため、信者は気が狂ったように働く。働くことでしか不安を和らげることができず、たとえ富が増えても仕事を辞めることはない。この「仕事中毒」は世界史上他に例がなく、たとえ紀伊国屋文左衛門やシンドバッドのように富を築いた人物であっても、プロテスタントのように絶えず働くことはなかった。プロテスタントの「天職」にはゴールがないので、どれだけ富があっても働き続けるのが特徴である。

隣人愛が定価販売を作った

キリスト教の教えにおける労働は、隣人愛の実践とも関連している。他人が必要とする商品やサービスを提供すること自体が隣人愛の行為となり、これにより働くことがさらに正当化された。隣人愛をどれだけ行ったかの指標として利潤が用いられたが、キリスト教は暴利を否定しても、商品やサービスを適正な価格で販売することには反対していなかった。
ヨーロッパで定価販売が広まった背景には、この思想が影響している。それまでの商人は買い手に応じて値段を決めていたが、プロテスタントにとって商売は隣人愛の実践であるため、貪欲は避けられるべきであった。結果として掛け値なしの定価販売が普及するようになった。
プロテスタントたちはこのような方法で隣人愛を実践し、隣人愛の高さを確認するためにより多くの利益を上げるよう努めた。カルヴァンはもともと富を否定していたが、その教えが逆に利潤追求を許容する形に変わった。この逆転現象が起きていると言える。

エートスこそが、すべてのカギ

予定説の教えは、あくまでも信仰、つまり人間の内面に関わる問題を取り扱っているわけですが、これを信じると外面に現われている行動そのものも変わってしまう。これまで見てきたように、恐るべき働き者になる。
このことを指して、ウェーバーは「エートスの変換」と言っています。
エートス(Ethosドイツ語、ethic英語)というのは、日本語に訳すと「行動様式」ということになるのですが、行動様式といったのでは単に外面の行動だけを指すように思われかねません。
しかし、外面の行動が変わっただけでは、エートスも変わったとは言えない。エートスは、内面的で測定不能な行動も含みます。内面的行動とは、思想、動機、信念……そういったもろもろのことです

カルヴァン主義の信者になると、エートス、つまり人の内面や態度が変わる。たとえ厳しい上司によって1日12時間働かされたとしても、内面が「仕事をしたくてたまらない」と思うように変化するまでは、エートスは変わったとは言えない。しかし、予定説を信じることで、労働に対する見方が変わり、内面に変化が生じる。これに伴い、外面的行動も勤勉で質素な生活に変わる。
民主主義との関連では、予定説の信者は内面的に人間の平等を受け入れるようになり、外面的には王様の首を斬るような革命を起こす可能性もある。つまり、エートスの変化が起きると、内面的な価値観の変化が外面的な行動にも表れるようになる。

資本主義の精神とは

マックス・ウェーバーが指摘する「資本主義の精神」とは、エートスの変換、つまり内面的な態度や価値観の変化を指す。陶朱や紀伊国屋文左衛門のような豪商がいたとしても、彼らの存在だけでは資本主義は生まれない。資本主義の誕生は、カネそのものよりも、エートスの変換によって引き起こされる。
このエートスの変化を促したのが、予定説である。予定説により、「労働は救済の手段であり、隣人愛の実践である」という考えが生まれ、人々は毎日働き、利潤を追求するようになった。これが資本主義誕生の第1段階であるが、これだけではまだ資本主義とは言えない。
資本主義が本格的に出現するためには、第2段階のエートス変化、すなわち目的合理性の精神が必要である。この精神では、ただ働くのではなく、利潤を最大化するために合理的に考え、行動することが重要視される。伝統主義に囚われず、より効率的な方法で生産を行い、利潤を最大化する考え方が、資本主義精神の真髄となる。
目的合理性をさらに推し進めると、先祖代々の商売を続ける必要性を問い直し、より利益を生む仕事に転業する考え方が出現する。これにより産業革命が起こり、新しい産業が次々と生まれるようになる。これが資本主義の精神の本質であり、その結果として資本主義経済が形成される。

さらに利潤最大化という目的を達成するには、日常の経営そのものもまた合理的でなければなりません。そこで従来の大福帳方式から、複式簿記という近代的な簿記システムが生まれてきます。要するに、勘と経験で仕事をするのではなく、もっと数学的、客観的に事業を把握しようという動きが出てきたわけです。こうして、私たちの知っている近代資本主義がどんどん育ってくる。
その資本主義のエートスも、プロテスタンティズム、つまり予定説という媒体、触媒があって誕生したものだというのが、ウェーバーの主張なのです。

日本人に民主主義は理解できるか

ーー先生のお話で、予定説から民主主義や資本主義が生まれてきたことは分かりました。しかし、そうなってくると、はたしてキリスト教徒でもない日本人が本当に民主主義、資本主義が理解できるのだろうかという気もしてくるのですが。
うむ、いいところに気付きました。資本主義にしても、民主主義にしても、その根っこを掘っていけば、かならずキリスト教に突き当たる。
キリスト教の「神」があって初めて、人間は平等だという観念が生まれたのだし、また労働こそが救済になるという考えがなければ、資本主義は生まれてこなかった。それだけでも日本人にとって、いろいろと考えさせられるわけですが、実はこれ以外にも大きな問題があるのです。
それは契約という概念です。この単語は、民主主義にとっても資本主義にとっても欠かすことのできないものなのですが、これもまた聖書から生まれた考えなのです。
はたして日本人は民主主義、資本主義を理解し、体得しているのか。そのゆゆしい問題を考えるうえで、契約は避けて通ることのできない問題です。
そこで次の章では、この基本概念を説明していくことにしましょう。それによって、日本の民主主義、そして資本主義の実像も見えてくるはずです。
読者に民主主義と予定説の関係をもっと知りたい方は、小室直樹著『悪の民主主義-民主主義原論』(青春出版社)第3章を、また資本主義と予定説については同『小室直樹の資本主義原論』(東洋経済新報社)第4章をお読みいただければ幸いである。

第6章:はじめに契約ありき(183)

レボリューションと革命の違い

ジョン・ロック(1632年生):社会契約説

レボリューションと革命の違いは、変化の深さと社会体制への影響にある。ヨーロッパでは、キリスト教の予定説が社会の変化を促し、ピューリタン革命のように王権を打倒する動きが見られた。しかし、単に既存の権力を取り替えるだけでは革命とは言えず、本質的な社会の変革がレボリューションとされる。中国の易姓革命では王朝が交替しても社会体制は本質的に変わらず、これはレボリューションとは異なる。近代ヨーロッパのレボリューション、例えばフランス革命やロシア革命では、旧体制の全面的否定と新しい社会の構築が目指された。これを形作ったのがジョン・ロックの社会契約説などの思想であり、これにより近代民主主義が生まれた。

18世紀を支配した男

ジョン・ロックは1632年にイギリスで生まれ、ピューリタン革命の時代を生きた。彼はオックスフォードで哲学と医学を学び、自然科学にも深い関心を持っていた。ロックの思想は、アメリカの独立やフランス革命に大きな影響を与えた。彼はイギリスの名誉革命を指導し、その思想はアメリカ革命で実現され、フランス革命にも影響を及ぼした。ロックの思想が強い影響力を持ったのは、その科学的アプローチにあった。彼の説得力ある思想は時代を超えて重要であり、17世紀のロックが16世紀を支配する理由となった。

ロックについて、丸山眞男教授は
17世紀に身を置きながら18世紀を支配した思想家」と言っています。
※丸山眞男(1914-1996)政治学者、思想史家。終戦直後に発表した、戦前日本のファシズム分析で一躍有名になる。日本近世および近代の政治思想研究を中心に幅広い業績を残す一方、東大法学部で長く教鞭を執り、多くの弟子を育てた。主な著書として「日本政治思想史研究」、「日本の思想」、「現代政治の思想と行動」などがある。

「自然人」と「自然状態」

ジョン・ロックの思想は、人間や社会を抽象的に捉えることにより「科学的」とされる。彼は多様な国家や社会、人間の違いを無視し、国家や社会が形成される前の「自然状態」にいる人々を想定した。
この「自然人」は平等で自由であり、束縛されることがなく、自然状態では社会や国家が存在しない。ロックはなぜ自然状態の人々が現在のような社会や国家を形成するに至ったのかを考えた。彼の提唱する自然人や自然状態は実際に存在したかは不明で、彼自身もこれを理解していたが、一般的な社会や国家についての議論を進めるため、あえてこの仮定を用いた。

社会科学の始まり

ジョン・ロックの社会科学の原点は、彼の青年時代に接した自然科学、特に数学や物理学の抽象的な発想にある。幾何学での点や線の定義のように、現実には存在しない完全に自由で平等な「自然人」という概念を、社会論の出発点とした。物理学での空気抵抗や摩擦の無視と同様に、ロックは法や政治権力の存在しない「自然状態」を仮定し、この抽象化により人間社会の原理を考察しようと試みた。彼は近代科学が自然現象を抽象化して宇宙の理解を深めたように、人間を抽象化して国家の本質を解明しようとした。

なぜ、経済学は科学になったのか

経済学が科学となったのは、ジョン・ロックのアプローチを受け継いで、現象を抽象化する手法を取り入れたからだ。例えば、「完全競争」(自由競争)という概念は、理想的な市場状況を定義し、売り手と買い手が多数存在し、商品の質が均一で、情報が自由に利用可能で、参加者が自由に市場に参加・脱退できる状態を仮定する。このような完全競争の市場は実際には存在しないが、このモデルを用いることで、商品の価格決定や金利と市場の関係などを分かりやすく説明できる。自然科学と同様、社会科学においてもこのような抽象モデルの利用が重要であり、ロックは政治学の父であると同時に経済学の祖父とも言える。

王はアダムの子孫である!?

王権神授説(divine right of kings)
ジョン・ロックは、自然人と自然状態を考えることから「社会契約説」を導き出した。この理論では、最初に存在した自然人たちは社会を持たずに暮らしていたが、時が経つにつれて国家や社会を形成する必要性を感じた。彼らは契約を結び、政治権力を作り出したとされる。具体的な国家形成の歴史は不明だが、ロックはこの理論で「人間は契約を交わして社会を作る」と論じた。彼のこの考えは『統治二論』(1690年刊行)にまとめられた。

ロックの論文執筆時、イギリスは王政復古の時期で、王党派の影響力が増していた。当時のイギリス人の中には、フランスの絶対王政のように王様が絶対権力を持つべきだと考える人々もいた。これは「王権神授説」、つまり王は神から与えられた権利を持つとする考え方である。ロックの社会契約説は、このような背景の中で形成された。

革命の哲学

★統治二論=社会契約説
一論:王権神授説への反論/ニ論:政治権力の起源は社会契約にある。

ロックの『統治二論』は、王権神授説に反論するために書かれた。彼は社会契約説を用いて、王の権力は神からではなく人民の契約によって与えられたものとし、その権力濫用を牽制する議会の存在を正当化した。国王は人民を守るための存在であり、王様が暴走する際は議会がそれを戒める必要がある。
王様が勝手なことをしないように、人民の代表者が集まる議会が国王の権力濫用を戒める必要がある
国家権力はかならず肥大化して暴走する。
それをくい止めるのが憲法であり、民主主義なのである。

ロックはまた、「革命の哲学」も作り上げた。彼は国家権力が暴走する際、個々の人間には抵抗権革命権があると主張した。
つまり、国家権力が暴走した際には、1人ひとりの人間はそれに抵抗することができる。しかし、それでもなお横暴を続けるのであれば、革命を起こしてもいい
国家を作ったのは人民であり、人民にはそれを覆す権利がある。しかし、ロックは人間が辛抱強いため、革命は容易には起きないとも指摘した。彼にとって革命権は「伝家の宝刀」のようなもので、その存在自体が国家の横暴を抑制する効果があるとした。イギリスの歴史において、抵抗権が行使されたのは限られた例に過ぎず、社会が混乱に陥ることはないとロックは見ていた。

ロックの論敵はホッブスだった

★本来、国家権力は怪獣のように強くなくてはならない(ホッブス)
ロックが「統治二論」で「国家権力は制限されるべきだ」と主張したのには、トマス・ホッブスという思想家の存在が大きな理由の一つである。ホッブスは『リヴァイアサン』で、国家の主権者は絶対的な権力を持つべきだと主張した。彼は国家権力を強力な「リヴァイアサン」に例え、人民に奉仕する政府の概念を否定した。
ホッブスは実は社会契約説の先駆者であり、彼も「社会は人民の契約によって作られた」という考えを持っていた。彼は政治や社会の問題を数学の証明のように解くことができると考え、これはロックの思想と共通する部分である。
ホッブスが国家権力を強力にする必要があると考えた背景を理解することは、ロックの思想を深く理解する上で重要である。ホッブスの『リヴァイアサン』は、この時代の政治学や社会契約説に深い影響を与えた。

人間は人間に対して狼である

「万人の万人に対する戦い」(bellum omnium contra omnesラテン語)
「人間は人間対して狼である」(homo homni lupusラテン語)

ホッブスは『リヴァイアサン』で、自然状態という概念を提唱した。彼の考える自然状態は、原始時代に近く、そこでの人間は基本的に知性を除いて動物と変わらない存在。彼らの主な関心は食糧の確保で、個々人の力の差はあまりなく、誰もが誰かを殺す可能性を持っている。この自然状態では、食料の総量が限られており、人間の予見能力があるため、絶え間ない競争と闘争が生じる。この結果、人々は「孤独、貧困、不快、殺伐そして短命」という生活を送ることになるとホッブスは述べている。
ホッブスの考える自然状態は、文明のない時代を指し、個々人の力の差がそれほど大きくないため、戦いで最終的な勝者が決まることはなく、永遠に闘争が続くというのが彼の見解。このように陰惨な描写は、ホッブスの哲学の核心部分を表している。

ビヒーモス対リヴァイアサン

ホッブスは、自然状態の闘争を収めるためには、「力」が必要であると考えた。彼は社会の成立にはメンバーの合意が必要だと認識していたが、約束だけでは社会は維持できないと主張。彼ルールを破る者には国家権力による刑罰が必要で、この強力な国家権力がなければ社会は成り立たない。そのため、ホッブスは国家が強力な「リヴァイアサン」となることを支持。
ホッブスは、国家権力が弱まると社会はバラバラになり、内乱(ビヒーモス)に陥ると述べた。ビヒーモスを止めることができるのはリヴァイアサンだけで、国家権力(ゴジラ)を強めることが、自然状態に逆戻りすること(キングギドラ)よりマシだと考えた。彼にとっての権力は「必要悪」であり、王権を弁護し革命を否定する思想となり得る。

このホッブスの理論に対して、ロックは社会契約説を持ち出して反論。ロックは、国家権力は制限されるべきだと主張し、ホッブスの見解とは根本的に異なる立場を取った。

土地フェティシズムとは

ロックの社会契約説はホッブスのそれとは異なり、自然状態を仮定するが、彼の考えた自然人は他人を蹴落として食物を奪うような行動を取らない。
「人間の知恵は建設的なものであり、働くことによって食料は増える」と考えた。つまり、自然界の恵みに頼るだけでなく、労働によって富を生み出すという考え方。この考えは当時としては革新的で、富の量は労働によって無限に増やすことができるという新しい見方だった。
この考えは中世ヨーロッパの「土地フェティシズム」とは大きく異なる。
当時、富の象徴とされていたのは土地で、土地が有限であることから常に争いが絶えなかった。ロックの提唱する労働による富の創出は、土地に依存しない新しい経済観を示すものであり、中世の考え方からの大きな転換を意味していた。

なぜ信長は茶の湯を奨励したか

織田信長が茶の湯を奨励した理由は、戦国時代の土地フェティシズム、つまり土地への執着を変えるためだった。信長は土地中心の経済から商品経済への移行を目指し、部下に茶の湯を通じて芸術的関心を植え付けた。茶会での教育や茶器の褒美は、部下の価値観を変えるための手段であり、戦功に対する土地ではない恩賞を与えることで、土地フェティシズムを克服しようとした。しかし、人間の発想はなかなか変わらず、秀吉の時代にも、大名は遠い異国の土地よりも日本の土地を望んでいた。

私有財産はなぜ神聖なのか

ジョン・ロックは、労働が富を生み出すという考えを提唱し、近代資本主義の理論的根拠を築いた。彼は動物と異なり、人間の労働が地球の資源を増やすと見ていた。これにより、働くことの社会への貢献が強調され、カネを稼ぐことに対する罪悪感が減少した。ロックはまた、個人の私有財産が労働の結果として正当に生み出されたものであり、政治権力よりも優先されるべきだと主張した。この考えは資本主義と民主主義の基礎となり、彼はその大恩人とされている。

※私有財産の正当性:1804年に制定されたナポレオン法典は「所有権の絶対」と「契約自由の原則」を打ち出した最初の法典である。所有権とは、所有者が自己の所有物を自由任意に使用・収益・処分しうる絶対的権利である。また、契約は両当事者が自由任意の合意によって成立する。

※人民の生命と私有財産を守る:恐ろしいことに、日本の役人たちにはこの観念が欠落している。薬害エイズ事件で国民を殺したり、あるいはバブルを性急に潰したために国民の持っている土地が暴落したりしても、平然としていられるのがその証拠である。

人民の人民による、人民のための政府

ロックによれば、自然状態では人間は働き富を増やして平和に暮らすことができるが、全員が働き者ではなく、働かない人々によって貧富の差やトラブルが生じる。これを解決するために政治権力や国家が必要とされる。ロックは「社会契約説」を提唱し、政治システムの目的を人民の生命と私有財産の保護に置いた。彼は権力が強くなりすぎることを否定し、国家の主役は人民であり、国家は人民に奉仕するものであると考えた。
この考えはリンカーンの「人民の人民による、人民のための政府」の思想とも通じる。彼の主張は、国家権力は人民によって作られ、人民の代表が政府の運営を監視する民主主義の根本精神である。

※貧乏人とは要するに怠け者:ロックの思想的影響が強いアメリカでは、今でもこう考える人は少なくない。貧しい人を国家が救うのを今の日本人は当然のことだと思っているが、アメリカでは「救貧法」に反対する人がなくならないのも、そのためだ。

契約は守られるのか

ロックとホッブスの社会契約説は、財の性質に対する見解の違いにより異なる結論に至った。ホッブスは富が有限と見ており、自然状態を戦争の状態と同一視した。対照的にロックは労働によって富を無限に増やせると考え、自然状態を私有財産が増える楽園と見なした。社会契約に至る点では両者が一致していたが、契約の実効性に関しては意見が分かれた。
ホッブスは人間が契約を守ることに懐疑的であり、強力な力による秩序の維持を主張した。一方、ロックは人間が約束を守る分別を持つと信じた。歴史的には、ロックの考え方がより受け入れられ、彼の思想が18世紀を支配したとされる。

代表なくして課税なし

★イギリスの憲法には、「代表なくして課税なし」(No taxation without representation)という大原則がある。

アメリカ独立戦争の理論的根拠は、ジョン・ロックの思想に基づいていた。イギリス議会がアメリカ植民地に印紙税法を導入した際、植民地人たちはこの法律に反発した。これは、納税者である植民者の意見を聞かずに税法が制定されたためであり、イギリスの憲法原則「代表なくして課税なし」に反していた。この原則は、税を課す際には納税者代表の意見を聞くという伝統に基づいている。ロックは、国家権力が人民の契約によって成り立ち、税金は人民が国家に与えた権利であると考え、税金を課す際には納税者が納得する必要があると主張していた。この思想がアメリカ独立の理論的基盤となった。

※独立戦争:日本では「アメリカ独立戦争」と言うが、アメリカ人はそれを「アメリカ革命American Revolution」と呼ぶ。イギリス政府の支配を人民がひっくり返したのだから、戦争ではなく革命であると考えるのである。もちろんイギリス人から見れば、これは革命ではなく「植民地の反乱」なのだが。

ロックが起こした革命

アメリカ独立戦争の背景にはロックの思想が大きく関わっていた。イギリス議会がアメリカ植民地にのみ印紙税を課し、それに対する植民地の代表の承諾を得ていなかった。アメリカ植民地はイギリス議会に代表を送っておらず、この状況は憲法違反であり、ロックの思想に反するとアメリカ側は主張した。イギリス政府はこの理論を理解せず、印紙税法を強行。これに対し、植民者たちはロックの「抵抗権」の思想に基づき、イギリス本国政府に対して抵抗を開始した。イギリス政府は理解せず、税法を何度も改定し続けた。結果として、アメリカ植民地人たちは革命を決意し、アメリカ独立戦争へと進んだ。この革命はロックの思想なしには起こらなかった。

なぜ、アメリカ人は銃を捨てないか

アメリカの独立戦争と建国の背景には、ジョン・ロックの社会契約説が深く関わっていた。イギリスに対して劣勢だった植民地人たちは、ロックの革命思想により、フランスの支援も得ながら独立を宣言し、戦い抜いた。1776年のアメリカ合衆国の誕生は、ロックの社会契約説が現実のものとなったことを示している。アメリカ独立宣言には、国家権力が被治者の同意に基づくこと、人民が政府を改廃し新たに作る権利を持つことが記されている。
アメリカ建国の精神は、現代でも市民の銃所持権に見られる。アメリカ人が銃規制に反対する理由の一つは、ロックの思想に根ざしている。
ロックによれば、自己防衛の権利は国家が成立する前からの自然権であり、市民が武装するのはその権利の表れである。このため、アメリカでは政府が銃を厳しく規制することが難しい。
このように、アメリカ合衆国の成立と発展は、ロックの社会契約説と自然権の考えに大きく影響されており、合衆国憲法は「ジョン・ロックの憲法」とも呼ばれるほどである。

なぜ、アメリカ人はロックを信じたのか

アメリカ独立戦争の成功にロックの思想が影響を与えたが、その理由を理解することが重要である。日本の憲法学者がロックの思想を本質的に理解しているか疑問視し、現代日本の国家権力の巨大化を批判している。18世紀のアメリカ人が年間6万ポンドの印紙税すら許さなかったのに対し、現代日本では税金の重圧にもかかわらず革命的な動きが見られない。著者は、このような状況下で日本の憲法学者や政治家がロックの思想をどれだけ理解し、反映しているかを問う。

日本国憲法も社会契約説だ

★日本国憲法前文:「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」

日本国憲法の社会契約説の理解と、日本の国家権力の現状について。日本人が社会契約の意味を理解していないため、国家権力がリヴァイアサンのように巨大化している。日本では国家に対する抵抗運動や革命的な動きが起きにくい状況があり、これは社会契約説の理解不足に起因する。

しかし、ロックの思想は民主主義において今も生き続けており、日本国憲法前文にもその精神が反映されている。憲法前文が示す「国政は国民の厳粛な信託による」という言葉は、社会契約の思想を表している。このことから、日本の憲法にもロックの思想が生きていることがわかる。
また、憲法護持を主張する日本の憲法学者に対して、憲法前文の精神に基づき、必要であれば抵抗運動に身を投じるべきだと主張。これは、憲法の理念を実践することの重要性である。

※曲学阿世の徒:真理を曲げて、世におもねる学者のことを指す(『史記』)。1951年のサンフランシスコ講和条約締結に際して、日本の革新勢力はソ連など東側陣営を含めた全面講和を主張し、批准反対運動を行なった。その運動の中心的存在だった左翼シンパの学者たちを、吉田茂首相は「曲学阿世の徒」と非難した。

公約違反は民主主義の敵

日本国憲法の真の理解に欠け、社会契約説が単なる建前として扱われている現状が問題だ。特に政治家たちが、憲法や社会契約の深い意味を認識せず、公約を軽んじる傾向にある。この代表例が、消費税率の引き上げと自衛隊の承認を行った村山富市氏のケースだ。
彼は社会党党首として消費税反対を掲げていたが、総理大臣に就任すると方針を一変させた。これは選挙での公約、すなわち選挙民との契約を破る行為であり、民主主義における重大な契約違反である。

このような政治的背信行為が日本では見過ごされているのに対し、欧米、特にイギリスやアメリカでは公約は政治家の命とも言えるほど重要視される。公約違反は政治的自殺行為に等しいとされ、そのような文化の中で政治が行われている。
日本もこのような認識を持つべきであり、公約を選挙民に対する重要な約束として捉え、それを守る責任を重く受け止めなければならない。社会契約説を真剣に理解し、民主主義の本質を取り戻すことが急務である。

第7章:「民主主義のルール」とは(219)

英国史上、最高の首相は誰か

ベンジャミン・ディズレーリ:イギリス議会政治の基本ルールを確立した人物
イギリスの歴史における最も優れた首相についての議論では、多くの人がディズレーリを最高の首相として挙げるでしょう。チャーチルやサッチャーも高く評価されているが、教養ある人々の間ではディズレーリが最も尊敬されている。
ディズレーリはヴィクトリア時代、イギリスの繁栄期に活躍した政治家で、スエズ運河の買収やロシアの南下政策を阻止するなど、数々の業績を残した。彼はまた、ヴィクトリア女王をインド帝国の皇帝に推戴し、文人としても成功を収めた。
ディズレーリの特筆すべき点は、ユダヤ人の家系からイギリス首相になったことだけでなく、イギリス議会政治の基本ルールを確立した点にある。彼の重要性は単に優れた宰相や才能ある人物であったからではなく、議会政治の基礎を築いたことによる。

国論を分裂させた穀物法

1840年代のイギリスでは、穀物法という輸入制限法が国論を分裂させていた。この法律は外国からの安価な小麦などの穀物の輸入を規制し、ナポレオン戦争後から施行されていた。その目的は、地主階級である貴族の収入を守ることにあった。これに対し、自由貿易を志向する都市の資本家たちは強く反対していた。彼らは、穀物の価格が下がれば労働者の生活が改善し、結果として賃金を抑制できると考えていた。
この時代、農民や労働者には選挙権がなく、地主と資本家の間で大きな対立が生じていた。政治的には、保守党が地主層を、自由党が資本家層を支持していた。選挙で保守党が勝利し、穀物法支持のサー・ロバート・ピールが首相に就任した。
しかし、この状況は予期せぬ出来事によって変わった。アイルランドで馬鈴薯病が発生し、ジャガイモが大量に枯れ、アイルランドに深刻な飢饉をもたらしたのである。

アイルランド人がイギリス人を憎む、本当の理由

アイルランドとイギリスの長い対立は、1801年から始まった。宗教的な違い(プロテスタントのイギリス対カトリックのアイルランド)が背景にあり、イギリスがアイルランドを支配下に置いた。イギリスの地主はアイルランドの小作農から収穫された小麦を取り上げ、彼らにはジャガイモしか残さなかった。ジャガイモ飢饉が起こり、数十万人のアイルランド人が餓死するか、北アメリカなどへ移住することになった。イギリス人地主に対するアイルランド人の憎しみは深く、宗教上の対立に加えて、飢饉の苦しみも重なっている。アイルランドの過激派はイギリス人に対して良心の痛みを感じず、これは彼らにとって仇であるためだ。

※長年の抗争:アイルランドの本来の住民は「ゲール人」で、アングロ・サクンのイギリスと言葉も民俗も宗教も異なっていた。そのアイルランドを、昔からイギリスは侵略したがっていたのだが、それが本格化したのは16世紀、ヘンリー8世のころからである。イギリスの野心にアイルランド側はしばしば抵抗したが、結局、同国はイギリスの属国になってしまった。

そして誰もいなくなった

馬鈴薯病が続き、アイルランド人口が激減したため、イギリスの小麦収穫量は減少し、国産穀物の価格が高騰した。ピール内閣は穀物法を廃止し、海外穀物の輸入を許可した。この政策変更に、同じ保守党のディズレーリが反発し、ピール首相を批判した。ディズレーリはピールが自由党の政策を盗んだと非難し、ピールは女王の信任を得ていると反論した。ディズレーリの批判に、保守党の多くの代議士が共感し、ピールの支持を失い、内閣は倒れた。この論争は保守党内での意見の分裂を明らかにし、政治的な変動を引き起こした。

ディズレーリが作った3つのルール

ディズレーリの演説は、議会政治に新たなルールを追加した。
第1のルールは「選挙公約は必ず守るべき」ということ。選挙公約を変える場合、代議士は辞職し再選挙で新しい公約を提示すべきだ。
第2のルールは「他人の公約を盗むな」
第3のルールは「議会での論争によってすべてを決する」というもの。
ディズレーリは論戦でピールを圧倒し、首相を論破した。以前は「政治は数で決まる」という考えが支配的だったが、ディズレーリの時代には「弁論の力で数を獲得する」思想に変わった。この3つのルールが確立したため、ディズレーリは最高の政治家として尊敬され、英国憲法史においてヴィクトリア時代に英国憲法が完成したとされる。

日本の民主主義は250年も遅れている!?

日本の民主主義は、欧米のそれに比べて大幅に遅れている。日本社会党が選挙公約を変更し、自民党の公約と同じにしてしまった。このような行動は、他人の公約を盗んだとも言え、選挙民との契約を改訂するための新たな選挙を行うべきだ。

政党がその公約を変えるのは自由だが、それをやるのであれば選挙を行なって、国民との契約を改訂すべきなのです。 日本国憲法では「首相には衆議院を解散して、総選挙を行なう権限がある」とされていますが、これはそのためでもある。
※されている:といっても、それを明確に定めた条文は日本国憲法にはない。かくのごとく解釈されているだけである。ただし、不信任案が衆議院を通過しなくても解散できるかどうかについては議論がある。その場合でも、総理大臣は解散できるという説が有力である。

ところが、どんな批判があっても、時の村山富市内閣は「自社さ連合」、つまり国会内で多数派の支持基盤があるのだからと言って、けっして辞任しようとしなかった。すなわち、数を恃みにした。
2000年10月にも森喜朗内閣を倒すとか言って、自民党の加藤紘一代議士が造反する事件がありました。 ご本人はディズレーリのつもりだったかもしれませんが、加藤氏がもし森首相を批判するのであれば堂々と国会で論戦を仕掛けるのが議会政治家の務めというものです。ところが、実際に行なわれたのは、議会外での多数派工作でした。 これではウォルポール時代とまったく同じです。 ウォルポールは18世紀半ばの人ですから、日本の議会政治はイギリスに遅れること、150年どころではない。優に250年は遅れていることになるのです。

契約とは言葉である

近代デモクラシーの根幹は「契約を守る」ことにある。この原則がなければ、デモクラシーの形式があっても本質は生きていない。日本人は義理堅いと言われるが、これは「契約を守る」という概念とは異なる。
欧米での契約は、具体的な言葉によって定義されるものであり、この定義がなければ契約とは呼ばれない。義理堅さと契約の遵守は必ずしも一致しない。契約の本質は、言葉による明確な定義にある。

「黙って俺について来い」

企業間の契約書は、欧米では詳細な条項が記された文書で、想定されるすべての状況に対して具体的な対応を定めている。これに対し、日本では約束を具体的な言葉で表現することを避ける傾向がある。
「黙って俺について来い」のような曖昧な言葉は、欧米では具体性がなく信用されない。日本の「義理堅さ」が欧米の「契約の明確さ」とは異なり、欧米では契約違反が明確に判断できる内容でなければ契約とは認められない。欧米の契約は、人間関係に左右されず、事情変更の原則も認められない。
このような日本と欧米の契約観の違いは、文化的なギャップを示している。

なぜ、欧米人は契約を重んじるのか

欧米人が契約を重視する理由は、異民族の競争が激しい環境での信用不足にある。一方、日本や中国では契約書の発達が見られない。これは、同じ大陸に住んでいても、文化的に異なる人々の間で契約書を作る発想が生まれなかったためである。日本人も中国人も、具体的な約束を定めない「桃園の契り(桃園の誓い)」のような抽象的な約束に慣れ親しんでいる。これに対し、欧米では契約は明確な言葉によって結ばれるものとされ、例えば騎士道では王と騎士が具体的な誓いを交わす。これが欧米の契約文化と日本や中国との大きな違いである。

聖書を読めば、国際人になれる!?

ヨーロッパにおける「契約は言葉である」という概念の起源は聖書にある。日本人がヨーロッパ文明を完全に理解できないのは、キリスト教の重要性を軽視しているからだ。表面的な情報だけでは本質を理解できず、宗教はその本質に大きく影響を与える。宗教は人のエートス、つまり内面と外面を形成し、特にキリスト教は欧米人のエートスに深く根付いている。
現代の欧米人が宗教から離れているように見えても、彼らの行動原理はキリスト教の影響を受けている。聖書は今も彼らのエートスの中で生き続けている。この宗教に対する深い理解が欠けているため、日本は国際的にも政治や経済の面で問題を抱えることになる

ユダヤ教もキリスト教も「契約」

キリスト教の聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれているが、日本人の多くは旧約聖書の内容を知らない。旧約聖書は、神との契約を破るとどんな災難に遭うかの例が記されており、その教えは神との契約を守ることに集中している。これは「契約教」のようなものだ。
旧約聖書では、古代イスラエルの人々と神との契約が中心である。イエス・キリストは、この契約を改訂し、キリスト教を創設した。新約聖書はこの新しい契約に基づいて作られ、「新約」は新しい契約を意味する。したがって、ユダヤ教もキリスト教も、共に契約を中心とした宗教である。

約束の地「カナン」

旧約聖書では、神とイスラエルの民との間の契約が重要なポイントである。この契約により、アブラハムとその子孫にカナンの土地が永久の所有地として与えられた。アブラハムはイスラエルの共通の先祖であり、この契約によってイスラエル人はカナン、つまりイスラエルを永遠に所有し、繁栄することが保証された。しかし、この契約は条件付きであり、イスラエル人は神を敬い、神が定めた具体的な条件を守る必要がある。これらの条件を守ることで、彼らは「選ばれし民」としてカナンの土地を与えられるとされている。

エジプト脱出

旧約聖書「出エジプト記」は、イスラエルの民と神との契約の具体的な条件を示している重要な部分である。アブラハムとの約束の際、神はイスラエルの民が異邦で奴隷となり苦しむが、その後解放されると予言した。実際にカナンでの飢饉後、イスラエルの民はエジプトに移住し、迫害と奴隷化に遭う。この状況で神はモーゼに現れ、エジプト人の手からイスラエルの民を救い出し、「乳と蜜の流れる土地」へ導くよう命じる。モーゼはファラオに交渉するが、当初は拒否される。神はファラオに様々な奇跡を示し、最終的にファラオはイスラエルの民の解放を許可する。モーゼの導きで、イスラエルの民はカナンへと帰還する。

恐るべきペナルティ

エジプト脱出の物語では、ファラオが奴隷解放に同意したものの、後に気を変えてイスラエルの民を追撃する。しかし、神の力で海が分かれ、モーゼとイスラエルの民は逃れる。シナイ山で、神はモーゼに契約の条件を提示し、これが「モーゼ契約」または「十戒」と呼ばれるものである。
十戒には、神を唯一の神と認め、偶像を造らず、安息日を聖別し、殺人や姦淫、盗み、偽証、隣人の財産を欲しがらないなどの規定が含まれる。これらを守ると、神はカナンの地を与え、慈しみをもって接すると約束している。
しかし、契約を破った場合、イスラエルの民は皆殺しになるという厳しい罰が設定されている。神との契約違反に対しては非常に厳格な対応が取られることが旧約聖書から明らかにされている。

危機一髪

モーゼがシナイ山に入ってから4日間戻らなかったため、イスラエルの人々は不安になり、神を疑い始めた。彼らは十戒で禁じられた像を作成し、金の子牛像を神として拝んだ。これに対して、神は強く怒り、イスラエルの人々を滅ぼすと宣言した。過去にノアの大洪水やソドムとゴモラの町を滅ぼしたことがある神の怒りは、止まることがないとされる。しかし、モーゼが神にエジプト人の反応を懸念し、イスラエルの人々を殺せばエジプト人が神を非難するだろうと説得した。神はモーゼの言葉を聞き入れ、最終的にイスラエルの人々を滅ぼすことを思い留まり、彼らは救われた。

イスラエルの懲りない人々

イスラエルの民が「約束の地」カナンに入った後、彼らは栄えるものの、個々の才能に富んでいるが、民族としては堕落しやすいという特性を示した。特に、ダビデ王とソロモン王の時代には、罪を犯す行動が目立った。ダビデ王は部下の妻を横取りし、ソロモン王は多数の妻を持ち、異教徒の女性たちに影響されて異なる神を拝んだ。これは、神が最も許せない行為(異教の神を拝む・偶像崇拝)であり、ソロモン王のこの行動が神の怒りを買い、イスラエル王国は南北に分裂し衰退した。その結果、イスラエルの人々はバビロニアに連行され奴隷となり、長期間にわたり自国を持つことができなくなった。これはいわゆる「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事である。

旧約聖書は「破約の書」

旧約聖書は、神とイスラエルの民との間の契約を守ることの重要性を伝える「破約の書」である。神はアブラハムに対し、カナンの地と永遠の繁栄を約束したが、これは契約遵守の条件付きだった。しかし、イスラエルの民は契約を守らず、結果として約束の土地を失い、バビロニアの奴隷となった。バビロン捕囚を経て、イスラエルの民は自分たちの過去の失敗を反省し、旧約聖書を通じて律法を守ることの重要性を認識した。これがユダヤ教の原点であり、ユダヤ人は信仰を守り続ける民族へと変貌した。バビロン捕囚の体験はユダヤ人のエートスを変え、彼らを古代イスラエルの人々から信仰深い、律法を守る民族へと変化させた。

神との契約を改訂したイエス

子供の頃からしっかりと聖書を読ませられれば、「契約は絶対に守らなければならない」というエートスが作られる。

旧約聖書は元々、古代イスラエル人と神との契約の書であり、ユダヤ民族に特化した宗教の文書でした。しかし、この旧約聖書に基づき、イエスによって新しい宗教、キリスト教が誕生した。イエスは神との契約を改訂し、その対象をユダヤ人だけでなく他の民族にも広げた。また、律法の詳細な規則を廃し、シンプルな条件「神を信じ、神を愛し、隣人を愛せ」に変更した。キリスト教では、この条件を満たせば個人が救われると教えられている。
旧約聖書はキリスト教で引き続き聖典として重視されており、子供のころから聖書を読む習慣がある。不道徳な話も含め、聖書の内容を通して、契約違反の結果を子供たちに理解させることが重要視されている。この教育は、契約を絶対に守るべきというエートスを育む基礎となっている。このように、契約を破れば滅びるという教訓が、旧約聖書とキリスト教の信仰に共通する要素となっている。

契約に書かれていなければ、何をしてもいい

旧約聖書は、神とイスラエル人との契約を具体的に定めた文書であり、「契約とは言葉にして結ぶもの」という教えが強調されている。
神がモーゼに与えた律法には、生活の細部にわたる詳細な規定が含まれている。たとえば、祭壇の寸法や材質、着る服に関する規定などが具体的に定められている。神との契約を遵守するためにはこれらの規定に従う必要があるが、契約に記載されていない事柄については自由である。
例として、近親相姦に関する規定が挙げられる。ロトとその娘の話は、神が近親相姦を禁じたのがロトより後のモーゼの時代であるため、神はロトの行為を罰していない。これは、契約に定められていない事項は自由であるという原則を示している。
聖書の契約は明確で、ルール違反がはっきりと判断できるようになっている。このように、ルールが具体的であることによって、「グレイ・ゾーン」を避け、明確な判断基準を持つことが重視されている。

タテの契約、ヨコの契約

欧米で社会契約説が受け入れられた背景には、聖書の文化が根付いていることが大きい。聖書は「神との契約を絶対に守るべき」という概念を教え、契約を言葉で明確に定義する必要性を示している。この影響で、欧米人は企業間契約を詳細に書き記し、人間関係や国家と人民の関係にも契約を応用している。聖書の神と人間の契約は「タテの契約」としての役割を果たし、これが人間対人間の「ヨコの契約」への応用につながっている。ピルグリム・コンパクトは、新天地アメリカでの社会ルールを定める社会契約の一例である。
一方、日本や中国には「契約を破ったら大変な目に遭う」という教えを書いた本や、「契約とは言葉で表わすものである」という教えるサンプルがないため、契約を守るというエートスが十分に発展していない。その結果、憲法といった重要な契約を無視しても問題ないと考える傾向が見られる

※ヨコの契約:神との「タテの契約」においては、契約の当事者(神と人間)は対等ではなく、契約は神が一方的に与えるものである。これに対して人間同士の「ヨコの契約」においては、その両当事者は対等で、契約は両者の合意によって成立する。その意味でタテの契約とヨコの契約は大きく違うが、「契約は絶対である」という点において共通である。

※ピルグリム・コンパクト:「メイフラワー契約」とも。1620年11月、イギリスのプリマスからメイフラワー号に乗って新大陸に渡ってきたカルヴァン派の新教徒(ピルグリム)たちは船上で契約書を作り、それにサインをした。その内容は、上陸者たちは一致協力して自治組織を作ること、そしてその組織の決定に皆が従うというものであった。

なぜ、イスラム教徒は契約を守らないのか

イスラム教徒は、イスラム教の創始者であるマホメッドを「最後の預言者」としており、神(アッラー)はマホメッドを通じて人間に新しい契約を与えた。この契約はイスラム教の最高聖典である「コーラン」に記されている。イスラム教では、旧約聖書の「モーゼ5書」も尊重されており、ユダヤ教やキリスト教と同様に契約の宗教である。しかし、イスラム圏では、人間同士の契約に対する絶対的な観念が生まれなかったため、イスラム教徒が人間同士の契約を守らないという印象がある。

※モーゼ5書: 旧約聖書の最初の5つの書物、つまり「創世記』「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の総称。預言者モーゼを通じて神が与えた「モーゼ契約」を記す。 ユダヤ教においては、「律法」(トーラー)と呼ばれる。

※コーラン:天使ガブリエルが使徒マホメッドに与えたとされる「神の言葉」。神がアラビア語でマホメッドにコーランを与えた以上、それを別の言葉に訳すことは認められていない。したがって、イスラム教徒になるためにはアラビア語を学ぶ必要がある。イスラムではコーランの他に聖書に収められている「モーゼ5書」「詩篇」「福音書」の3書も聖典に含める。イスラム教の教義についての詳細は小室直樹著「日本人のためのイスラム原論」に譲りたい。

アッラーは寛大である

イスラム教の神様、アッラーは、旧約聖書の神様と異なり、契約違反に対して寛容である。イスラム教徒が日常的に宗教的に正しい生活を送っている場合、神は罪作りな行為に対しても情状酌量し、許してくれる。この寛容さは、「イン・シャー・アッラー」(アッラーの思し召しによって)という言葉に象徴され、信者は何か悪いことをした際に、この言葉を用いて神の慈悲を願う。
このような寛容な神様の存在のため、イスラム教徒は人間同士の契約、特に異教徒との契約を厳格に守ることに対して、同じ程度の重要性を感じない傾向がある。彼らは契約違反が良くないことは理解しているが、「イン・シャー・アッラー」と神様に反省を伝えれば、許されると考えている。
イスラム教は、マホメッドが他の宗教の欠点を研究して作り上げた宗教であり、よく考えられた教えと言える。ただし、イスラム教を信じる限り、人間同士の契約を絶対視する観念は生まれにくく、これが現代イスラム世界が直面している最大の問題であると考えられる。近代資本主義や近代民主主義の成立にも影響を与えている。

砂上の楼閣ニッポン

日本の大企業経営者たちは中国進出に対して否定的で、中国人が契約を守らないことがその理由だと言う。だが、日本人も契約に対して甘いと思う。ビジネスでは契約を重視するようになったが、日常生活や政治ではそうではない。政治家の公約が守られないことがその例だ。
日本と中国、アラブの国々も、近代資本主義や民主主義の発展が遅れている点で共通している。その原因は契約に対する考え方にある。キリスト教は契約を絶対とする考え方を生み出したが、ユダヤ教ではそうではなかった。これがキリスト教とユダヤ教の大きな違いだ。
日本は近代国家の体裁をとっているが、契約の概念が根底にないため、民主主義や資本主義は実質的には空洞である。政治の不振や政治家の信頼不足も、契約に対する考え方の欠如が原因だ。この状況を改善するには、実行力のある政治家が必要だが、そういう人が出てくることは民主主義にとっても重要だ。しかし、それだけに頼るのは民主主義の敵になりかねない。

第8章:「憲法の敵」は、ここにいる(257)

「デモクラシーは最悪の政治である」

現代の日本人のほとんどは無条件に「民主主義は最高の思想である」と考えています。
いや、日本にかぎらず世界の中でも、そう信じている人は多い。
しかし、デモクラシーという言葉が肯定的な意味で使われるようになったのは、実はごく最近のことなのです。
それまでのデモクラシーは、「悪い政治」、いや「最悪の政治」の代名詞であった。
また、英語のデモクラット、つまり民主主義者もまた、ひじょうに悪いイメージを持たれていました。民主主義者といえば、危険人物に決まっていると思っていた人だって、大勢いたのです。
デモクラシーがこうしたマイナス・イメージからようやく脱したのは20世紀に入ってからのこと。すなわち、デモクラシーという言葉が市民権を得たのは、せいぜい、この100年のことなのです。

なぜアメリカ人は自分たちを共和主義者と呼んだのか

18世紀末に誕生したアメリカ合衆国はロックの社会契約説に基づいて作られたが、当時のアメリカ人は自国を「デモクラシー」とは呼ばず、「リパブリカン」、つまり共和主義者と自称していた。アメリカ独立宣言や憲法にも「民主主義」という言葉は登場しない。南北戦争時の「リパブリック賛歌」は、アメリカ人が自国を共和国と認識していたことを示す。

共和国や共和制の概念は日本では誤解されがちだが、西洋では「王のいない国家」を意味しない。リパブリックは政治体制ではなく、社会や共同体を指す言葉で、国民が広く社会を構成する場合に使われる。例えば、ナポレオン時代のフランスは皇帝がいても共和制を名乗っていた。レパブリックは王や貴族の存在を排除しないが、国民全体が社会の一部と認識されるときに適用される。

デモクラシーは「禁句」だった?!?!

アメリカは市民が社会の中心にいるリパブリックだが、単純に「共和制」と呼ぶのは不十分。アメリカは世界で初めて市民の権利が平等で自由な民主主義国家として誕生した。デモクラシーという言葉は古代ギリシャ語の「デモクラティア」(人民の権力)から来ており、リパブリックよりも歴史的に古い。しかし、アメリカ建国時、デモクラシーという言葉には悪いイメージがあり、使われるのに時間がかかった。アメリカがデモクラシーという言葉を公然と使うようになるまでには、建国からかなりの時間が必要だった。

福田歓一教授によれば、ジェファーソンが3代目の大統領になった18世紀初頭に「デモクラティック・リパブリカン」、つまり民主共和主義者という呼び名が生まれたのが最も初期の例だそうです。
しかし、これはいかにも煮え切らない言い方で、言葉の力点はリパブリカンというほうにあった。デモクラシーのほうは付け足しという感じです。
これがようやくデモクラシー単独の用法になるのは、それからさらに30年近く経った1828年、アンドルー・ジャクソンが7代目大統領になったころのこと。このころになって、アメリカで「デモクラット・パーティ」、すなわち民主党が生まれた。このことを福田教授は著書の中で、次のように記しています。
「そこでともかく民主党という党名を名乗るようになったのは、民主主義が少なくとも支持を取り付けるだけのアピールを持ち、その限りでよい意味を持つようになったことを示しています」(『近代民主主義とその展望』岩波新書)
すなわち、それまでは選挙で「民主主義」なんて、言葉を使ったら、とうてい票を入れてもらえなかったということです。アメリカ人でさえ、デモクラシーという言葉には拒否反応があったのです。

フランス革命の光と影


※長く続いた宗教戦争:フランスにおける宗教戦争(1562-98)は「ユグノー戦争」とも呼ばれる。フランスではカルヴァンの教えが早くから普及したが、フランス王室内の政争も絡んで、旧教と新教の戦いは陰惨をきわめた。1572年8月24日には史上有名な「聖バーソロミューの虐殺」が起こり、数万もの新教徒がフランス国内で殺されたとも言われる。
※名将モルトケ(1800-91):プロイセンの軍人、陸軍参謀総長。「鉄血宰相」と言われたビスマルクと二人三脚でプロイセンの国威を発揚、国王ウィルヘルムをドイツ皇帝にした立役者。普墺戦争(1866)と普仏戦争において、巧妙にして大胆な作戦を指揮し、戦争の概念を一変させた。また、モルトケが作り上げたドイツ参謀本部は、欧米の陸軍組織の手本となった。

ブルボン王朝を滅ぼした「ユグノーのたたり」

17世紀から18世紀初頭のフランスでは、ルイ14世の絶対王政が頂点にあり、宮廷文化が花開いていた。しかし、この時代からブルボン王朝は衰え始めた。特に、ルイ14世が1685年に「ナントの勅令」を廃止したことが象徴的だった。ナントの勅令は1598年にカトリックとプロテスタントの和解を目的としていたが、廃止によりプロテスタント(ユグノー)がフランスから逃れ、多くがプロイセン(現ドイツ)へ亡命した。ユグノーは商人や手工業者として経済に大きく貢献していたため、彼らの亡命はフランス経済の没落を招いた。一方で、プロイセンはユグノーの受け入れにより経済が伸び、大国へと成長した。1870年の普仏戦争では、プロイセンがフランスを破り、プロイセン王ウィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位した。これはまさに「ユグノーのたたり」と言える。

恐怖政治の本家本元

今でこそ、恐怖政治は一般名詞として使われていますが、本来、恐怖政治はロベスピエールの行なったことを指す、つまりは固有名詞です。
ロベスピエールと言えば恐怖政治、恐怖政治と言えばロベスピエール、これが正しい用法です。

17世紀のフランスはナントの勅令廃止以降凋落し、イギリスに植民地を奪われ、国力が衰え始めた。この状況下で国王は絶対権力を維持し、贅沢をやめなかったため、自由と平等を求めるフランス革命が始まった。
この革命は主に二つの流れがあった。一つは、議会政治を強化し王権を制限する動きで、主にブルジョワジー(商工業者や富裕層)が支持していた。もう一つは、急進派による王権廃止と身分制度のない平等なフランスを目指す動きで、都市の住民や農民層が関与していた。
この過程で予想外の事態、ロベスピエールの恐怖政治が発生した。

※ロベスピエール(1758-94):北フランスの弁護士の家に生まれるが、母を6歳のときに失い、その後、父も失踪。母方の祖父に引き取られて、神学校に進む。革命前は弁護士として貧しい者や弱い者のために働いていた。革命指導者の中でも「清廉の士」として有名で、しかも一生、独身を貫いたので、ひじょうに信頼されていたそうだ。

ロベスピエールの登場

フランス革命は初めブルジョワジー主導で進行し、1791年の憲法では議会による国王権力の制限が定められた。しかし、この憲法は財産を持つ者にのみ参政権を与えるなど、ブルジョワジーに有利だった。革命の進行とともに、周辺国の軍事圧力が高まり、急進派が力を増す。その中で最も影響力を持ったのがロベスピエールで、彼はルイ16世をギロチン台に送り、独裁者となった。ロベスピエールによる恐怖政治は、短期間に多数の粛清を行ったもので、死者は3万から4万人とされる。ロベスピエールはスターリンやポル・ポト、連合赤軍のような独裁者の先駆けと見なされた。

「民主主義の敵」を抹殺せよ!

この時代には民主主義とは要するに「金持ちから財産を奪って、貧乏人に配るものだ」と考えている人は多かったのです。
この時代において、民主主義者とは過激派、革命家と同義語だったのです。
これは何もフランス革命にかぎった話ではありません。その後も、民主主義の旗を掲げて、そうした社会改革を主張した革命家たちはけっして少なくなかった。その証拠に、マルクスとエンゲルスが共同執筆した「共産党宣言」の中に、こう書いてあります。
「労働者の革命の第1歩は、プロレタリア階級を支配階級にまで高めること、民主主義を闘いとることである」

ロベスピエールは自分の政治を「民主主義」と考えていた。彼の目標は、身分制をフランスから排除し、全てのフランス人を完全に平等にすることだった。彼は、革命後も存在する身分の違いは土地と財産の違いに基づくと見ていた。彼の考えでは、ブルジョワジーや富農が土地を私有することが革命を阻害していたので、反革命分子の土地を没収し、持たざる者に分配する必要があった。しかし、彼の政治は多くの政敵の抹殺を伴い、これは民主主義ではなく共産主義に近い。
当時、多くの人々は民主主義を「金持ちから財産を奪い、貧しい人に配るもの」と考えていた。20世紀にも、民主主義に対する否定的なイメージが残っていた主な理由は、ロベスピエールの恐怖政治への連想だった。ヨーロッパの人々、特に財産を持つ者は、民主主義という言葉を聞くと金持ちを殺し財産を貧乏人に分配する者たちと捉えていた。このため、民主主義を実践していたアメリカ人でさえ、自らを「リパブリカン」と呼んでいた。

「結果の平等」と「機会の平等」

「無限大の前には、いかなる数値も意味がない」
[福田歓一『近代民主主義とその展望』岩波新書]

ロベスピエールと現代民主主義の平等観は異なる。民主主義では「法の前の平等」を重視し、キリスト教の予定説に基づく。これは経済的な平等を求めるものではなく、法の前での平等を尊重する考え方。ロックの社会契約説も同様で、自然人は平等だが、その後の行動による財産の違いは当然とされる。アメリカの民主主義は「機会の平等」を重視し、すべての人に平等なチャンスを与えるが、その先の結果まで保証はしない。
ロベスピエールとマルクスは経済的な平等、すなわち「結果の平等」を重要視していた。貧乏人が貧乏なままでは不十分と考え、共産主義が生まれた。しかし、共産主義の実験は失敗し、ソ連は崩壊し、中国も資本主義への転換を試みている。今残る社会主義国は限られている。これを17世紀の人々は「神でさえなさらなかったことを、人間にできるはずがない」と評したかもしれない。

大哲学者はデモクラシーが嫌いだった

20世紀初頭まで民主主義は評判が悪く、多くは「衆愚政治」と見なされていた。この考え方の起源は古代ギリシャのプラトンにさかのぼり、アリストテレスも同様の見解を持っていた。ヨーロッパではルネサンス以降、ギリシャ哲学が教養人に広く学ばれ、「民主主義=衆愚政治」との認識が強かった。

古代アテネでは直接民主制が実践され、専門の行政職や軍人が存在せず、市民全員が政治と戦争に参加していた。しかし、アテネの政治参加者は自由民に限られ、奴隷が存在していたため、これは真の民主主義とは言えない。民主主義では全員が政治参加の権利を持つ必要があるが、アテネでは自由民と奴隷という二層構造が存在していた。そのため、アテネの制度は「自由民の民主制」ではあるものの、民主主義とは異なる。この点を理解することが重要である。

※僭主:紀元前7世紀から6世紀にかけて、ギリシャの都市国家では貴族政治が乱れたのに乗じて、民衆を扇動して独裁者になる政治家が現われた。これを僭主と呼ぶ。アテネでは紀元前5世紀にペイシストラトスが僭主になった。僭主は独裁者ではあるが、一方で民衆の生活を向上させたので、その功罪は相半ばする。
※ペリクレス(BC490頃‐429):アテネ政治の民主化を断行し、また芸術や学問を大いに奨励して「ペリクレスの黄金時代」を実現した。パルテノン神殿の造営を手がけたのも彼である。だが、その一方で彼はアテネをスパルタとのペロポネソス戦争に追いやった当事者でもある。ペロポネソス戦争開戦の2年後、病死。

「民主政治とは貧乏人の政治である」

古代アテネの民主政治は一朝一夕に成立したものではなく、紀元前2000年頃から王様が支配する都市国家があった。紀元前7世紀頃、アテネでは貴族が政治の実権を握り、民主政治へと変化していったが、その過程は順調ではなく、一時期独裁者も出現した。しかし、紀元前5世紀になると、ペリクレスのもとで民主政治が頂点に達し、貧富の差に関わらず誰もが政治に参加できるシステムが実現した。
この時代はアテネの黄金期で、市民の地位向上に伴い芸術・学問が発展し、地中海世界にその名を轟かせた。しかし、この繁栄期にプラトンはアテネの民主政治を批判し、「民主政治は貧乏人の政治」と断じた。彼の見解では、政治家が庶民を持ち上げても、庶民が貧乏人であり、彼らは理性的な判断が行えないため、彼らに政治を任せると無秩序に陥ると考えていた。

なぜプラトンはアテネを憎んだのか

プラトンが民主政治を嫌った理由は二つある。一つはペロポネソス戦争でアテネがスパルタに敗北したこと。スパルタの王や貴族が支配する体制に対し、民主政治を採用していたアテネは戦争中に市民たちの会議での意思決定が遅く、スパルタに敗れた。これを見て、プラトンは民主制のアテネが王制のスパルタに劣っていると考えるようになった。
もう一つの理由は、彼の師であるソクラテスがアテネ市民によって死刑判決を受けたこと。ソクラテスはペロポネソス戦争の混乱の中で裁判にかけられ、プラトンはこれを民主政治によるものと見なし、さらに民主政治を嫌うようになった。
プラトンのこの思想は弟子のアリストテレスにも引き継がれ、「民主政治は貧乏人の政治」と断言された。ヨーロッパの知識人にとって、プラトンとアリストテレスの著作は古典であり、彼らの考えは広く知られていた。中世のキリスト教会やルネサンス以降でもプラトンやアリストテレスの著作は読み継がれ、「民主主義は衆愚政治だ」という見解が教養人に受け入れられていた。

共和国を殺した男

プラトンが民主政治を否定した理由は、2500年前のギリシャの失敗が影響しているが、その後の世界史もプラトンの洞察が正しかったことを示している。古代ローマが地中海世界の覇者になり、共和制を採用していたが、この制度はガイウス・ユリウス・カエサルによって終わりを迎えた。紀元前4年、カエサルは終身独裁官に就任し、全権を握り、ローマは共和制から帝国へと変貌した。オクタウィアヌスが紀元前2年に初代ローマ皇帝になった。
カエサルは貧しいローマ平民の支持を得て共和国を乗っ取った。彼は政治的に影響力を持つ行動をとり、執政官として国有地を平民に分配し、ガリアやブリタニア遠征を成功させた。紀元前4年には自軍を率いてローマに入城し、反対派を打倒した。彼の軍事行動は大衆の支持があったために成功した。
カエサルが暗殺された後も、ローマの共和制は復活せず、帝国へと移行した。これはプラトンやアリストテレスの「貧乏人の政治」という見解が現実のものとなった例と言える。

イギリスで貴族が政治を握っていた本当の理由

プラトンやアリストテレスの説、そしてカエサルの古代ローマでの例は、大衆が政治に参加すると悪影響があるとの考えを支持している。一部の人間が政治を握ることは問題だが、大衆の政治参加も同様に問題を引き起こす可能性がある。このため、貴族や金持ちなどのエリートが政治を動かす方がマシだという考えがあった。
近代になり民主主義が生まれた際、これに対する危惧を持つ人々もいた。現代では選挙権が広く与えられることが当然とされるが、財産を持たない人々が政治に参加するようになったのは比較的最近のことである。例えば、イギリスでは1832年まで中産階級の多くが政治に参加できなかった。当時の中産階級は相当な財産を持っていたが、選挙権がなく、政治は1パーセントに満たない貴族や準貴族などが動かしていた。中産階級も貴族が政治のプロであると考え、彼らに任せる方が良いと見なしていた。これはアマチュアが政治を動かすと問題が発生するという考えの一例である。

カエサルに学んだ天才

歴史を振り返ると、民主主義の危険性に関するプラトンやアリストテレスの懸念は的中している。民主主義のもろさは、フランス革命がナポレオンという独裁者を生み出したことで明らかになった。ナポレオンは軍功と大衆の支持を背景に、フランス共和国の全権力を掌握し、カエサルに似た道を歩んだ。
ナポレオンは1804年に「共和国の皇帝」となり、カエサル以上の業績を達成した。35歳で皇帝になった彼は、カエサルの故事を研究し、大衆の人気を集め、権力を握る方法を考えていた。ナポレオンの出世は偶然ではなく、民主主義の弱点を理解していたために皇帝になれたと言える。

独裁者は何度でも現われる

ナポレオンの例は、民主主義の弱点を突いて独裁者になったことを示しているが、これは民主主義の完全な否定ではない。皇帝となった彼は、フランス革命の理念をヨーロッパ全体に広めようとした。しかし、彼の軍事的天才は後半に衰え、最終的には反ナポレオンの同盟軍によってエルバ島に追放された。フランスではその後も独裁者が現れる傾向があり、「ボナパルティズム」と呼ばれた。この最も有名な例はナポレオン3世で、彼は圧倒的な大衆支持によって大統領に選ばれ、後に皇帝になった。
ナポレオン3世はナポレオンの甥であり、彼の時代の栄光を復活させる期待があった。しかし、彼は軍事的才能に欠け、普仏戦争でプロイセン軍に完敗し、帝位を追われた。フランスの第2帝政は終わり、第3共和政が始まり、これはヒトラーによるパリ占領まで続いた。
フランス共和政は他にも危機に直面しており、ブーランジェ事件がその例である。人気のあった将軍ブーランジェはクーデターを起こそうとしたが、政治的才能や度胸がなく、結局、実現しなかった。ナポレオンのような才能があれば、彼はフランス共和国の皇帝になれたかもしれない。

民主主義とは独裁者の温床である

フランス人が繰り返し独裁者を求める理由は民主主義の本質に関連している。この問題はフランスに限ったことではなく、民主主義がある限りどの国でも同じ危険が存在する。ナポレオンやブーランジェ、ヒトラー、ムッソリーニといった独裁者は、民主主義が独裁者を生み出す温床となる可能性を示している。民主主義は大発明だが、同時に独裁者を生み出しやすい環境を提供している。
大衆が英雄を求める際に独裁者が現れる傾向があり、貴族や特権階級が支配権を握る場合は独裁者が生まれにくいとアリストテレスも分析している。ナポレオンやヒトラーはそれぞれ共和国憲法とワイマール憲法を実質的に無効化したが、憲法が死んだからといって国民が必ずしも不幸になるわけではない。これが複雑な点である。

憲法が死ぬと国民は幸福になる!

ナポレオンとヒトラーの共通点の一つは、彼らが支配していた時代のフランスとドイツの経済が好調だったことである。彼らの支配下では政治的自由が失われたが、国民の生活は暗いものではなく、むしろ逆だった。ナポレオンが皇帝になると、ナポレオン法典を制定し、近代資本主義の基本法として契約の絶対と所有権の保護を実現した。この法典はフランスの経済を資本主義化させ、現在もフランスで通用している。明治政府もこの法典を参考にして日本の近代法体系を構築した
ヒトラーの下のドイツもまた経済が立て直され、アウトバーンの建設などの公共投資により雇用が確保された。当時のドイツ人の多くはワイマール共和国時代よりも幸福を感じていた。
独裁者を求める理由は多様だが、実際的な側面は無視できない。言論の自由や思想の自由があっても基本的な生活ニーズが満たされないと、人々は自由を捨ててでも食事や住まいを提供する独裁者を受け入れる可能性がある。

アメリカ大統領選に隠された知恵

民主主義は効率が悪い政治システムであり、すべてを投票と議論で決めるため、物事がスムーズに進まない。これに対して、ボナパルティズムやファシズムでは独裁者がすべてを決め、迅速な決断と修正が可能である。民主主義の国では、政治がうまく動かないと大衆は英雄を求め、独裁者が簡単に権力を握る可能性がある。アメリカの建国者たちはこれを恐れ、「第2のカエサル」を防ぐ方法を考えた。アメリカの大統領選挙システムは複雑で、各州で選挙人を選び、その選挙人が大統領に投票する。このシステムは、莫大な選挙費と長いキャンペーン期間を必要とし、資源と時間の無駄に思えることもある。現代のインターネットの発達した時代には、国民の直接投票の方が早いと思われることもあるが、2000年の選挙では手作業の開票が行われるなど、ネット大国とは思えない選挙が実施された。このような複雑な選挙システムは、独裁者の出現を防ぐためのものと理解される。

なぜアメリカ大統領は独裁者にならなかったのか

アメリカの大統領選挙方法は、技術が進歩しても変わらないと思われる。その理由は、この選挙システムが独裁者の出現を防ぐ唯一の方法だからである。アメリカでは大統領が大きな権力を持つが、三権分立により他の権力とバランスを取っている。しかし、大統領は司法権や立法権を支配する可能性もあるため、独裁者が現れる可能性が常に存在する。
アメリカの建国者たちは、大統領を大衆の歓呼によって決定しないようにした。独裁者は大衆の一時的な熱狂によって登場することが多いため、選挙戦を長期間に渡って行うことで、熱狂が生じにくくする工夫がなされている。長い選挙期間は候補者の欠点や過去を明らかにし、英雄としてのイメージを崩す助けとなる。マスコミや対立陣営は候補者を徹底的に調査し、何か見つかれば報道する。これにより、候補者は英雄として当選することが難しくなり、大統領もただの人間であると国民に認識される。
このようなシステムのために、アメリカは200年以上独裁者が登場しなかった。この制度を考案し、守り抜いたアメリカの建国者と国民の偉大さを認めるべきである。

日本にヒトラーが現われる日

日本での憲法改正論議では「首相公選」のテーマが話題になっている。これは国会議員でなく、直接投票で首相を選ぶ提案である。アメリカの大統領選挙のような方法を取れば独裁者の出現を防げる可能性があるが、日本の現状では選挙に多額の資金を投じることに対する罪悪感があり、アメリカのような長期キャンペーンが実行可能かは疑問である。
日本は経済の長期低迷と政府の非効果的な経済政策により、危険な状況にある。もしカエサルやナポレオン、ヒトラーが現代日本にいたら、彼らは独裁者になろうとするだろう。すでにその兆候が見られるかもしれない。例えば、オウム真理教は既成の権力に失望したエリートを信者にし、毒ガス兵器でクーデターを企てた。その試みは失敗したが、今後も起こりえないとは言い切れない。独裁者が出現すれば、生活が良くなる可能性があるが、出現しなければ日本経済は更に悪化するかもしれない。どちらが良いかは明確ではない。

第9章:平和主義者が戦争を作る(293)

平和憲法は「神話」だった

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

学生時代、私たちは「憲法第9条は世界に誇るべきもの」と教わりました。日本国憲法が唯一の平和主義憲法だと信じ込んでいました。しかし、これは
大きな誤解です。海外で同じことを言えば、「日本人は世間知らずだ」と笑われるでしょう。戦後の日本では、日本神話を学校で教えることは禁じられました。天孫降臨の話など、日本史の授業では触れることができませんでした。しかし、私は気づきました。神話教育は別の形で生き続けていたのです。「日本国憲法が世界で唯一の平和憲法だ」という信念こそ、真の神話でした。実際、平和主義の条項を含む憲法は世界中にあります。さらに、戦争の放棄を定めた憲法は日本国憲法が最初ではありません。歴史を辿れば、他にも多くの例が存在します。そのため、憲法を自慢するのは聞き苦しい。自国を誇るのは悪いことではありませんが、憲法自慢は控えるべきです。これが小室先生からのアドバイスです。

これだけある「平和憲法」

戦争の放棄や武力行使の禁止を定めた憲法は日本だけのものではありません。憲法学者の西修氏によると、その最初の例は1791年のフランス憲法で、これはフランス革命後に作られ、征服戦争の放棄や他国民への武力行使禁止が定められていました。これは日本国憲法よりも150年以上前のことです。

その後も、世界各国で平和憲法は制定されています。例えば、1891年のブラソル憲法、1911年のポルトガル憲法、1917年のウルグアイ憲法などがあります。1998年時点で、平和主義条項を含む憲法を持つ国は124ヵ国に上ります。

これらの平和憲法は規定内容が多様です。中には「国連憲章の尊重」、「内政不干渉」、さらには「軍縮」や「中立政策の推進」を掲げる国もあります。また、アンゴラやモンゴルは外国の軍事基地設置を禁じており、日本には米軍基地がある点でこれらの国より厳しい規定となっています。

一方、カンボジアやリトアニアの憲法には核兵器禁止の規定がありますが、日本の憲法にはそのような規定はなく、政府は自衛のための核兵器保有の可能性を示唆しています。

特に注目すべきは、17種類ある平和条項の中で、日本と同じように「国際紛争解決の手段としての戦争」を放棄している国が複数あることです。アゼルバイジャン、エクアドル、ハンガリー、イタリア、ウズベキスタン、カザフスタン、フィリピンなどが該当します。これらの国々の憲法規定は、日本のそれと酷似しています。

これらの国の憲法規定は、日本とそっくりです。これはなぜでしょう。
日本の学校では教えてくれませんが、日本国憲法第9条の「国際紛争解決の手段としての戦争」という表現には、実はお手本がある。
その同じお手本を下敷きにしたから、どの国も似たり寄ったりになるのです。

西修(1940-)憲法学者。現在、駒澤大学教授。各国憲法の比較や、日本国憲法成立の研究において注目すべき成果を発表している。本稿は同氏の『日本国憲法を考える』(文春新書)を参考にした。

第9条の「お手本」

憲法第9条第1項のお手本となったのは、
1928年に結ばれた「ケロッグ=ブリアン条約」です。またの名を不戦条約とも言うのですが、この条約の条文に「国際紛争解決の手段としての戦争」という表現が出てくるのです。
第9条の規定は、この条約を引き写したものと言ってもいい。
この事実は国際法の専門家ならば、だって知っている事実なのですが、日本国民はほとんど知らない。これは憂うべきことです。

20世紀の幕開けとともに、世界はその歴史上最も激しい戦争の渦に巻き込まれた。それが第1次世界大戦である。この戦争はヨーロッパを壊滅させ、文字通り荒野へと変えてしまった。27カ国がこの戦争に参加し、その惨状は計り知れない。戦死者は約1000万人、民間人の死傷者も同数に上り、当時の金額で約1800億ドルの莫大な戦費が消費された。

この戦争の悲劇は、国際社会に大きな変化をもたらした。平和主義が急速に浸透し始め、それが不戦条約の成立につながったのである。

それ以前の国際社会では、戦争は主権国家の権利として認められていた。国家であれば戦争を自由に行うことができ、戦争を起こすこと自体が批判の対象とはされていなかった。言い換えれば、戦争は悪とは見なされていなかったのである。

この「戦争は悪ではない」という考え方は、西洋文明の長い歴史の中で形成されたものだ。多くの経験を経て、戦争に対する観点がここまで進化したのである。

いい戦争、悪い戦争

中世ヨーロッパでは戦争は「いい戦争」と「悪い戦争」に分けられていた。いい戦争は正義を実現するため、悪い戦争は不正義を目指すものとされた。だが、実際にはどの戦争も当事者には正当化する理屈があった。例えば、十字軍もそうだ。ヨーロッパからの十字軍は表向き聖地イスラエルの奪還を目的にしていたが、実際はアラブ社会の略奪が目的だった。しかし、これを公言することはなく、「聖地を奪還する」という大義名分が掲げられた。

このように「いい戦争」と「悪い戦争」の区別は実質的に意味がない。戦争当事者は自分たちが正義であると主張し、それが宗教戦争で顕著に表れた。16世紀から17世紀のヨーロッパで起きた宗教戦争では、カトリック国とプロテスタント国がともに正義を掲げて戦った。結果として、互いに悪魔と見なし、相手を滅ぼすまで戦うことになった。これが30年戦争などでヨーロッパを荒廃させた。ドイツでは人口が半分以下に減少した地域もあるほどだった。

戦争肯定が近代的とされたわけ

この惨状を見れば、さすがにヨーロッパ人でも反省しました。そこで出てきたのが、正義や大義名分を持ち出すのではなく、もっと戦争をリアリズムで考えようという思想です。
この思想が最も端的に現われたのが、かのクラウゼヴィッツの定義です。プロイセンの士官だったクラウゼヴィッツは名著『戦争論』で、こう書きました。すなわち、「戦争は他の手段による政治の継続である」。
※クラウゼヴィッツ(1780-1831):プロイセンの軍人、軍事理論家。対ナポレオン戦争の従軍経験と哲学の深い教養に基づいて、独自の戦争論を作り上げる。彼の死後、公刊された「戦争論」は「近代戦争のバイブル」として世界中の将校のみならず、エンゲルスやレーニンにまで思想的な影響を与えた。

政治は国家や社会の利益を追求するために行われる。これは国際政治においても同じで、各国は国益のために外交を行う。しかし、外交手段だけでは国益を達成できない場合、戦争が手段となる。クラウゼヴィッツの考えでは、戦争の目的は勝敗よりも国益の確保であり、損得が重要とされる。

中世の「正義の戦争」は損得勘定なしで、相手を徹底的に叩き潰すことが目的だった。これに対して、近代戦争は合理的で、経済活動の一種となった。戦争は経済的利益を追求する手段であり、「いい戦争」「悪い戦争」という区別はなくなった。

20世紀初頭までの国際法では、各国が自国の国益を追求することは当然であり、誰も他国の戦争を批判することはできないというのが、20世紀初頭まで国際法の常識だった。戦争を肯定することで被害を最小限に抑えると考えられていた。

勝者なき第1次大戦

第1次大戦は、従来の戦争観を根底から覆す出来事でした。技術の進歩により、機関銃や毒ガスなど新兵器が登場し、死傷者が大幅に増加しました。また、戦争は総力戦へと変貌し、国家の工業生産力と経済力が戦いの鍵となりました。このため、戦争は国民全体に及ぶものとなり、国家経済にも深刻な影響を与えました。

第1次大戦終結時、勝者も敗者も甚大な損害を受けていました。ヴェルサイユ条約では、敗戦国ドイツに対し広大な領土の割譲と天文学的な賠償金が要求されましたが、ドイツの経済は崩壊寸前で、賠償金は完済されませんでした。戦争の結果、ヨーロッパは経済的に大きな痛手を負い、街には傷痍軍人が溢れました。一方、戦費の貸し付けや武器供給を行ったアメリカは大きな利益を得て、経済的に圧倒的な存在になりました。

台頭する平和主義

第1次大戦の惨状を経験したヨーロッパでは、戦争後に平和主義が力を持ちました。この思想は「戦争には勝者も敗者もなく、絶対に許されない」という考え方で、オックスフォード大学の学生が戦争拒否を宣言するなど、その影響は顕著でした。政治家が戦争を容認する発言をすると、世論は強く反発しました。

この平和主義の波は外交にも影響を及ぼし、1920年には国際連盟が設立されました。1924年の「ジュネーブ議定書」では侵略戦争を犯罪とし、1925年のロカルノ条約はヨーロッパでの戦争防止を目指しました。この流れの頂点が、日本国憲法第9条の元となったケロッグ=プリアン条約で、国際紛争解決手段としての戦争を違法と定めました。この条約は世界中の多くの国に批准され、当時の平和主義の強い影響力を示しています。

憲法第9条が自衛戦争を否定しない理由

ケロッグ=プリアン条約に基づいて制定された日本国憲法第9条は、国際紛争解決手段としての戦争を違法としますが、自衛戦争を否定しているわけではありません。この条約の批准時、アメリカでは「自衛戦争も禁じられるのか」という問題が大きな議論となりました。アメリカ上院の審議中にケロッグ国務長官は「自衛戦争は対象外」と明確に答え、これにより条約が批准されました。

日本国憲法第9条はケロッグ=プリアン条約の言葉を採用しており、同じ用語を使用しているため、その解釈も条約に基づくのが自然です。したがって、第9条における「戦争」の放棄は自衛戦争を含まないと解釈されるべきです。国家が自己の生存権を否定することはあり得ず、第1次大戦後の平和主義の流れの中でも、自衛戦争は否定されていなかったことから、日本も自衛権を有していると考えられます。

しかるに戦後の日本では、第9条が自衛戦争までを放棄しているか否かで大問題になりました。現在の政府見解は「憲法は国家の自衛権までを否定していない」ということになっていますが、ここに至るまでには国会でも議論が二転三転しています。しかし、こんなことは国際法を知っている人間から言わせれば、まったく無駄な議論です。
その無駄な議論がなぜ起きたかといえば、日本人の多くが「戦争の放棄は、日本国憲法オリジナルなものである」と誤解してしまったからです。
最初から、第9条第1項がケロッグ=ブリアン条約のコピーであることを知っていれば、憲法の規定が何を意味しているかは議論の余地がありません。なんと余計な回り道をしてきたことかと思えてなりません。

平和主義者がヒトラーを産んだ!?

歴史を振り返ると、不戦条約や平和主義が第2次大戦の大きな原因の一つであると指摘されることがあります。ウィンストン・チャーチルは「平和主義者が戦争を起こした」と述べています。彼にとって、第2次大戦は避けられたはずの戦争で、平和主義が強すぎたためにヨーロッパが戦場と化したと考えていました。この戦争によりイギリスは国際社会での主役の座をアメリカに譲ることになり、チャーチルは後悔の念を抱いています。

ヒトラーは平和主義者ではありませんでしたが、平和主義者たちが彼の野望を無意識に支えたとチャーチルは見ています。彼らの政治的な姿勢が、ナチス・ドイツの力を大きくさせ、ドイツの野望を未然に防ぐことができなかったというのが、チャーチルの見解です。ヒトラーはヨーロッパの平和主義を利用し、ドイツ第3帝国の地位を確立しました。

20世紀のカエサル、現わる

1933年3月23日、ヒトラーは民主主義の中で独裁者として台頭し、ワイマール憲法を廃止してドイツの指導者になりました。彼の上り詰めは軍事クーデターではなく、大衆の支持を背景にしたもので、カエサルやナポレオンのように歓迎されて総統に就任しました。

世界恐慌と第1次大戦の賠償金の影響でドイツ経済は崩壊寸前でしたが、ヒトラーはこの状況を逆手に取り、自らがドイツを救うと主張しました。これによりナチスとヒトラーへの支持は高まりました。1933年1月30日にヒトラーはドイツ首相に任命されますが、当初は議会での過半数獲得には至らず、ナチス党員の大臣も僅かでした。そこでヒトラーは人民投票を何度も実施し、彼の演説能力により国民の支持を集め、政権基盤を固めました。これにより、ヒトラーは第3帝国の独裁者になることに成功しました。

ドイツを復興させた経済政策

ヒトラーはドイツの独裁者として、経済立て直しと再軍備という公約を実現した。彼の経済政策は、高速道路網のアウトバーン建設や軍拡による軍事産業への投資で、失業者をなくし、ドイツ経済を立て直した。これは、後のケインズ経済学の「公共投資による有効需要創出」に似ているが、当時はまだ知られていなかった。経済の専門家たちはヒトラーの政策に反対し、彼が経済を理解していると確信していた。唯一、彼の方針に合ったのはシャハト博士だけで、二人でドイツ経済を立て直した。

しかし、ヒトラーを天才や天晴れと評することには問題がある。ユダヤ人に対する敬意を忘れるべきではない。ユダヤ人を過剰に恐れたり、批判したりすることは、彼らに対する差別につながる。率直な意見を述べることが、問題を提起することになることもある。

ユダヤ人への「質問」

私の知人にはイスラエル人やユダヤ人の学者がたくさんおりますが、彼らにこんな質問をしたことがあります。
「君たちはヒトラーのことを憎くて憎くてしょうがないだろうが、もし私が『ヒトラーは疲弊したドイツ経済を救った天才政治家である』と著書に記したら、どう思うかね」
すると答えは「それはちっとも問題ではありません。ヒトラーの経済政策でドイツ経済が復活したのは歴史的事実ですから、それまで否定することはできません」というものでありました。
そこでさらに私は重ねて、こう尋ねた。
「じゃあ、『ヒトラーがユダヤ人を皆殺しにしようとしたのは、実に正しい判断であった』と私が書いたら、どうするかね」
-----先生は怖いものなしですねえ。よくもまあ、そんなことを面と向かって聞けるもんだ。
もちろん、私自身はそんなことを思ってはいません。だからあくまでも、仮定の話です。
彼らの答えはこうだった。
「私たちが絶対に許せないのは、ホロコーストの事実を曲げることです。だから、毒ガス室はなかった、虐殺は幻想だと主張する連中はけっして許せない。しかし、ホロコーストをどう評価するかは、あなたの内面の問題である。あなたの考えを批判することはあっても、それを弾圧したり、意見の撤回を求めたりはしない」
-----ユダヤの人たちは心が広い!
そんな感想を持つようでは、やはり君はデモクラシーが分かっていませんね。彼らは寛大さから、そんなことを言ったのではありません。民主主義の精神を明晰に理解しているからこそ、こういう立派な返答になったと思うべきなのです。

最も大切な「自由」は何か

日本国憲法は基本的人権を保障しているが、これらの権利は無制限ではない。例えば、言論の自由や私有財産の権利は公共の福祉によって制限される場合がある。しかし、唯一無条件で保障される権利が「内心の自由」、つまり「思想信条の自由」である。国家権力は個人の内面に立ち入ることはできず、この権利が侵されると民主主義は成立しなくなる。これはデモクラシーの基本であり、最も重要な人権の一つである。

なぜ、独裁政治はいけないのか

独裁政治が問題とされる理由は、個人の内面にまで干渉し、人間の尊厳を侵害することにある。例えば、旧ソ連では、国家がマルクス・レーニン主義に対する批判を許さず、多くの人々がこれに抵抗した。彼らは、思想の自由を守るために命を懸けた。ヨーロッパの歴史でも、宗教戦争を通じて、内心の自由の重要性が認識された。民主主義の下では、個人の信仰や思想に対して国家が干渉することは許されていない。

この原則は、独裁政治が受け入れられない理由の核心である。独裁者はしばしば個人の内面に干渉しようとする。私はこの原則を重んじているため、ヒトラーの経済政策について肯定的な見解を持つことも自由であると考える。ユダヤ人でさえ、ヒトラーの経済手腕を認めざるを得ないほどだ。民主主義では、たとえ不快な意見であっても、それは個人の内心の問題として尊重されるべきである。

ヴェルサイユ体制への挑戦

ヒトラーはドイツ経済を立て直した後、ヴェルサイユ体制に挑戦した。1919年のヴェルサイユ条約はドイツの軍事力を制限し、賠償を要求した。しかし、1935年にヒトラーはこの条約を無視し、軍の再建を宣言した。これは事実上の戦争再開と同じで、ドイツ国民や隣国には恐怖を与えた。しかし、当時のフランスやイギリスは平和主義に縛られ、ドイツの行動に反対できなかった。この結果、ドイツ人はヒトラーに熱狂し、「神に近い」とまで評された。ヒトラーの大胆な行動は、キリスト教国のドイツ人にとって最大の賛辞だった。

ついにラインラント進駐

ヒトラーは再軍備に成功したが、それだけでは満足せず、第1次大戦で失われた領土を取り戻すことを目指した。この目標の一環として、1936年にラインラントへの進駐を実行した。ラインラントはドイツ工業の重要地域で、第1次大戦後に国際連盟の管理下に置かれ、ドイツ軍の配置が禁止されていた。しかし、ヒトラーは陸軍を進駐させ、国民投票を通じてこの地をドイツ領に復帰させた。ドイツ陸軍首脳はこの行動に驚愕し、フランスの反応を懸念したが、フランス軍は動かず、ヒトラーの判断が正しかったことが明らかになった。この成功により、当初ヒトラーに懐疑的だったドイツ軍首脳も彼に心服し、彼の能力を認めるようになった。ヒトラーは、平和主義に縛られたフランス軍の弱点を見抜き、その行動を予測していたのだ。

チャーチルだけが気付いていた「危険」

ラインラント進駐から、ヒトラーの「征服の進軍(マーチ・オブ・コンクエスト)」は始まる。彼はその後、ザール進駐、オーストリア併合をドイツ兵を1人として傷つけることなく成功させる。
ヨーロッパは彼の行動を黙認し続けたが、チャーチルだけがヒトラーの野望を見抜いていた。チャーチルは「戦争屋」と見なされ、彼の警告は真剣に受け取られなかった。彼は、フランス軍がラインラント進駐時に即座に対応していれば、ヒトラーの計画をくじけたと指摘している。これは今では定説となっている。しかし、当時フランスとイギリスはヒトラーの進軍を許し、結果としてヒトラーの政権基盤は強化された。ナチスを警戒していたドイツ人までもが「ヒトラーは天才だ」と賛美するようになった。

かくしてフランスの栄光は地に落ちた

ヒトラーはオーストリア併合後、チェコスロバキアのズデーテンラントを要求し、これをドイツに渡さなければ武力行使も辞さないと宣言した。ズデーテンラントはチェコスロバキア防衛の要であり、フランスの同盟国でもあったが、ヒトラーはイギリスとフランスが腰砕けになると予測していた。この結果、ミュンヘン会談が開催され、ヒトラーの完全な勝利に終わった。チェコスロバキアを見捨てたことで、フランスの栄光は失墜し、ヨーロッパの覇権は実質的にドイツに移った。イギリスではチェンバレン首相が平和を守った英雄として歓迎されたが、実際にはチェコスロバキアを見捨てたことで、その後ドイツに併合されることになった。平和主義の名の下でのこの行動は、結局平和を保つことはできず、チェコスロバキアは犠牲になった。

敗北の原因はミュンヘンにあり

1940年、フランスがドイツに降伏した際、チャーチルはフランスの敗北が1938年のミュンヘン会談時に既に決定していたと述べた。彼によれば、ヒトラーは平和主義を利用してドイツの国力を増強し、1939年にポーランド侵攻を行い、第2次大戦を開始した。イギリスはドイツの野望に気付き対独戦争に突入したが、ドイツ軍の強さに対抗できず、チェンバレン首相は退陣し、チャーチルが首相に就任した。しかし、ドイツ軍は1941年末まで圧倒的な勢いを見せ、イギリス軍はダンケルクから撤退を余儀なくされた。

チャーチルは、ミュンヘン会談でイギリスが「戦争もやむなし」という覚悟を見せていれば、ヒトラーの要求を阻止し、このような敗北は避けられたと考えていた。彼は、平和主義が独裁者を増長させ、大戦争を引き起こしたと指摘し、戦争への覚悟があれば戦争自体が避けられた可能性があると語った。

ケネディはなぜキューバ危機を解決できたか

平和主義は戦争を招く。戦争をする決意のみが、戦争を防ぐ。
これこそが第2次大戦の残した最大の教訓と言っても、差し支えないでしょう。ミュンヘン会談でイギリス首相チェンバレンが見せた平和主義が、第2次大戦の呼び水となったのです。
ところで、この教訓を第2次大戦で学んだのが、かのジョン・F・ケネディです。あまり知られていないことですが、若き日のケネディはミュンヘン会談の結果に着目して、大論文を書いています。

1962年のキューバ危機は、ケネディ大統領のミュンヘン会談からの教訓に基づく行動により解決された。ソ連がアメリカの核包囲網に対抗してキューバに核ミサイルを設置した際、アメリカはソ連に対し強硬な姿勢を示し、ミサイル撤去を要求した。ケネディは戦争を辞さずという覚悟を見せることが平和を守るために必要だと考え、その結果、ソ連のフルシチョフはキューバからミサイルを撤去し、危機は無事に解決された。この対応は後の冷戦期にも影響を与え、アメリカはソ連に対して全面核戦争の準備を怠らなかった。このようなアメリカとソ連の対立が続いたことで、冷戦は冷戦のまま終わり、平和が保たれた。ケネディの行動は、戦争を辞さない強い決意が平和を守る最大の力であることを示した。

平和主義と軍備は矛盾しない

憲法第9条はケロッグ=ブリアン条約をモデルにしたが、この条約は戦争を防げなかった。平和主義だけでは平和は保たれず、逆に大戦争を引き起こす恐れがある。世界の多くの国が平和主義条項を持つものの、全ての国が軍事力を放棄しているわけではない。例えば、スイスは永世中立を宣言しながらも市民に防衛義務を課し、軍事訓練を行っている。これは矛盾に見えるが、実際には平和主義と軍備が両立している。日本も平和憲法を持ちながら、戦争の研究を徹底的に行うことが平和国家の使命である。口で「平和」と唱えるだけでは実際の平和は得られない。文明国家として、呪術的な考えを超え、学問的、科学的なアプローチで平和に向き合う必要があり、世界一の平和大国になるためには、世界一の戦争通になる必要がある。

※軍事訓練:スイスでは現在、19-20歳のときに15週間の新兵訓練を行ない、その後も42歳になるまで10回、各3週間の軍事訓練を市民に施している。また学校では戦時国際法の講義も行なっているし、市民には「民間防衛」というテキストを配布し、有事の際のマニュアルを周知徹底させている。

戦争よりも恐ろしい危機

日本の大学や大学院には軍事学の専門コースが存在しないが、アメリカなど他国では多くの大学に軍事の専門家がいる。日本には防衛大学校があるものの、これは軍人向けであり、戦争を専門家だけに任せることは平和大国とは言えない。
日本の政治家の中で戦争研究を深く行っている人は少なく、チャーチルやケネディのような人物は見当たらない。全員が戦争屋である必要はないが、戦争を理解する政治家がいないのは危険である。イギリスが滅びずに済んだのは、戦争好きのチャーチルがいたからであり、現在の日本はそのような存在がいないため、より危険な状況にある。
また、日本では長らく戦争研究をする人を好戦的と見なしてきた。しかし、これ以上に深刻な問題がある。それは日本国憲法の実効性が失われていることであり、外国の侵略を心配する前に、日本が自滅する可能性がある。

第10章:ヒトラーとケインズが20世紀を変えた(329)

経済思想もロックが作った

経済思想はロックによって形成されたという点で、現代の憲法を考える上で戦争だけでなく経済も重要な要素である。民主主義の初期には、経済への政府の関与は極めて限定的だった。人間は自然状態で平等で自由であり、私有財産を形成し富を増やすことで平和に生きるとロックは考えた。この考え方は民主主義と経済思想に大きな影響を与え、政府の経済への干渉を限定的にする根拠となった。国家は人々の契約によって成立し、それぞれが労働によって富を増やし私有財産を持つことで豊かさを追求し、平和に暮らすというロックの考え方は、民主主義と経済思想の基盤を築いた。

「経済は国家とは関係がない」

ロックの自然状態を「国家と経済」という観点で考えると、彼の思想からは「所有権の絶対」や「経済は国家とは関係なく発展する」という重要な結論が導かれる。ロックは、人間の富や所有権は国家の成立以前から存在し、国家にはそれを侵害する権利がないと主張した。これは税金を勝手に取らないという原則につながり、アメリカ独立戦争の一因となった。また、ロックは自然状態では人々が自由に経済活動を行い、平和に暮らしていたと考え、国家が成立しても経済活動には影響しないとした。この考えから「国家権力は国民の経済活動に口出し不要」という思想が生まれた。

神の見えざる御手

ロックの「経済は自由であるべし」という考えは仮説に過ぎず、客観的な証拠はない。彼は自由な経済活動が問題を引き起こさないと信じていたが、これは彼の信念に過ぎなかった。当時の経済活動は非常に利己的で、多くの人々が個人的な利益を追求していた。これに対して、良識派の人々は社会の乱れを懸念していた。ロックの「国家は経済に関与すべきではない」という意見には多くの批判があったが、アダム・スミスが登場し、ロックの考えを経済学としての科学的根拠で補強した。

※アダム・スミス(1723-90):スコットランドに生まれたアダム・スミスは、その生涯をスコットランドで過ごした。早くから哲学者として知られていたが、奇しくもアメリカ独立宣言が出された年に出版された「国富論』でその名は不朽のものになった。

アダム・スミスがその著書『国富論』の中で述べたことは、たったひとつの言葉に要約することができる。⇒「自由放任」(Laissez faire レッセフェール/フランス語)。
すなわち、経済活動においては国家が干渉せず、個人や企業の利潤追求を放任しておけばよろしい。そうすればあとは『神の見えざる御手』に導かれて、かえって社会全体では『最大多数の最大幸福』が達成される……これこそがアダム・スミスが発見したこと。


夜警国家とは何か

アダム・スミスの経済学は古典派経済学の基盤を築き、自由市場の重要性を強調した。この学派は、市場に国家権力が介入すべきでないと主張し、自由市場が資源の最適配分をもたらすと考えた。ロックとスミスの考えによれば、政府はできるだけ小さくあるべきで、経済には関与しないことが望ましい。このような国家のあり方は「夜警国家」と呼ばれ、国家の役割は国民の生命と財産を守ることだけに限定される。20世紀初頭まで、夜警国家は民主主義国家の理想像とされ、国家は個々の経済活動に関与しなかった。しかし、20世紀初頭に大恐慌が起き、この「常識」は揺らぐことになる。

歴史始まって以来の大不況

1929年10月24日にニューヨーク株式市場の大暴落が発生し、これが引き金となって、人類がこれまで経験したことのない世界規模の大不況を引き起こした。アメリカでは失業率が25%を超え、4人に1人が職を失った。他の国々ではさらに深刻な状況だった。再就職の可能性がほとんどなく、求人が皆無だったため、失業はほぼ路上生活への直行と同義だった。さらに、当時の金融機関は相次いで破綻し、1万以上の銀行が潰れ、預金者保護もなく、貯金が意味をなさなくなった。失業保険もなく、失職は絶望を意味した。この状況は世界中で同じであり、移民することもできないほどの絶望的な状態だった。

失業なんて、ありえない!?

大恐慌時代、国民は失業対策を求めたが、当時の古典派経済学では市場に任せる「自由放任」が主流だった。この観点からは、不況は市場の一時的な機能不全と見なされ、自然に回復すると考えられていた。失業者に対する対応も同様で、古典派経済学では失業者は本来存在しないとされた。市場原理に基づくと、資源の最適配分が自由市場に任され、価格調整が行われる。労働者も市場で取引される商品と見なされ、賃金率が高すぎれば売れ残り、適正な賃金水準になれば雇用されると考えられた。この観点から、失業は一時的で過渡的な現象であり、市場の価格調整機能により解消されると古典派は見ていた。

それでも懲りない古典派の人々

この時代は古典派経済学全盛で、各国政府は自由放任政策を採用していたが、景気は改善せず、逆に悪化した。古典派経済学者も自説を変えなかった。イギリスの古典派経済学者セシル・ピグーは、失業者が解消されないのは市場が自由でないためと指摘し、「賃金率の下方硬直性」が原因と考えた。彼は労働組合が賃下げに反対して市場の自由取引を阻害していると主張し、労働組合の解体を唱えた。しかし、その提案は非現実的で、実行すれば労使紛争を悪化させる恐れがあった。論理は首尾一貫しているが、現実の問題解決には役立たないというのが当時の状況だった。

※セシル・ピグー(1877-1959):ケンブリッジの経済学教授として1944年まで在職。20世紀前半のイギリス経済学の重鎮。主著は『厚生経済学』。ケインズとの失業論争は有名だが、のちにピグーはケインズの業績を評価するようにもなった。

難解な、あまりにも難解な

古典派経済学は大恐慌に対して無力であり、不況克服法の研究は進んでいなかった。この状況に若手経済学者ジョン・メイナード・ケインズが現れ、古典派経済学に対して批判を唱えた。これがケインズ革命の始まりだった。ケインズの理論は非常に難解で、彼の主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』は理解が困難だったとされる。その理論が広く理解されるようになったのは、ポール・サミュエルソン教授が数式を用いて説明した後だった。そのため、ケインズ理論を説明する際には数学が不可欠となる。

※ポール・サミュエルソン(1915-2009):シカゴ大学に学び、MIT(マサチューセッツ工科大学)で長く教鞭を執る。1970年、ノーベル経済学賞。彼の業績は多岐にわたり、「経済学における最後のジェネラリスト」と呼ばれる。彼が執筆した教科書(『経済学』)は世界的なベストセラー。日本でも広く読まれている。

「セイの法則」がすべてのカギ

ケインズは古典派経済学を一部否定したが、完全に否定したわけではない。彼は古典派が特別な場合にのみ通用する「特殊理論」として位置づけ、自分の理論を「一般理論」と呼んだ。古典派が通用するかどうかの分かれ目は「セイの法則」にある。セイの法則は「供給は需要を作る」という原理で、この法則が成り立つ場合、古典派経済学は有効だが、そうでなければ無力である。
セイの法則は、国民経済全体で見たときに、総供給と総需要が一致するという発見である。ケインズは、需要が強い状態では供給した商品は売れ、セイの法則が成立すると認めている。景気が良い時、セイの法則は成立し、供給が需要を作り出す。この時、古典派経済学の理論が意味を持ち、マーケットメカニズムが働き資源の最適配分が行われ、失業者は生まれない。しかし、アダム・スミスの時代から20世紀初頭までのヨーロッパ経済は成長し続けたため、セイの法則が成り立っていたと見なされ、古典派経済学の欠点は明らかにならなかった。

※ジャン=バティスト・セイ(1767-1832):青年時代、フランスの金融機関で働いていたが、アダム・スミスの『国富論』に出会って経済学者となる。革命政府の財政委員として活躍するが、経済政策をめぐってナポレオンと対立して辞職。みずから「アダム・スミスの弟子」と言っていたほどの自由経済論者であった。

需要が供給を作る

1929年の大恐慌で、セイの法則が通用しなくなり、企業が生産しても売れない状態に陥った。この状況でケインズは、「有効需要」という概念を提案した。古典派経済学が「供給が需要を作る」と主張するのに対し、ケインズは「需要が供給を作る」という考え方を提示した。このコペルニクス的転回により、経済の規模は国民総需要の大きさによって決まるとされ、生産量が需要を超えることはないと説明した。大恐慌は有効需要の減少によるもので、有効需要を増やせば経済が回復し、失業者が減少するとケインズは考えた。彼の「有効需要の原理」によれば、有効需要が経済の規模を決定し、有効需要が増えれば供給、すなわち総生産も増え、景気が向上するというのが彼の見解だった。

穴を掘っても公共事業

大恐慌中、消費を増やすことは困難だったので、ケインズは投資を増やすことに焦点を当てた。有効需要は消費と投資の合計であり、不況下では投資の増加が現実的な解決策となる。利子を下げて企業が投資しやすくすることが考えられるが、深刻な不景気では企業の投資意欲も減退する。ケインズは、民間投資が減少する場合に政府が公共事業を実施することを提案した。道路やスタジアム建設などの公共プロジェクトは、投資を増やし需要を拡大する。
ケインズは、政府による公共事業の実施を奨励し、その内容は何であってもよいと主張した。たとえ失業者に大きな穴を掘らせてまた埋めさせるような無意味な作業であっても、それは投資として機能し経済に効果を及ぼすとした。民間企業の投資は利潤を目的とするが、国家プロジェクトは金儲けを目的としないため、借金による投資でも経済効果はあるとケインズは考えた。

ケインズ理論の奥義は「波及効果」にあり

ケインズが公共投資を奨励したのは、その投資が波及効果を生み出すためです。公共投資による「有効需要の原理」は単純なものではなく、ここで重要なのは乗数理論です。例えば、1兆円の公共投資が行われると、この金額は国民に行き渡り、材料費や賃金として企業や個人の手に入る。この臨時収入は国民の消費に回され、消費性向に基づいてさらなる需要を生み出す。
消費性向が0.8だと仮定した場合、1人当たり1万円の臨時収入のうち8000円が消費に回される。国民全体で見れば、8000億円の追加支出が発生する。結果として、1兆円の公共投資は、それ自体で1兆円の生産増加とともに、8000億円の追加需要を生み出し、合計で1兆8000億円の経済効果をもたらす。これがケインズの経済理論における波及効果の本質です。

有効需要は雪だるま式に膨らむ

臨時収入のうち8000億円が使われるということは、8000億円だけ生産が増え、それだけ国民の懐に入ってくる。つまり、8000億円が何らかの形で収入になる。カネは天下の回りものだから、使ったらまた戻ってくるわけだ。
では、その8000億円はどうなるか。先ほどの消費性向0.8を当てはめてみれば、8000億×0.8=6400億円の新しい需要が生まれるということになる。
こうして、6400億円分の新規需要が生まれると、それはさらにその8割分の新規需要を産む。400億円×0.8=5120億円。
----合計2兆9520億円!まさに雪だるま式ですね。
こうして無限に需要が需要を産み出していくと、その結果、全体では1兆円の投資は、合計でぴったり5兆円の効果をもたらすことになる。
----なんで、そんなに簡単に答えが出るんですか。
そこが数学を知っているか、知っていないかの差です。無限等比級数の和の出し方を知っていれば、すぐに答えが出る。
1兆、8000億、6400億、5120億……このように一定の比率で変わっていく数字の並びのことを等比級数(数列)と言い、その比率を公比と言います。
この等比級数が無限に続く列をすべて合計するには、公式を用いれば簡単です。ここに、その公式を書いておきます。
今回の例でいえば、初項は1兆円、公比は消費性向の0.8だから、答えは5兆円になる。つまり、ケインズの乗数理論とは、この無限等比級数を経済の世界に持ち込んだということでもある。
1兆円の公共投資は、それだけで効果が終わるのではない。それが無限に波及効果をもたらすから、1兆円の投資であっても5兆円分の需要を産み出すというわけです。したがって、国家の借金として1兆円が増えるとしても、そんなことは大した問題ではない。実際の何倍もの効果を産み出すのであれば、利息なんてたかが知れたものだということになる。
また、大切なのは波及効果のほうなのだから、公共投資で何を作ろうとも問題ではない。それこそ穴を掘って埋めても、エジプトのファラオのようにピラミッドを造ってもいいというわけです。

「無限等比級数」の求め方

憲法違反と言われたニュー・ディール政策

ケインズの経済理論は革命的だったが、実際の政策には取り入れられにくかった。特に、政府が経済活動に干渉することに対する抵抗があった。フランクリン・デラノ・ルーズベルト米国大統領は、ケインズ経済学の価値を認め、ニュー・ディール政策を提案したが、これは憲法違反として非難された。主要な法案は連邦最高裁で違憲判決を受け、ルーズベルトの政策は実行困難になった。ルーズベルトは最高裁判事の席に自派の人物を送り込む手段を取ったが、それでも彼の政策は十分に実行されなかった。アメリカ経済の回復は、第二次世界大戦が始まり、軍需による有効需要の増大とともに、大規模な波及効果によって実現した。

インフレを抑え込んだヒトラー

ケインズ経済学は大恐慌に対して大きな影響を与えなかったが、アドルフ・ヒトラーは例外だった。ヒトラーはケインズが有効需要の理論を提唱する前から公共投資が不況からの脱出策であると認識していた。彼はドイツ全土にアウトバーンを建設し、大規模な軍拡を行い、有効需要を増加させ、完全雇用を実現した。さらに、ヒトラーは憲法違反の心配がなく、反対する経済学者を排除できた。彼の政策の特筆すべき点は、有効需要を増加させながらインフレを起こさなかったことで、これは彼が任命した「マルクの魔術師」と呼ばれたシャハト博士による巧妙な金融政策のおかげだった。ケインズ政策の後に多くの国で問題となったインフレを、ヒトラーのドイツは防ぐことができた。

かくしてケインズ経済学の革命も、実際には大恐慌にはあまり役に立たなかったわけですが、ただ一人だけ例外があった。
それが、かのアドルフ・ヒトラーです。ヒトラーは前にも述べましたが、ケインズが有効需要の理論を発表する前から、公共投資こそが不況からの脱出策であることを見抜いていた。
プラトンは天才とは「生得の知恵」を持った人物であると言っています。つまり誰から教わるわけでもなく、また経験を通じて学んだわけでもないのに、天才は真理を生まれながらに知っているというわけです。
同じ独裁者であってもナポレオンは生得の知恵によって軍事の天才になった。ロシアの冬将軍に敗れるまでナポレオンはほぼ連戦連勝だったわけですが、ヒトラーの場合、その生得の知恵は経済にあったと言うべきでしょう。
後年、経済学者のヒックスは「戦前はヒトラーの時代、戦後はケインズの時代」*と言ったと伝えられていますが、まさに戦前の世界においてはヒトラーのみが古典派経済学の欠点を見抜いていた。彼だけがケインズ経済学の奥義を知っていたのです。
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※と言った:森嶋通夫思想としての近代経済学』 岩波新書223ページ参照。

ケインズ対古典派の戦い

戦後、ケインズ経済学は広く受け入れられ、政府が公共投資を行うことが民主主義国で認められるようになった。しかし、最近ではアメリカを中心に、古典派経済学の精神に立ち返る動きが強まっている。ケインズ経済学と古典派経済学は継続的な論争を繰り広げており、特にアメリカでは1960年代に深刻なインフレが起きたことが、ケインズ政策への批判を強めた。
シカゴ大学のフリードマンは、公共投資の効果を否定し、政府の巨額公共投資により民間投資が減少すると主張した。また、ルーカスは「合理的期待説」を提唱し、政府の経済政策が予測可能になる現代では、その効果が薄れると論じた。このように、戦後のアメリカ経済の変動と情報化の進展が、ケインズ政策に対する反論を生み出し、経済学の世界での「反ケインズ」の動きを強化していった。

※ミルトン・フリードマン(1912-2006):シカゴ大学教授を経て、スタンフォード大学フーバー研究所で活動。通貨量が経済を左右するという「マネタリズム」を提唱した。反ケインズ主義者として有名。1976年、ノーベル経済学賞を受賞。
※ロバート・ルーカス(1937-2023):1995年、ノーベル経済学賞を受賞。シカゴ大学に学ぶ。初めカーネギー・メロン大学、のちにシカゴ大学で教鞭を執る。邦訳に『マクロ経済学のフロンティアー景気循環の諸モデル』(東洋経済新報社)がある。

ケインズの逆襲

1970年代後半、多くの人々は「ケインズは死んだ」と言い、アメリカの財政赤字の増加によってケインズ経済学の支持は低下した。しかし、1980年代に入るとケインズ経済学の再評価が始まり、フリードマンやルーカスの理論にも問題点が見つかった。古典派とケインズ派の論争は単なる非難の応酬に留まらず、経済学の発展に寄与した。現在では、ケインズ派と古典派のどちらが完全に正しいかは単純に判断できないという見解が強まっている。両派の違いは価格変動のスピードに関する見解の違いであり、たとえば賃金率の変動に関しては、ケインズ派は急速な変化を見ない一方で、古典派は賃金率が迅速に下がると見る。近年の研究では、長期的には賃金率が下がることが明らかになり、古典派とケインズ派の違いは短期と長期の視点の違いにあるとも言える。このような発展は、双方の論争によって促進されたものであり、経済学の進歩には両派の論争が不可欠だった。

公共投資に潜む「罠」

現在の日本政府はケインズ経済学のように公共投資を行っているが、実際にはケインズの理論とは異なっている。ケインズは公共投資に加えて利下げも重要だとしていたが、利子率を過度に下げることには警鐘を鳴らしていた。彼は低すぎる利子率が「流動性の罠」を引き起こし、経済活動の意欲を失わせると警告していた。日本では現在、普通預金の利子率が極めて低く、これによって貯金の意欲が失われている。しかし、それが消費や投資の増加につながっていないため、有効需要の増加は見られない。ケインズの著書には「流動性の罠」に関する記述があるにもかかわらず、日本の政策担当者はこれを無視しており、結果として公共投資が意味を成さない状態になっている。

社会主義国・日本

ケインズは有効需要拡大政策を長期間続けるとその効果が失われると警告しており、政府の経済活動への過度の介入が経済の自由を奪い、社会主義化を引き起こすとも指摘している。現在の日本はこの傾向が見られ、特に土木業界は公共事業に依存しており、公共投資がないと業界が存続できない状態になっている。これは土木業界が政府の一部門と化しており、従業員は実質的に国から給料を受け取っている状態に等しい。このような状況は資本主義国とは言えず、ケインズ経済学が資本主義を前提にしているため、社会主義化した日本ではその理論が通用しない。ソ連の例を挙げると、景気が良くなる見込みはないということになる。

「ハーベイ・ロードの仮定」

ケインズ経済学では言及されていないが、日本は「ハーベイ・ロードの仮定」という問題に直面している。これは、ケインズが提案した政府の経済介入に関わる人たちが無能であったり、私利私欲に動かされたりする場合、公共投資が無駄になるという指摘である。ケインズは無意識のうちに「官僚は無欲で正しい判断ができる」と仮定していたが、この仮定は必ずしも成り立たない。ハーベイ・ロードはケインズの故郷で、彼は知的エリートとして育ち、イギリス大蔵省の官僚として活躍した。彼の周囲にはエリートが多く、当時のイギリスの知識階級には公共のために尽くすエリート意識が強かった。しかし、現代の日本においては、この仮定が成り立っているか疑問である。民間業者に依頼するエリートが存在する現状を見ると、「ハーベイ・ロードの仮定」は日本では成立しない可能性が高い。

日本経済復活の条件

現代日本は、ケインズ政策を行う際の三つのタブーを犯しているため、どんなに公共事業を実施しても景気は改善されない。現在の公共事業政策は、単に政府の借金を増やすだけであり、将来の国民が負担するべき債務を増加させている。日本は資本主義国家ではなく、社会主義国家の傾向があり、社会主義国の官僚にケインズ経済学を教えることは無意味だとされる。日本経済を回復させるためには、まず社会主義を排除し、資本主義の国にする必要がある。しかし、規制緩和だけでは不十分で、資本主義の精神に戻るためには民主主義が必要である。資本主義経済は民主主義が存在することで成り立つため、日本を救うためには民主主義を復活させ、憲法が機能する国家にする必要がある。日本が社会主義経済になった原因も民主主義の基盤が欠けていたことにあるため、問題の解決は憲法に関わる。憲法が機能しない限り、日本経済も改善されない。

さて、そこでいよいよ問題は核心に近づいてきた。
なぜ現代日本には、真の意味の民主主義も資本主義も根付かなかったのか。
どうして憲法は死んでしまったのか。
そしてなぜ、今の日本は苦境に置かれているのか。
次章以降で、この問題を解明していこうと思います。
-----ようやく本題ですね。あんまり歴史の講義が長かったから、そこまで行かないかと心配しましたよ。
何を言っているのですか。これまで講義した基礎知識がなければ、日本が抱えている問題の真相は分からない。素人が解剖しても、医学の知識がなければ病気の原因が突き止められないのと同じです。
しかし幸いにして、読者のみなさんはこれまでの講義をよく理解してくださった。もはやみなさんは素人ではありません。耆婆扁鵲(ぎばへんじゃく)ほどではないにしても、膏肓(こうこう)の病くらいは治せる。それは保証できます。
※耆婆扁鵲:耆婆は古代インド、扁鵲は古代中国の伝説上の名医。このクラスの名医ともなれば、黙って坐ればどんな病気か分かるし、死んだ人間でさえ生き返らせることができる。
※膏肓:心臓と横隔膜の間の部分。中国の伝統医学では、この部分にまで病気が広がる(病膏盲に入る)と治癒の見込みはないとされた(『春秋左伝』)のだから、「膏盲の病くらいは治せる」というのは大変な褒め言葉である。
それでは、いよいよ日本を「診断」することにいたしましょう。

第11章:天皇教の原理(365)

デモクラシーは「優曇華の花」

ここまでの講義をお読みになったみなさんには、すでにお気付きのことだと思いますが、およそデモクラシーという政治形態は、人類の社会の中でもひじょうに特殊なものです。
学校の授業では、あたかも人間社会が発展し、人類が賢くなっていけば自然にデモクラシーになるかのように教えていますが、そんな話は夢物語でしかありません。

そもそもデモクラシーが生まれるには予定説という、摩訶不思議な教えを持ったキリスト教がなければ始まりません。しかも、デモクラシーが生まれたからと言って、それが順調に育つわけではない。
デモクラシーはそれ自身にカエサルやナポレオン、ヒトラーを産み出す要素がある。せっかく生まれたデモクラシーも、途中で死んでしまうのです。

仏教の教典に「優曇華」という花のことが記されています。インドの伝説によれば優曇華の花は、衆生を救う如来や転輪聖王という帝王の出現を告げるものだとされているのですが、悲しいことにこの花は3000年に1度しか咲かない。この伝説から「優曇華の花」とは、滅多に起こらないことのたとえとして使われます。デモクラシーとは、まさに優曇華の花。日本人はデモクラシーを当然のもの、当たり前の政治システムだと思っていますが、それは大間違いなのです。
現に世界を見渡してごらんなさい。
曲がりなりにもデモクラシーらしき政治が行なわれている国は、数えるばかりしかありません。ヨーロッパの諸国と北アメリカを除けば、あとは日本と台湾、それとアフリカにいくつかあるくらいです。
それ以外の国々はほとんどが独裁か、それに近い政治です。当然のことながら、そうした国では憲法はロクに機能していません。

こうしたことを考えたとき、みなさんの頭の中に1つの疑問が起こるでしょう。いったい、なぜ日本は曲がりなりにもデモクラシーの国になりえたのか……この大問題を、この講義では扱っていきたいと思います。

「半主権国家」にされた日本

日本の近代化は1867年の王政復古で始まった。その動機は、欧米列強の圧力に対抗し、日本の独立を維持することだった。明治維新後、日本は二つの大きな課題に直面した。一つは近代的な軍隊を構築すること、もう一つは完全な主権国家として国際社会に認められることだった。当時、日本は「半主権国家」と見なされていた。国際社会では、全ての国が平等であることが原則だが、これは20世紀後半になってからの常識だった。それ以前は、この考えは実現されていなかった。国際法はヨーロッパで生まれ、当初はヨーロッパとアメリカの白人国家にのみ適用された。他地域では、国際法のルールは無視されていた。ヨーロッパ人は地球上の多くの場所を植民地化した。しかし、中国などの文明国と接触すると、彼らは「半主権国家」という概念を考え出した。これは、中国などを対等の主権国家として認めるのを避けるためだった。

文明開化とは何だったのか

「半主権国家」という概念は、主権という「誰からの制約も受けずに自由に行動できる権利」に対する矛盾だ。主権はあるかないかの二択で、中間は存在しない。にもかかわらず、欧米列強は中国や日本などを「半独立国」や「半主権国家」と見なした。彼らは、資本主義がない国を主権国家と認めず、そのような国には無法が許されると考えた。日本も開国後、関税自主権や治外法権の欠如など不平等条約に縛られた。
この問題を解決するため、明治新政府は岩倉使節団を欧米に派遣し、不平等条約の改訂を試みた。しかし、資本主義国でなければ条約改正は不可能と断られ、使節団は欧米文明の視察に切り替えた。日本が主権国家として認められるためには、資本主義経済に転換することが不可欠だった。これが文明開化政策の本質で、日本の経済を資本主義にすることが主目的だった。これは国防の強化にも直結し、日本は資本主義化へと進んだ。

アメリカ教育を真似した明治の日本

明治政府は日本の資本主義化を目指し、様々な施策を打ち出した。単に官営工場を造ることだけでは資本主義の「資」の字も生まれない。資本主義はその精神から生まれるものであり、単に資本を投下するだけでは資本主義経営にはならない。明治政府は最初は官営工場や鉱山の経営を行ったが、岩倉使節団の帰国後、これらは次々に民間に売り払われた。欧米の例を見て、彼らは単に工場を造るだけでは資本主義国になれないと理解した。では、日本人が資本主義の精神を身につけるためには何が必要かという問いが残る。

資本主義の精神とはまず第一に、労働を自己目的化することです。
つまり仕事とは単にカネを稼ぐための方便ではない。仕事そのものに価値があるのだと考えるようになることが必要です。
キリスト教の予定説では、労働は天職だとされた。仕事は神が与えたものなのだから、一心不乱に働くのが当然であるとなった。ここから資本主義がスタートしたわけです。
ところが困ったことに、日本にはキリスト教は定着していない。かといって、今から日本人に予定説を普及できるはずもない。そこで明治政府がまず最初に考えたのは、資本主義精神の本場であるアメリカの教科書をそっくり子どもたちに教えることだった。アメリカ人の中にあるピューリタンの精神を、教科書を通じて子どもたちにたたき込もうとしたのです。
そこで初期の学校教育では何とアメリカの教科書である『ナショナル・リーダー』をそっくりそのま翻訳して使った。普通なら、それを多少なりとも日本の風土に当てはめようとするのでしょうが、日本の資本主義化は急務です。そんな時間はありません。そこでこんな直訳調の教科書が使われた。
「コレハ猫ナリ。汝、手ヲ出サバ、スナワチヒッカクベシ」
日本人に資本主義の精神を教えたいという意気込みは分かるが、これはやはり失敗です。ところが、その後、日本の文部省は「これぞ日本のピューリタン」という人物を発見して、大成功を収めた。それが例の二宮尊徳です。

「手本は二宮金次郎」

おそらく読者のみなさんは、戦前日本では軍国主義の反動教育が行なわれたと教わったことでしょう。しかし、それは真っ赤なウソ。
アメリカ直輸入の教科書が使われたことを見ても分かるとおり、戦前日本の教育では資本主義精神の育成こそ最優先目的だったのです。
そのことは日本中の小学校に、二宮金次郎の銅像が建てられたことに象徴的に現われています。

二宮尊徳とは何者か。彼は英雄的な軍人でもなければ、維新の志士でもない。ただの農民にすぎません。そんな男がなぜ日本の学校教育では「理想的人物」とされたのか。二宮尊徳とは、要するに資本主義のお手本であった。
彼こそが日本的資本主義の精神の象徴
だった。
二宮尊徳の教えとは要するに「労働は金儲けのためではない」、これに尽きます。人間は正直に働くべし。そうすればお天道様はちゃんと見てくださる。だから、怠けてはいけない。
実際、金次郎少年は貧しい家に生まれながらも、勉学と労働に打ち込んだ。成長してからは合理的精神を発揮して、小田原藩や相馬藩の財政建て直しに貢献した。また、それと同時に、「労働は救済なり」という予定説ばりの思想を、みんなに説いてまわった。まさに彼は日本的資本主義精神の権化でした。
だからこそ、明治の学校教育では二宮尊徳の銅像を建て、彼をテーマにした唱歌を子どもに歌わせたのです。日本の学校教科書に登場する日本人は、第二位が誰かは分かりませんが、彼が圧倒的に第一位と言われています。
明治政府は、この二宮尊徳を通じて、なんとか日本人に資本主義の精神を定着させたいと考えたのです。

伝統主義こそ維新の敵

明治政府は資本主義化を目指し、勤勉の精神の育成に注力したが、これだけでは資本主義は実現できない。資本主義の根幹は、平等の精神にある。江戸時代の身分意識や階級意識が残っていれば、資本主義は芽生えない。資本主義社会では、自由に職を選べることが重要で、「農民の子は農民、職人の子は職人」という考え方では資本主義になれない。人間の平等という精神も重要で、キリスト教における「神の前の平等」が「法の前の平等」としてデモクラシー思想へと発展した。
しかし、身分制が色濃く残る明治の日本で、このデモクラシー思想を根付かせるのは難しい。敵は伝統主義だ。この伝統主義は社会に深く根付き、容易には退治できない。農民は江戸時代と変わらず、地主を崇拝しており、貧農が大実業家になるようなことは考えられなかった。この状況では、資本主義を確立するのは困難だった。明治政府にとって、日本人に平等の精神を教え込み、伝統主義を退治することは大きな課題だった。

「天皇の前の平等」

さて、そこで明治政府が考え出したのが、驚くべきアイデア。
こんな破天荒なことを考え、しかも実行に移したのは世界でも日本がただ一国。このおかげで、日本は非白人国家で最初のデモクラシー国家に変貌できた。そのアイデアとは何か。
それは国家元首たる天皇を、日本人にとって唯一絶対の神にすること。天皇をキリスト教の神と同じようにするというアイデアです。
すなわち「神の前の平等」ならぬ、「天皇の前の平等」です。現人神である天皇から見れば、すべての日本人は平等である。この観念を普及させることによって、日本人に近代精神を植え付けようと考えた。
この試みは大変な成功を収めました。戦前の日本人は、自分たちを「天皇の赤子」と考えた。つまり日本人はみな天皇の子どもであって、天皇から見れば「一視同仁」、みな平等であると信じることができた。
この確信があって初めて、日本に資本主義が生まれてくるようになった。
末は博士か大臣か……どんな貧農の子であっても、学問と努力さえあれば、出世することができる。そう思えたのは、結局のところ、天皇から見ればみな同じ人間ではないかと考えられるようになったからです。

戦前の日本で天皇と皇室の神格化は多く議論されているが、これらを単なる反動、ファッショ、封建的とさまざまなレッテルが貼りで片付けることはできない。明治政府が目指したのは、キリスト教の代替としての宗教を作り、それを通じてデモクラシー国家になることだった。天皇を神格化することは、他の国では考えられないほど斬新な試みだった。
もし日本が天皇を神格化せずに、制度や法律だけを輸入して近代化したら、失敗に終わっていた可能性が高い。実際、第二次大戦後に多くの有色人種の国家が誕生したが、民主主義の国や平等な社会を築くのは難しかった。近代資本主義や近代デモクラシーの精神がなければ、制度や法律だけでは近代国家にはなれない。
これに比べ、明治の近代化は大成功だった。欠点はあるが、明治の日本は江戸時代の日本とは全く異なる社会に変わった。西洋諸国も日本を近代国家の一員として認め、不平等条約の改訂が始まった。これを成功と呼ばなければ何と言えるだろうか。

天皇教は神道にあらず

さて、明治政府は天皇を神格化し、新しい宗教を作ったと言いましたが、この新宗教は「天皇教」と呼ばれるべきでしょう。戦後の歴史観では、しばしば「戦前の日本は国家神道であった」と言われますが、天皇教と国家神道はまったく別物です。

神道とは本来、自然崇拝の原始的な信仰です。大木や山、あるいは巨岩の中に「八百万の神」が宿っていると考えるのが神道です。
天皇教は、建国神話以来の神道がベースになってはいます。しかし、天皇教は神道とはちっとも似ていない。古くから伝わる神道のどこをどうひっくり返しても、キリスト教におけるイエスのように天皇が現人神であるという結論にはなりません。伝統的な神道の考えに従えば、天皇は皇祖神である天照大神直系の子孫であらせられても、現人神ではない。天皇とは、皇祖神のいわば斎主(神道の祭りに際し、主となって奉仕する者)であって、それ以上のものではないのです。
※キリスト教におけるイエス:紀元325年に開かれたニケア公会議で採択された「ニケア信条」では、イエスは神にして人、人にして神であるとされた。まさにイエスは現人神なのである。

ですから、戦前の日本を支配していたのは「国家神道」であるという言い方は、どう考えてもおかしい。天皇教を国家神道とは呼べないということは、明治維新になって古くからある神社は、ほとんど政府の手によって破壊されている事実からも明らかです。
日本史の教科書などには、明治になって廃仏毀釈運動が起こって、各地の寺院が破壊されたり、仏像が焼かれたと記されています。たしかに、これは事実ですが、しかし、だからといって神社がその代わりに栄えたかといえば、そうではない。むしろ、正反対です。
というのも、当時の明治政府は天皇を中心とする天皇教のために、徹底的な神社管理を行なった。
古くからある神社で、天皇や国家と関係の深い神社に対しては、官幣社や国幣社などの称号を与えて保護しましたが、それ以外の神社は壊されたり、廃止されたりした。しかも、生き残ることができた神社に対しては国家権力が介入して、その儀式ばかりか教義に至るまで変更させられた。その結果、江戸時代までの神道は明治になって消え失せたと言ってもいいぐらいです。

私は数年前に奈良の春日大社に行ったことがあります。
春日大社といえば、奈良時代に創建された由緒正しい神社ですが、そこの神職に話を聞くと、やはり春日大社でも古くからの儀式はみんな明治時代で途絶えてしまったと言うことです。

ことほど左様に明治政府は徹底的に神道に対して統制を加えた。
その理由は言うまでもありません。明治政府にとっては、近代国家を作るために天皇教を確立することが何よりも優先した。そのため、従来の神道がそのままの形で残っていては困るのです。ですから明治に入って神道はむしろ大変な弾圧を受けたと言ったほうが正しいでしょう。

日本にも「予定説」はあった!

では、その天皇教の教義とは何か。
その主な柱は二つです。一つは先ほども述べた「天皇は現人神にして、絶対である」という教義です。この教義から「天皇の前の平等」という考えが生まれてくる。
もう一つの重要な柱は「日本は神国である」という思想です。
-----そういやあ、「日本は神の国である」と言った首相がいました。あの人も天皇教信者なんですかね。
あれは単に「八百万の神様がいる国」という意味ですから、天皇教ではない。天皇教で言う「神の国」とは、ユダヤ教における「約束の地」と同じ意味を持つ、重大な概念です。
日本神話によれば、皇室のご先祖は高天原から地上に降りていらした、つまり天孫降臨があったとされていますが、そのとき主神・天照大神はこう宣言なさった。
「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、これ吾が子孫の王たるべき地なり」
つまり、日本国は神によって繁栄をあらかじめ約束された土地であるというわけです。
-----なるほど聖書とそっくりですね。
しかし、聖書と日本神話では決定的に違うところがある。古代イスラエルの神は、そこに付帯条件を付けた。つまり「神との契約を守るならば」というわけです。その契約を守らなかったから、ユダヤ人は約束の地を失うことになった。
これに対して、日本神話には付帯条件がない。つまり、どんなことをしようとも、日本は栄えるというわけです。
これこそが、天皇教における「予定説」です。

天皇教を信じれば、もう怖いものはない。何しろ日本の繁栄は神代のときにすでに予定されているのだから、何の心配も要らない。

しかも、これは歴史的にみれば、すでに証明されている。

何しろ、日本は、あの勇猛なモンゴル騎馬民族の元をも退けたくらいで、一度として他民族の支配を受けたことがない。これを見ても、日本国が神国であることは火を見るよりも明らかである、というわけです。

キリスト教の予定説を信じた人たちは、神の栄光を信じて、この世に怖いものがなくなったわけですが、天皇教の予定説を信じれば、また同じように怖いものなしになる。

日本はかならずや資本主義、デモクラシーの近代国家になれる。それは神様が約束したものなのだから、心配することはない。だから、脇目もふらずに働くべし。こういう論理が成り立つわけです。

もちろん、この神国思想はのちに軍部によって悪用されることになるわけですが、しかし明治時代に限っていえば、「神の国」という確信があったから、日本は資本主義やデモクラシーに向かって猪突猛進できた。

何度も強調しますが、この時代、非白人国で資本主義になった国はどこにもない。だから本当のことを言えば、日本が近代国家になれるかどうか保証はない。しかもアジアでは西洋列強が虎視眈々と日本をねらっている。心配をすればキリがないわけですが、「日本は神国なのだから」と言われれば、安心ができるというものでしょう。

だから、この神国思想は日本人にとってのよりどころとなった。この予定説がなければ、あそこまで大胆な改革は行なえなかったというわけです。

天皇教のルーツはどこか

-----先生を疑うわけじゃないけど、天皇教って本当にあったんですか。予定説まであっただなんて、話が出来すぎですよ。たしかに君が疑うのも無理はない。
しかし、天皇教は間違いなく存在していた。しかも、それは明治になってから、急ごしらえで作られたものではなかった。こうした思想は、江戸時代からあったものなのです。
みなさんは幕末の志士たちが、いわゆる尊王思想を持っていたことは知っているでしょう。その尊王思想とは、まさにこの天皇教と同じだったのです。
ここで詳しく触れるゆとりはありませんが、幕末維新の革命をもたらしたのは、天皇こそが絶対であるという尊王思想にありました。
尊王思想の原点は、言うまでもなく『古事記』『日本書紀』にあるわけですが、これが一種の神学理論に進化したのは、江戸時代に入ってからのことです。
中でも最も功績が大きかったのは、江戸時代初期の儒学者だった山崎闇斎(やまざきあんさい)と、その弟子たちでしょう。
※山崎闇斎(1618-82):京の浪人の子として生まれ、比叡山に学び、妙心寺の禅僧となるも、のちに儒学(朱子学)に転じる。闇斎は、儒教の説く「王道」が実現されているのは、皇室をいただく日本のみであるという「大発見」をして、尊王思想の原点を作った。

彼の思想は弟子である浅見絅斎や栗山潜鋒によって理論的に精緻なものになった。彼らを総称して「崎門(きもん)」と呼ぶのですが、この崎門学派によって尊王思想は理論的に完成します。天皇が現人神であること、そして日本が神国であることの神学的証明は、この崎門学派によってなされました。
崎門学派の尊王思想がどれだけの影響力を振るったか、それはみなさんの想像を絶したものです。何しろ、この尊王思想は倒幕の志士たちだけが信じたのではない。倒される側の江戸幕府ですら、その影響から逃れることはできなかった。
その何よりの証拠は、「最後の将軍」となった徳川慶喜です。慶喜はご承知のとおり、水戸の生まれですが、この水戸藩は尊王思想の牙城だった。元来、水戸藩二代藩主の光圀以来、尊王思想に熱心な藩だったのですが、のちになると崎門学派の影響を受けて、全藩を挙げて尊王思想になってしまった。
したがって、慶喜も尊王思想の持ち主で、言うなれば天皇教の信者だった。
-----将軍が隠れキリシタンならぬ、隠れ天皇教信者だった!
だからこそ、かの鳥羽伏見の戦いにおいて、官軍側が例の「錦の御旗」を掲げたとき、「もはや、これまで」と慶喜は江戸に逃げ帰った。これが何よりの証拠です。
あのとき、幕府は大坂城で官軍と戦う準備を整えて、今か今かと待ち構えていた。しかし、相手が薩長ならば戦うけれども、錦の御旗は天皇の象徴。神様とは戦えないと、もう慶喜も抵抗の意志を失った。
天皇教信者の慶喜には、現人神と戦うことなど考えるだに恐ろしいことであったわけです。

「神の国」明治日本

かくして尊王思想の宗教的イデオロギーによって江戸幕府は倒れるわけですが、その影響はそれに止まりません。
キリスト教の予定説を信じれば、その人のエートスは完全に変わる。内面も外面もすべて変わると述べましたが、尊王思想を信じると同じようにエートスが完全に変わってしまいます。尊王思想を信じたのは、主として武士たちですが、彼らもまたまったく別人のようになってしまった。
このことが理解できなければ、明治維新の意味も分かりません。
明治維新の特徴は、何と言っても、武士が起こした革命なのに、その革命後に武士が自分の特権をすべて捨ててしまった点にあります。廃藩置県に始まって廃刀令に至るまで、明治の新政府は次々と江戸時代に持っていた武士の特権を否定していった。こんな革命は、古今東西、どこにもありません。
なぜ、そんなことが可能であったか。
それは要するにエートスが変わってしまったからです。
というのも、尊王思想を信じる人たちにとって倒幕運動とは「神の国」を作るためのものであった
江戸幕府を倒したのは、中世ヨーロッパの領主たちのように自分の既得権益を守るためではなかった。すべては、天皇を中心とする新国家を作るためにある。したがって、徳川時代までの悪い伝統はすべてぶち壊しても古代から伝わる日本の「正しい伝統」を復活すべきであると考えた。つまり、伝統主義を否定した。
※伝統主義を否定した:こうした明治維新の思想的背景については、平泉澄(ひらいずみきよし)『物語日本史』(全3巻、講談社学術文庫)が参考になる。
明治4年に行なわれた廃藩置県を見て、英国の駐日公使だったパークスはこう言ったと言われます。
「日本の天皇は神である」
これはまさしく、明治維新の本質を表わしている言葉です。
ヨーロッパの歴史において、王権神授説が猛威を振るっていた時代においても、ここまでの大胆な社会変革は行なわれませんでした。国王が領主の土地を取り上げる。そんなことを考えただけで、その国王は恐ろしさに震え上がったことでしょう。
現にイギリスを見てごらんなさい。今でもイギリスでは、中世の貴族の称号が残っています。中世の領主は今でも生き残っているのです。
かたやフランスでは、フランス革命のときに領主から土地が奪われました。しかし、そのためにはたくさんの血が流され、国内では内戦が起こった。
しかるに明治の日本ではどうだったか。日本の藩主は、ヨーロッパの領主とは違いますが、それでも特権や既得権益を奪うという点では同じです。普通なら内戦が起こって当然です。
しかし、廃藩置県は一滴の血を流すことなく完了した。
こんな奇蹟がなぜ可能になったのか。それはパークスがいみじくも漏らしたように、当時の武士たちの多くが天皇を神であると信じていたからです。
明治維新によって、日本は文字どおり生まれ変わるわけですが、これほどの伝統主義否定が可能だったのは、ひとえに尊王思想を武士たちが信じていたからに他なりません。

「憲法の奥義」を知っていた伊藤博文

かくして明治維新という大革命は、尊王思想のイデオロギーによって成功したわけですが、その尊王思想を信じていたのは、人口のほんの一部を占めるにすぎない武士たちの、そのまた一部だけでした。
多くの庶民は尊王思想など、ほとんど関係がなかった。すでに述べたように、農民も町人も相変わらず伝統主義の世界で暮らしていました。
その伝統主義をぶち壊し、日本を近代資本主義国家にするために、尊王思想を「天皇教」という形に変えたのが、かの伊藤博文です。
伊藤はこの時代にあって、近代ヨーロッパ憲法思想の根幹となっているのが、他ならぬキリスト教であることを見抜いていた。そして日本が近代国家になるにも、同じように宗教の力が必要であることを知っていたのです。
そのことを明確に述べているのが、明治24年(1888)6月に行なわれた彼の演説です。
ご承知のとおり、明治13年、高まる自由民権運動に応えて、明治政府は国会の設置と憲法の制定を約束します。
そこで伊藤博文が憲法草案の策定のためにヨーロッパに派遣されるわけですが、その帝国憲法草案がようやく作られたことを受けて、このとき、枢密院でその審議が行なわれることになった。
審議の冒頭、伊藤は次のような趣旨の演説を行なっています。
「ヨーロッパにおける憲法は、いずれも歴史の中で作られてきたものであって、どれも一朝一夕にできたものではない。しかるに、我が国ではそうした歴史抜きで憲法を作らなければならない。ゆえに、この憲法を制定するに当たっては、まず我が国の「機軸」を定めなければならない。……ヨーロッパにおいて、その『機軸』となったものは宗教である。ところが、日本においては『機軸」となるべき宗教がどこにもない」
つまり、伊藤はヨーロッパの憲法がすべてキリスト教の伝統から生まれたことがちゃんと分かっていた。そして、キリスト教のような伝統がないところに憲法を作っても、何の意味もないことも知っていたのです。伊藤は憲法の奥義がちゃんと分かっていた。

皇室こそ憲法政治のカギ

戦前の憲法、つまり大日本帝国憲法はプロイセン憲法を真似したものだと、よく言われます。
しかし、憲法を作った当人の伊藤に言わせれば「我が輩の仕事は、そんな簡単なものではない」と怒るに違いありません。
伊藤がヨーロッパに憲法研究に行ったのは、わずか半年ほどですが、その短い時間で彼は「宗教なきところに、憲法はありえない」という事実を悟った。そして憲法を作る前に、憲法の「機軸」となる宗教を作らなければならないことも分かった。宗教なきところに憲法なんて作っても、それはかえって混乱を生じるばかりだと思ったのです。
伊藤博文は長州藩の下級武士の家に生まれたのですから、高等教育を受けているわけではない。いちおう吉田松陰の松下村塾に学んだことになっているが、それもわずかな時間です。また幕末に長州藩の留学生としてイギリスに渡っていますが、それもほんのちょっと。彼の青春時代は、ほぼすべて倒幕運動で費やされたと言ってもいい。
ところが、本当の人物というのは教育を受けていなくとも、真理を見抜く力がある。伊藤はその典型です。
さて、その伊藤は憲法を作るに当たって、宗教という機軸が必要だということに思い至ったわけですが、その機軸となるべき宗教とは何か。
伊藤はその答えを、この枢密院会議で明確に述べています。
「我が国にありて機軸となすべきは、ひとり皇室あるのみ」
すなわち、天皇教こそが近代日本を作るための機軸だというわけです。
彼はこの演説で明確に「既存の仏教や神道、あるいは儒教は、日本の新しい憲法の土台にはなりえない」と述べています。
これはまことに正しい指摘です。
江戸時代、仏教はすでに葬式仏教になっていますし、伝統的な神道にはキリスト教のような「神学」はありません。さらに中国の儒教は、日本では宗教性は抜けてしまっています。したがって、どうやっても既成の宗教では間に合わない。
そこで伊藤は江戸幕末を風靡した尊王思想を、新政府の宗教にすることで日本を近代化、つまりデモクラシー化、資本主義化するというアイデアを思い付いた。
この伊藤のもくろみは、見事に的中しました。
すでに述べたように、教育勅語などを通じて、日本人は挙げて「天皇の赤子」という意識を持つようになりました。近代日本人は西洋人と同じように、「日本人は平等である」と信じるようになった。かくして日本は近代国家への道を歩むようになったというわけです。

明治憲法は誰との契約か

さて、憲法の中心に天皇教を置くというのは、日本人に近代精神を植え付けるうえで、たいへんな功績があったわけですが、しかし、そこに欠点がなかったわけではない。というのも、西洋の憲法とはそもそも国王の権力を縛るためのもの。権力者と国民との契約です。ところが日本においては、その君主が「神である」とされた。現人神である君主をどうやって縛ればいいかという大問題が生じてくる。
キリスト教の神を見れば分かるように、本来、神とはすべてから自由な存在です。どんなものにも縛られないのが神なのに、その神に憲法を守らせることができるのか。
かといって、神は自由であるのだから、天皇は憲法に縛られないとしてしまったら、何のための憲法かという話になる。それではヨーロッパの絶対君主と同じですから、とうていデモクラシー国家とは認められない。
そこで、明治憲法では他の国の憲法に見られない、特殊な形の契約が行なわれた。
そのことは明治憲法発布の際に出された「告文(こうもん)」という、文書に現われています。この「告文」とは、天皇が先祖である皇祖皇宗・皇考の神霊に対する誓約書
皇祖とは天照大神、皇宗とは天照大神直系の神々と歴代の天皇、そして皇考とは天皇の父、つまり孝明天皇のことを指します。
すなわち、明治天皇は「この憲法を守ります」という宣言を、国民に対してなさったのではない。皇室のご先祖様に誓ったことだから守る。憲法を破れば、ご先祖様に申し訳ないというわけです。
しかし、この結果、帝国憲法は天皇と人民との契約ではなく、明治天皇と神々との契約になってしまったのも事実です。
そのため、日本人の意識に「憲法とは国家を縛るものである」という意識がとうとう定着しなかった。
憲法が大切なのは、それが権力を規制するためのものだとは思わずに、「天皇様が守れとおっしゃったから、大切なものだ」という意識しか生まれなかった。かといって、この時期の日本ではどこをどうやっても、天皇と人民との契約なんてものは成立しょうもありません。国民にそれだけの意識がないのだから、それを恨んでもしかたがないことではあります。
しかし、これが結果として、後になって響いてきた。
昭和になると、天皇の権威に名を借りて軍部が専横を始め、ついに日本は暴走してしまうことになった。
こうしたことを許してしまったのも、結局は憲法が天皇と人民の契約になっていなかったことに起因する。もし、日本国民に「憲法とは人民との契約である」という意識があれば、軍部の暴走、権力の横暴は許さないということになったはずだからです。

拒否権が立憲君主制の分かれ道

さて、そこで明治憲法との絡みで、どうしても触れておかなければならないことがある。さっき述べたように、昭和になると軍部が明治憲法を悪用して、暴走をしはじめた。その結果、日本は敗戦を迎えることになったわけですが、これについて「天皇にも戦争の責任があったのではないか」と考える人々がいます。つまり、戦前日本の行動に関しては、国家元首である天皇にも多少なりとも政治責任があるはずだというわけです。
しかし、最初に結論を言ってしまえば、こういうことを言う人は憲法の何たるかがまったく分かっていない。デモクラシーとは何かが分かっていないから、こういう暴論が出てくる。
そもそも戦前の日本のような国家を、政治学では「立憲君主国」と呼びます。すなわち憲法によって君主の権力が制限を受けているのが、立憲君主国です。
その代表的な例が、議会制民主主義の本家本元であるイギリスです。イギリスにおいては、君主は国王ですが、その国王の権力は完全に議会によって制限されていて、実際には何の決定権もない。「君臨すれども統治せず」とは、そのことを指した言葉です。
さて、そこで立憲君主国とそうでない国の見分け方を伝授しましょう。
君主がいて、憲法があれば、立憲君主国であるかといえば、そうではありません。憲法は生き物なのですから、それが実際に作動していなければ、たとえ立派な憲法があっても、その国は立憲君主国とは言えない。憲法はただの建前で、君主が実質的に統治を行なっていれば、その国は要するに専制君主国です。
では、君主が立憲君主か、専制君主であるかを見分けるポイントはどこにあるか。
その答えは「拒否権」です。つまり、政府が決定したことに対して、君主が拒否権を発動できるのであれば、その国は立憲君主国ではありません。逆に、君主が政府の決定にすべて従うのであれば、その国は立派な立憲君主国。
すでにご承知のとおり、イギリスの憲法は慣習法で、日本のような成文憲法ではありません。したがって、イギリス憲法がいつ成立したかについては、いろんな議論がある。しかし、一番有力な説は1707年だと言われています。
その根拠は何かといえば、この拒否権です。
つまり、それ以前はイギリスでも国王が議会の決定に対して、拒否権を発動したことがあった。ところが、1707年、時のアン女王が拒否権を発動したのを最後に、国王が拒否権を発動した例はなくなった。だから、憲法が成立したのだというわけです。
ですから、正確に言えば、イギリス憲法が成立したのは「1707年以降の、どこかの時点」ということになるわけですが、これ以後、どんなことがあっても国王は政府の決定にサインしなければならないことになった。
イギリスのジャーナリスト、パジョットはその著書「英国憲政史」の中で、「議会が女王に死刑宣告文を可決したら、女王は黙ってそれにサインしなければならないであろう」と言っています。立憲君主とは、かくも無力な存在であるというわけです。

天皇に拒否権はあったか

明治憲法は、日本が立憲君主国として機能していたかを考える上で重要だ。結論から言うと、明治憲法は立派に機能していた。日本は、イギリスと同じように立憲君主国だった。大日本帝国憲法の第56条は、大臣が天皇を輔弼し、その責任を負うと規定している。輔弼は、天子や君主の行政を助けることを意味する。この解釈により、天皇が最終決定権を持っているとも考えられるが、憲法では慣習が最も重要だ。実際に拒否権が行使されたかが問題だったが、明治憲法ではこの点が明確だった。内閣の決定に対して、天皇は反対できない。本心が反対でも、裁可するしかない。しかし、もし天皇が反対を言い出したら、その発言は無視される。現人神であろうと無視するのは、憲法政治を行うために不可欠で、これが明治以来の伝統だ。

「これは朕の戦争ではない!」

というのも、実際に明治憲法が作られた当初、そうした「事件」が起こった。それは明治27年に始まった日清戦争のときです。
この日清戦争の経緯は話せば長くなるから省略するとして、このとき日本の外務省や軍部は断固とし日清戦争を行なうつもりであった。ところが、これに対して明治天皇が反対なさった。要するに、いきなり戦争に打って出るのではなく、もう少し外交交渉を行なってみてはどうかということです。
ところが、それでも政府は明治天皇のご意向など、まったく聞きもしない。戦争やむなしとして、どんどん開戦の準備を進めていきます。
こうして同年7月25日、日本はついに清軍と交戦することになるわけですが、牙山において日本陸軍が清軍を攻撃しようとしている情報を得た明治天皇は、大いに怒って伊藤首相に攻撃中止命令を出せと強い調子で命じられた。時に明治天皇は御年44歳、その怒りたるや想像にあまりあります。
これには、さすがの伊藤も恐れおののいて、攻撃中止命令を参謀本部と外相に伝えた。
ところが、これに対して陸奥外相は天皇みずからの命令を握りつぶして、発信させなかった。かくして日本陸軍は一斉に清軍を攻撃し、明治天皇の命令は完全に無視されたというわけです。
----明治天皇はそれで我慢なさったんですか。
お怒りになったとも!
本来なら、開戦となったことを皇祖天照大神と皇考・孝明天皇に報告するため、御陵に勅使を派遣される予定だったのですが、「これは朕の戦争ではない」と言って、勅使を出されなかったほどです。
しかし、すでに明治憲法発布されていて、日本は立憲国家になったのですから、天皇の意志よりも政府の意志が優先する。したがって、明治天皇がいかに反対なさっても、政府が開戦決定をしたのであったら、天皇もそれを裁可なさる他ない。
実際、この開戦の直後、伊藤内閣は閣議で対清開戦を正式決定するのですが、この閣議決定を明治天皇は裁可なされた。いや、裁可なさるしかなかったと言うべきか。
日清戦争の開戦の経緯については、かねてから議論があるところですが、こと憲法に関するかぎり、この前例によって大日本帝国憲法第5条の解釈は確定したと言えます。イギリス憲法のひそみに倣って言うならば、「明治憲法はこの年、実質的に成立した」ということになるでしょう。

天皇に戦争責任はない

こうした事実の積み重ねがあって、明治の憲法は近代憲法として見事に働くことになった。天皇は立憲君主であるということは、戦前の憲法学においても定説とされていました。また、明治・大正・昭和の歴代天皇はいずれも、立憲君主として立派に振る舞われて、拒否権を発動なさったことはなかった。
したがって、憲法という観点から見れば「天皇の戦争責任」などあるわけがない。日本においては、戦前も戦後も政治責任はすべて内閣にあった。天皇はただ、それを裁可なさるしかないのです。
「もし、昭和天皇が日米開戦を拒否してくださったら敗戦は避けられた」と言う人がいますが、しかし、そんなことをした瞬間、日本の憲法政治は崩壊し、日本は絶対君主国に戻ることになる。天皇独裁の国になってしまう。
それは、デモクラシーなんか必要ないと言っているのと変わらないのです。
-----「困ったときの天皇頼み」では駄目だということですね。
たしかにそのとおりです。
しかし、実際の歴史を見ると、近代日本ではどうしても「天皇頼み」にならざるをえない瞬間がニ回だけあった。それは2.26事件のときと、終戦のご聖断のときです。
2.26事件は昭和11年、日本陸軍の青年将校を中心に行なわれたクーデターですが、このとき首都・東京は反乱軍に占領され、政府の機能が事実上ストップした。首相が暗殺されたという情報までが流れたくらいで、政府はまったく動かなくなった。
しかも、このクーデターに対して、当時の軍首脳は青年将校を支持すべきか、それとも反乱部隊として処分すべきかの判断に迷って何もできなかった。
そこで昭和天皇がみずから「これは反乱軍である」と決定なさったので、ようやく軍部も決断し、件が終息したという経緯があります。
さて、このとき昭和天皇はみずから政治決断をなさったわけですが、はたしてこれは憲法の精神に照らし合わせたときに、どう判断されるべきか。
先ほども述べたように、このとき政府の機能は完全にストップしている。天皇を輔弼するべき内閣が実質上、なくなったに等しい。したがって、この場合は言うなれば、緊急避難の措置であると見るべきです。
「さらにニ回目は、第二次大戦における終戦を決めた御前会議です。
昭和天皇は居並ぶ重臣たちに向かって、ポツダム宣言受諾の聖断を下されたわけですが、このときもまた政府は事実上、機能していなかった。
というのも、このとき日本の首脳たちは何度も会議を繰り返したあげく、終戦か戦争継続かの最終決断を下せなかった。そのため、政府みずから天皇の判断を求めたわけで、すすんで天皇が憲法を破ったのではありません。これもまた政府が実質的に機能停止になったわけで、非常事態の措置と見るべきでしょう。
したがって、この二つの例を持ち出して、戦前の日本で天皇に政治責任があったとするのは、どう見ても暴論です。戦前の日本はあくまでも立憲君主国家であったのです。

藩閥政府VS議会

明治憲法の成立で日本は立憲君主国になったが、本当のデモクラシーかどうかは別問題だ。憲法はデモクラシーの条件だが、それだけでは足りない。初期の政治は藩閥、特に薩長によって行われ、議会は力を持てなかった。しかし、日本の人権思想と天皇教の影響で、徐々にデモクラシーが育った。
特に大正2年(1913年)の尾崎萼堂(おざきがくどう)による桂内閣弾劾演説は、日本デモクラシーの重要な転機だった。薩長藩閥の強い権力にもかかわらず、議会は言論で抵抗し、ついには内閣を倒すまでに至った。これは、日本のデモクラシーが成熟した証だ。戦前の日本は、しっかりとしたデモクラシーを築いていた。

※尾崎萼堂(1858-1954):本名・行雄。慶応義塾中退後、新聞記者となる。1890年に行なわれた第一回総選挙以来、連続25回当選。桂内閣打倒後は普通選挙運動に参加、治安維持法や翼賛選挙に反対した。戦時下には不敬罪で告訴されるも無罪。1953年に初めて落選して引退。「憲政の神様」と言われる。

首相を殺した大演説

さて、その尾崎萼堂の弾劾演説とはどんなものであったか。
時の首相・桂太郎といえば、その権勢たるや他に並ぶものなし。なにしろ、桂内閣の下、日本は日露戦争で大国ロシアに勝利を収め、韓国をも併合した。桂太郎は自分こそ日本を救った男であると思っている。
ところが、この桂に噛みついたのが帝国議会です。桂はおのれの権力を笠に着て、やたらに勅令を連発し、国民に無用の圧力を加えているという非難が高まった。
こうして登場したのが立憲政友会の尾崎萼堂です。尾崎は第30回帝国議会の壇上に立ち、弁論をもって桂首相を指弾した。
すなわち桂首相は「つねに口を開けばただちに忠愛を唱え、あたかも忠君愛国は自分の一手専売のごとく」唱えている。しかし、その実際はどうか。天皇の名の下に、私利私欲の政治を行なっているにすぎない。そもそも首相とは、憲法の規定にあるごとく、天皇の輔弼の任に当たるべき人物であるのだから、一挙一動が天皇の手本となるくらいでなければならない。ところが桂には、そんな立派なところは一つもないではないか。
----そこまで言われて、桂太郎はどうしたんですか。
尾崎の演説に議会は満場総立ちとなって喝采を送った。そのようすに、さしもの桂太郎も顔面蒼白となった。公的な場で人間性まで罵倒されたのですから、当然です。
この尾崎の演説が火を点けた形になって、議会の外でも桂内閣打倒運動が行なわれた。これを見て、桂太郎もついに諦めた。総辞職したのち、桂は悶死してしまった。
----演説を聞いて、悶死!
議会の演説とは、そのくらいのパワーがある。
それに比べたら、今時の国会の演説なんて演説のうちにも入らない。
この当時の帝国議会には、尾崎萼堂以外にも演説の名手がたくさんいた。犬養木堂、永井柳太郎、浜口雄幸、鶴見祐輔……彼らの演説が本にまとめられて、市販されていたくらいです。代議士の演説集が販売され、それがどれも大ベストセラーになったなんて、あなたには想像もできないでしょう。
政治家が書いた本なんて、今じゃ猫もまたぐと言われているくらいですからねえ。

「彼等は常に口を開けば直ちに『忠愛』を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へて居りますが、その為す所を見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである(拍手おこる)。彼等は、玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか。此の如きことをすればこそ、身既に内府に入って未だ何も為さざるに当りて、既に天下の物情騒然として却々静まらない。…又、その内閣総理大臣の地位に立って然る後政党の組織に着手するといふが如きも、彼の一輩が如何に我憲法を軽く視、其精神のある所を理解せないかの一斑である」

桂内閣弾劾演説

大正デモクラシーは日本の誇り

さて、この尾崎演説の重要なところは、議会での弁論によって実際に内閣が倒れたという点にあります。前にイギリスの議会政治はディズレーリによって完成したという話を紹介しました。ディズレーリは弁論の力だけで、時のピール内閣を辞任に追い込んだ。このときを以て、イギリスの議会政治はついに一人前になったわけですが、尾崎演説はまさにそれと同じです。すなわち、この桂内閣の辞職こそが「大正デモクラシー」の始まりだと言えます。
実際、これからおよそ五年後に「平民宰相」と言われた原敬が総理大臣になった。
それまでの首相はほとんど藩閥の出身であったのが、このとき初めて平民の衆議院議員が総理大臣に選ばれたわけです。
すでに述べてきたように、デモクラシーとは一朝一夕に誕生するものではありません。長年にわたる権力との戦いを経て、人民が勝ち取るものがデモクラシーです。その意味において、戦前の帝国議会はたしかにこの時期、デモクラシーを勝ち取ることに成功した。
天皇の前の平等という、ヨーロッパでは考えられない前提から始まった日本の憲法政治も、自力でここまで進化したのです。これは奇蹟と言ってもいい。
----デモクラシーは「優曇華の花」、ですものねえ。
だから、このことを日本人はもっと誇りに思うべきではないでしょうか。つい半世紀前まで身分制があった日本が、誰からの力も借りずにここまで来た。これは今から考えても、恐るべきことと言わざるをえない。
----水を差すようで申し訳ないですが、でもその後、日本は軍国主義になってしまうわけですよね。
たしかに、それは動かしがたい事実です。
しかし、このとき日本のデモクラシーはけっして簡単に軍部に道を譲ったわけではありません。その間にも、さまざまな戦いが行なわれた。
では、日本の議会政治はどのように死に絶えたのか――――それをつぶさに見ていくことにしましょう。

第12章:角栄死して、憲法も死んだ(401)

デモクラシーを食い殺す怪物

「法の前の平等」ならぬ「天皇の前の平等」、そして憲法が「人民との契約」ではなく、「皇祖・皇考との契約」として始まった近代日本も、ようやく大正時代になって独自のデモクラシーを持つようになりました。
当時の人々は、天皇中心の日本では「民主主義」と言うのは恐れ多いとして「民本主義」という言葉を使っていましたが、国民の代表たる議会が権力を縛るという意味では、民本主義は紛れもなくデモクラシーであったわけです。
ところが、その輝かしき大正デモクラシーも昭和に入ると急速に失われていきます。
デモクラシーとの関連で考えた場合、大きな転機となったのは昭和11年(1936)2月26日に起こった2.26事件でありましょう。
このクーデターは、昭和天皇の緊急避難的な措置によって、幸いにして未遂で終わったわけですが、この事件を見て、世間は軍部批判を差し控えるようになりました。ことにその傾向の強かったのは、マスコミ、つまり新聞です。日本のマスコミ人たちは、軍を批判すれば、どんな目に遭うか分からないと自己規制を始めたのです。
また世論の中にも、軍人の「憂国の情」を褒め讃える声は強かった。すでに2.26事件の6年あまり前、大恐慌は始まっています。それ以前から金融恐慌によって不景気に突入していた日本経済は、大恐慌によってさらに大きな打撃を受けました。
景気はどんどん悪くなり、東北の農村などでは娘たちが家を救うために身売りをしなければならなくなった。世の中には失業者が溢れています。
もちろん、当時の日本にはケインズ経済学もなければ、ヒトラーのような天才もいない。政府も議会も、この空前の大不況の前になすすべもない。ただただ議論に議論を重ねるばかりであった。
こうした状況を見て、もはや日本の政治を議員どもに任せておけないと考えたのが、彼ら軍人でありました。選挙区におもねり、献金してくれる企業の顔色をうかがう代議士では頼りにならない。われら軍人こそが、この日本の苦境を救うしかないと考えた。
----そこで軍部独裁を始めようとしたわけですね。
いや、デモクラシーは衆愚政治だと考える連中はどの時代にもいる。言いたい奴には言わせておけばよい。軍人がいかに憂国の情を持とうとも、それがただの「遠吠え」で終わっていれば、それで問題はなかった。
ところが昭和の日本では、この軍人たちを支持する人々が増えてきた。非効率な議会政治はコリゴリだ。軍人さんのほうが、代議士よりも日本のことを心配している。彼らに政治を任せたらどうだと考える人たちが国民の中に増えてきた。こちらのほうが大問題です。
すでにボナパルティズム、ナチズムのところで述べたように、デモクラシーを殺すのは独裁者にあらず。デモクラシーを食い殺すのは、デモクラシー自身です。
大衆が「デモクラシーなんて要らない」と言い出したら、もうどうにもならない。あとは独裁者が現われるのを待つばかり。
それと同じことが、戦前の日本で起きた。日本のデモクラシーを殺したのは軍部でもなければ、ましてや憲法ではない。日本人みずからがデモクラシーを殺したのです。

軍部と戦った代議士たち

あらためて言うまでもなく、議会とは人民の代表たる議員が集まって、自由に討議をする場所です。
議員の力の源は、他でもない人民にある。ところが、その人民が「もうデモクラシーは要らない」と考えるようになった。
この一大事に、はたして帝国議会はどうしたか。もう駄目だと言って、ただちに軍部に道を譲ったでしょうか。
そうでは、ありません。「議場こそが自由の最後の牙城」と戦った人々がおりました。
その代表的な例が、いわゆる「腹切り問答」の浜田国松代議士と、「反軍演説」の斎藤隆夫代議士です。彼らのエピソードは日本憲政史上、まことに有名な話ですが、あらためてここで述べたいと思います。
政友会の浜田国松代議士は2.26事件の翌年1月に開かれた第70回帝国議会において、寺内寿一陸相に質問、いや詰問した。すなわち、最近の軍部を見るに、あなたがたは独裁強化の道をひたひたと歩んでいるのではないかというわけです。
この勇気ある浜田代議士の演説には、議場に「しかり」「ヒヤヒヤ」という賛成の声が上がった。
浜田の質問を聞いて立ち上がった寺内陸相は、軍部独裁など考えていないと否定したあとで、こう言った。
「ときに、先刻来の浜田君の演説中、軍人に対していささか侮辱するかのごとき言説があったのは遺憾である」
これに噛みついたのが浜田です。
「自分の言説のどこに軍隊を侮辱した箇所があるか。いやしくも国民を代表している私が、不当な喧嘩を吹っかけられては後へは引けぬ。どこが軍を侮辱したのか、事実を挙げよ」
そこでふたたび登壇した寺内陸相は、こう弁解した。
「侮辱したとは言っていない。ただ軍を侮辱するかのような言辞は、軍民一致の精神を阻害すると言いたかっただけである」
そこで浜田は、
「侮辱したと最初に言っておきながら、こんどは侮辱に当たるような疑いがあるとトボケてきた。武士は古来、名誉を重んじる。事実も根拠もなくして他人の名誉を傷つけるのは許しがたい」
と言ったあとに、さらにこう畳みかけた。
速記録を調べて、小生の発言に軍を侮辱した言葉があるかどうか探してほしい。あったら割腹して君に謝罪する。なかったら、君が割腹せよ!

言論の自由は議会から生まれた

これが世に有名な「腹切り問答」なのですが、この浜田の発言で議場は怒号と興奮のために、大混乱になった。もちろん陸軍は怒りました。陸軍は議会を解散するか、浜田代議士を政友会から除名させろと広田弘毅首相に詰め寄った。この処置に困った広田内閣はついに総辞職してしまいます。
さて、この腹切り問答において重要なのは、まず第一に、どれだけ陸軍が議会に対して圧力をかけようとしても、当時の議会はビクともしなかったという点です。浜田代議士はいかなる懲罰も受けなかった。ここがポイントです。
議会のそもそもの役割は権力の横暴に抵抗することにある。議会の中で思うがままに権力批判をするのが、議員の仕事です。しかし、権力の側から見れば、好き放題に批判を行なう議員たちが憎らしくてしかたがない。
これは議会政治の本家本元であるイギリスでも同じことです。たとえば16世紀半ばに即位したエリザベス女王は、一生を独身で貫き「処女王」と言われた人ですが、彼女に対して議員たちは遠慮がなかった。「女王陛下は、いつ結婚なさるのですか」とか「陛下にはボーイ・フレンドはおられるのでしょうか」としょっちゅう聞く。
だがエリザベス女王は稀代の名君であったから、彼女はそんなことを言った議員を責めなかった。
議員たちが心の底では女王を敬愛していることを知っていたからです。
しかし、そうした蜜月状態がいつまでも続くわけがない。エリザベス女王の二代後に即位したチャールズ1世と議会との折り合いは悪く、つねに議会は国王と対立した。そこで怒ったチャールズ1世はとうとう議会に国王軍を投入した。そこで立ち上がったのが、かのオリヴァー・クロムウェルでした。
クロムウェルはピューリタン革命を起こし、ついにはチャールズの首をはねてしまったわけですが、その「国王殺し」のクロムウェル像が、今でもイギリスの国会議事堂正面に建っています。それというのも、イギリスの議会政治史においては、クロムウェルこそ議会内での言論の自由を守り抜いた大恩人だからなのです。
デモクラシーの歴史において、「言論の自由」は議会から始まったもの。
議会において議員が何を言おうと、王といえども処罰することは許さない。これこそが言論の自由の始まりなのです。
実際、明治憲法の第30条にも、日本国憲法の第5条にも、議員が議会内で行なった発言に対して院外で責任を問わないという規定がある。議員の言論の自由こそ、デモクラシーの砦と言うべきものなのです。
さて、その観点から見れば、戦前日本の議会制度は合格か不合格か。
その答えは言うまでもないでしょう。
前にご紹介した尾崎萼堂は桂首相の人格までを否定しましたが、それでも彼は何の処罰も受けなかった。この浜田国松においても、しかりです。
明治の藩閥、そして昭和の軍閥は巨大な権力を有していましたが、その力をもってしても議員を処罰できなかった。つまり、日本においても議院内の言論の自由は立派に守られていたわけです。

かくして議会は「自殺」した

しかし、残念ながら日本の議会が健全さを保っていられたのも、この腹切り問答の時代までの話でした。
昭和15年(1940)2月に開かれた第一5回帝国議会において、民政党から代表質問に立った斎藤隆夫代議士は、かの「反軍演説」をします。
腹切り問答のあった昭和22年(1937)7月7日、盧溝橋事件に始まった支那事変はすでに足かけ4年を迎えていましたが、戦線は拡大する一方でいっこうに終わる見込みはない。そこで斎藤は、この「事変」の目的を政府に問い質した。
※支那事変:今日では「日中戦争」と言う人もあるが、当時の呼称は支那事変である。この時期の大陸には統一政権がなく、「清」や「中国」といった国号は使えなかったので、地理的名称である「支那」という語が使われた。「日中戦争」では、そうした歴史状況が分からなくなる。

すなわち、事変による戦死者は10万人を超え、その数倍の負傷者を出している。軍はこの事変を「聖戦」と呼んでいるようだが、そもそも戦争に正しいも悪いもない。問題なのは、この戦争によって、日本は何を得るのかということである。ところが政府は公式声明において「支那の主権を尊重し、領土や賠償を要求しない」と言っている。それでは、いったいここまで浪費した軍費や損害をどのようにして埋めるつもりなのかというわけです。
この斎藤代議士の質問は、理路整然とした立派な内容です。
事実、これを聞いた畑俊六陸相でさえ「政治家というものは、なかなか、うまいこと急所を突いてくる」と漏らしたほどだった。
ところが、そこで重大なことが起こりました。
この斎藤質問に対する迫害が、軍部ではなく、議会の同僚たちから来たのです。すなわち斎藤代議士の発言は「聖戦目的を侮辱するものである」として、衆議院本会議で彼の除名が決定し、彼の発言そのものも議事録から削除された。そればかりか議会では、軍におべっかを使って「聖戦貫徹に関する決議案」まで可決してしまったのですから、恐れ入るではありませんか。
言論の自由こそが議会の砦であるはずなのに、その砦を議会みずからが明け渡した。これはまさしく「議会の自殺」です。
ピューリタン革命を見ればただちに分かることですが、権力者からどんなに弾圧を受け、議会が解散させられようとも、その議会はやがて不死鳥のように復活する。議会には、それだけの力がある。しかし、議会みずから死を選んでしまったら、これはどうしようもない。2度と復活はしない。
斎藤隆夫が除名されたのは昭和15年(1940)3月7日です。
この日、戦前日本のデモクラシーは死に、明治憲法も死んだ。
日本の命数は、まさしくこの日に尽きたと言ってもいいでしょう。

何が軍部の横暴を許したのか

戦前の日本がどうして、軍部の跳梁跋扈を許したのか。そして、なぜ軍部によって戦争に引きずり込まれてしまったのか。その原因については、さまざまなことが書かれていますが、その中でもしばしば言われるのが、明治憲法や当時の制度に致命的な欠陥があったという説です。
すなわち大日本帝国憲法の第一条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という規定があり、戦前の軍隊は天皇に直属することになっていました。そのため、政府が軍隊の作戦行動に干渉するのは憲法違反、当時の言葉で言えば「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」であるとされ、軍の独断専行を許したというわけです。
あるいは軍の暴走の原因を「軍部大臣現役制」に求める考えもあります。
軍部大臣現役制というのは、陸軍大臣、海軍大臣になれるのは、現役の大将・中将に限るという規定です。
この規定は1913年、山本権兵衛内閣によっていったん廃止されるのですが、先ほどの浜田国松の「腹切り問答」が行なわれた広田弘毅内閣のときに復活します。
この現役制の規定を陸軍は最大限に活用した。すなわち陸軍の言うことを聞かない人物が首相候補になった場合、陸軍が「この首相では陸軍大臣の引き受け手がいない」と宣告する。陸軍大臣がいなければ組閣は不可能ですから、この結果、その首相候補は任命を辞退するしかないというわけです。
その結果、陸軍は事実上、内閣を支配することができるようになりました。現役制を利用することによって、軍は自分の望む総理大臣を選べるようになった。腹切り問答の昭和22年から始まった支那事変でも、また昭和16年から始まった対米戦争でも、つねに軍の意向が最優先して、日本は政治不在の国になったのは、この現役制にあるというわけです。
さて、統帥権にしても、軍部大臣現役制にしても、たしかにそれらは傾聴に値する重要な問題ではあります。しかし、こうしたことが戦前の日本にとって、真に致命的なことであったかと言えば、疑問符を付けざるをえません。
なぜなら、欠陥のない憲法、欠陥のない制度など、どこの国にだって、ありはしない。憲法や制度は天からの授かりものではありません。すべて人間が作ったものである以上、欠陥があるのは当然のことではありませんか。
どんなに知恵を絞って抜け穴をなくしたとしても、やがて、その法律や制度を作った人間より悪賢い奴が出てくる。法の抜け穴、制度の抜け穴を悪用する連中が出てくるのです。もし憲法や制度の欠陥が、その国を自動的に独裁に導くのであれば、今ごろ地球上はみな独裁国だらけになっていて不思議はない。そうではありませんか。

議会が独裁者を作る

議会は民主主義を守るための鍵である。法や制度の欠陥があっても、議会がそれを監視し、権力の暴走を防ぐ役割を果たす。しかし、議会がその役割を放棄すると、権力の暴走が起こり、独裁者が生まれる。ワイマール共和国の例を見ても、ヒトラーが独裁者になったのは議会が全権委任法を作ったからだ。イギリスやアメリカの議会は権力を厳しく監視して民主主義を守ってきた。対照的に、戦前の日本では、議会はその役割を放棄し、軍部の横暴を許してしまった。しかし、議会が戦っていれば、運命は変えられたかもしれない。議会の存在とその行動は、国の運命を大きく左右する。

「越境将軍」の敗北

斎藤隆夫を除名したとき、もし議会に心ある議員が多数派を占めていたら、内閣に不信任案を出し、可決すれば総選挙になる。その総選挙で斎藤を含む批判派が勝てば、軍の横暴に対する国民の意志が示される。軍や内閣も議会の意志を尊重せざるを得ない。軍が懲りずに行動を続ければ、何度でも総選挙を行い、民意を示せばいい。憲法の歴史では、これに逆らう権力者はいない。
例えば、3年前の昭和22年、林銑十郎陸軍大将が総理になった。彼は「越境将軍」と呼ばれ、陸軍に傾倒した政策を取った。しかし、彼が議会を解散し総選挙を行っても、議員の顔ぶれは変わらず、林はわずか4ヶ月で辞職した。これは軍が送り込んだ首相でさえ選挙結果に勝てなかったことを示し、憲法と議会政治は前例の積み重ねで成り立っている。この林内閣の前例がある以上、これを利用しない手はない。選挙は予測が難しく、軍部もそれを恐れるべきだ。過去にも軍部出身の総理が選挙で辞職したことがあるからだ。

帝国軍人すら恐れた「伝家の宝刀」

議会が本当の力を持っていたのは、予算案を否決する能力にあった。天皇直属の軍隊も、議会が予算を承認しなければ、戦争も軍拡も不可能だった。これが軍の急所で、議会と政府は度々、軍事予算で対立していた。例えば、日清戦争直前、政府が提出した新しい軍艦の予算案が議会に否決され、藩閥政府でも予算をひっくり返すことはできなかった。軍部はこれをよく理解していて、予算案を作る大蔵省の主計局の役人に対して徹底的に接待をしていた。福田赳夫が大蔵省主計局のエリートとして予算案を作っていた時代、彼が中国大陸で陸軍を視察した際、軍人たちは彼が釣りが好きと言ったことで、軍用列車を川で緊急停止させて接待した。
議会が予算案を否決したり、軍事予算を削減すれば、戦争継続や軍拡ができないため、軍にとっては議会の予算決定権が本当の恐怖だった。議会政治の歴史では、議会は国王の税金を承認するために作られ、予算の承認が議会の特権だった。しかし、昭和時代の議会はこの力を使わず、「自殺」していたとも言える。

※予算決定権:ヨーロッパでは軍事予算を可決した議員もまた戦争責任があると考えるのが普通である。第一次大戦のあと、ドイツでは戦時予算に賛成した議員たちは非難の的になった。第一次大戦後のドイツで社会民主党が人気を失ったのも、そのためだった。戦後の日本で、そうした議論を聞いたためしがないのは、どういうことだろう。

※伝家の宝刀:ところが恐ろしいことに現代日本の官僚たちは「予算編成権は内閣にある」として、財務省の作った予算を議会が否決、修正するのは越権行為であると考えているのだと言う(「日本経済新聞」2001年2月12日論説記事)。この独善・傲慢は、戦前軍部のそれに匹敵するではないか。

国権の最高機関

国家権力は司法、行政、立法に分かれるが、最も力があるのは議会、すなわち立法府だ。日本国憲法第4条も、国会を国権の最高機関と定めている。アメリカ憲法でも、連邦議会に関する条文が大統領に関する条文より先にある。アメリカの大統領は、法律案を議会に提出することができず、教書で議員に依頼するしかない。大統領は議会を自由にできないが、議会は大統領を批判し制限できるから、議会の方が上だ。
しかし、戦前の日本では、議会がどんなに力を振るっても、軍部には勝てなかった。議会の力の源泉は民意にある。議会には、様々な選挙区から様々な政見で選ばれた議員が集まるから、民意は議会にあると言える。大統領やヒトラーの背負う民意は限られているが、議会は多様な意見を反映できる。だから、議会の方が強い力を持つとされる。

※強い力を持っている:ヒトラーが独裁権力を握れたのも、議会が「全権委任法」を可決し、彼に立法権をゆだねたからだった。

戦争に熱狂した日本人

当時の日本では、昭和22年に行われた総選挙では民意は軍部に批判的で、与党は敗れ、林内閣も倒れた。しかし、3年後の昭和15年、斎藤隆夫の反軍演説時には、民意は軍部の支持に傾いていた。この時、衆議院の大多数が彼を除名処分にしたのは、世論が彼を見捨てたからだ。代議士たちは選挙で勝つために、世論に敏感に反応するため、斎藤除名に賛成した。
その時代の日本では、議会が軍に対抗しようとしても、世論が軍を支持していたため、勝ち目はなかった。戦争を巡る歴史観では、戦前の日本人やマスコミが軍の弾圧を恐れて沈黙していたとされるが、実際には、支那事変ではマスコミも大衆も戦争に熱狂していた。日本人は日清・日露戦争の勝利の歴史から、「神国・日本に敵はなし」と考えていた。南京陥落を待ちわびるような状況だった。戦局が悪化するまでは、日本人の多くは軍の活躍に期待していた。

「空気」が支配する国

日本人が戦争にどれだけ熱狂していたかは、昭和22年末の南京陥落の誤報からも明らかだ。南京総攻撃前夜、ある新聞が誤って「南京陥落」の号外を配った。これにより、市民は大いに興奮し、銀座には「祝南京陥落」の看板が出て、芝居小屋では役者も観客も万歳を連呼し、盛り場では提灯行列が行われた。これは政府や軍部が仕組んだことではなく、市民が自主的に行ったことだった。南京がまだ陥落していないことを知る当局も、大衆の興奮を見て恐れをなし、誰も公式に否定しなかった。
戦争の初期、国民は軍に警戒感を持ち、議会も正常に機能していた。しかし、支那事変が始まると世論は一変し、「聖戦」として支持された。このため、軍に対する警戒感は薄れ、大衆は戦争を歓迎するようになった。

山本七平氏は、日本は「空気」(ニューマ)が支配する国であるという、きわめて注目すべき指摘をしています。
この戦争は正しい、軍部を批判する奴は卑怯者だ……こうした「空気」が世間に充満してくると、もはやそれには誰も逆らえない。たとえ本心では「この戦争は負けるのではないか」と思っていても、それを口に出すこともできない。空気の前には道理が引っ込む。
こうして日本はずるずる戦争に突入することになるのですが、そうした空気ができたのは支那事変がきっかけではないかと思います。南京陥落というニュースを聞いて、全国民が興奮した。そのときをもって、日本の空気はガラリと変わったのです。
こうなってしまえば、もはや良心的な議員がいたとしても何の役に立ちましょう。ひとりの斎藤隆夫がんなに頑張ったとて、目には見えない「空気」には勝てません。かくして議会は死に、憲法は死んだのです。

誰が角栄を殺したのか

日本人の本質は戦前も戦後も変わっていない。戦前の日本での出来事を他人事のように話す人がいるが、その当時の体質は現代まで続いている。現代日本では憲法も議会も形骸化しており、これは国民自身の責任だ。戦前の帝国議会は斎藤隆夫の除名で「自殺」し、戦後は田中角栄元首相の追放でデモクラシーが死んだ。田中角栄は戦後日本唯一のデモクラシー政治家だったが、彼を「殺す」ことで日本はデモクラシーを失った。田中角栄がロッキード事件で起訴された時、有罪か無罪か裁判が終わる前に国民が罵り、これも戦前の日本と同様の「空気」が原因だ。戦前も戦後も、日本人の変わらない本質が、今の行き詰まりにつながっている。

議員立法のレコード・ホルダー

デモクラシーの核心は議会政治の機能にある。言論の自由と自由な議論を通じて法律や予算が決まるのがその要点だ。この観点から見れば、昭和時代の政治家の中で角栄ほどデモクラシーを体現した人はいない。彼は新米議員時代に36件の法律を提案し、成立させた。これに対し、現代の議会はほとんど政府立法で、議員立法はほとんどない。角栄が議員立法のレコードホルダーになれたのは、彼が討議を恐れず、説得力ある演説ができたからだ。
角栄の演説集は今でも読まれている。戦前の尾崎咢堂や犬養木堂のように、彼の演説は今も価値を持つ。現代の議員の多くは下手な演説をし、役人が書いた原稿を読むだけだ。国会法の「自由討議」の精神は角栄だけが活用し、他の議員はこれを生かせなかった。結果として、国会は言論の府としての役割を放棄し、朗読会と化した。
サッチャー元首相も民主主義の要点は率直な討論にあると記した。イギリスの名政治家は皆雄弁家だった。日本でその伝統を継いだのは角栄だけだ。彼は議会政治の精神を深く理解し、体現した政治家だった。

なぜ日本の議員は法律を作れないのか

若き田中角栄があれだけ多くの議員立法をできた第二の理由は、役人の操縦に巧みであった点にある。 そもそもなぜ日本では、議員立法が盛んではないのか。それに対して、なぜアメリカではマスキー法、タフト=ハートレー法などのように提案した議員の名を冠した法律が多いのか。
日本では議員立法が少ないのは、新しい法律が既存の法律と矛盾しないようにしなければならないためだ。アメリカは新しい法律を積極的に作り、矛盾は裁判所が解消する。また、アメリカの議員には法案作成のためのスタッフが多いが、日本の議員には専門スタッフがいない。その代わりに衆参両院に法制局があるのだが、この法制局も人員が少ない。そのため、どうしても議員立法がしにくいという事情がある。
田中角栄は官僚を巧みに操り、立派な法案を作ることができた。彼は「日本列島改造論」のような提案で知られ、これがベストセラーになった。しかし、角栄のように官僚を自由自在に使える政治家は、今でも現れていない。現在の国会で提案される法案のほとんどは官僚が作ったものだ。角栄の能力を引き継ぐ政治家は現れていない。

※マスキー法:上院議員マスキーが1970年に提出した自動車排気ガスの削減法案。この法律が可決されたことで、日本製の低燃費の自動車がアメリカを席巻することになった。
※タフト=ハートレー法:1947年、タフトとハートレーの2議員によって作られた労使関係法。大戦後、アメリカ産業界でしきりに起こったストライキを解決するために作られた。
※専門スタッフ:最近、日本でも国会議員の「政策秘書」の給与を公費負担することにはなった。だが、それによって、議員立法が増えたとはとうてい言いがたいことはご承知のとおりである。
※法制局:衆参両院の法制局があまり機能していない原因として、内閣法制局の存在を無視するわけにはいかない。内閣法制局は規模も大きく、しかも法務を得意とする有能な役人を集めていて、質量ともに議会の法制局を圧倒しているのである。

身の毛もよだつ暗黒裁判

----若き田中角栄がデモクラシーの権化であったという話は分かりました。でも、だからといって、角栄を追放したから戦後日本のデモクラシーは死んだというのは、ちょっと大げさでしょう。だって、あれだけ悪いことをしたんですもの。
ご承知のとおり、田中角栄は1974年末、金権政治批判を受けて首相の座を降りることになりました。しかし、私が言いたいのはそのことではありません。その後に起こった「ロッキード事件」のことです。
いわゆるロッキード事件では、全日空に導入される新型飛行機の選定に当たって、当時の田中首相がロッキード社から当時のカネにして5億円の賄賂を受け取ったとされました。
この事件が報じられると、日本のマスコミは一斉にこの事件に飛びついた。
----覚えていますよ、でかい見出しが一面を飾りましたもの。
金脈問題で辞めた元首相なら、このくらいの賄賂は受け取っても不思議はない。いや受け取っていないはずがない。そういう空気が日本を覆い尽くした。
かつては「今太閤」と、持て囃したことなどコロリと忘れ、新聞もテレビも「田中を一刻も早く逮捕しろ」の大合唱だった。
かくして元首相は昭和51年(1976)7月、逮捕された。そしてロッキード裁判が始まるわけですが、この裁判で身の毛もよだつ恐ろしいことが行なわれた。
----身の毛もよだつとは、大げさな。
大げさなものですか。
私は、はたして田中角栄が5億円を受け取ったかどうかは知りません。
受け取ったのかもしれないし、受け取ってないかもしれない。その真実は「神のみぞ知る」です。
しかし、それでも間違いなく言えることがある。それはこのロッキード裁判が、まさに暗黒裁判であったという事実です。
この裁判で何が行なわれたかを欧米デモクラシー諸国の人間に話してごらんなさい。
きっと「お前の国では、そんな暗黒裁判が今なお行なわれているのか」と仰天することでしょう。それどころか、「そんな日本には足も踏み入れたくない」と言って、日本を嫌悪するようになるかもしれない。そのくらい、大変な裁判なのです。
ところが日本人のほとんどは、この裁判でどれだけ恐るべきことが行なわれたかを知らないし、それを報じた新聞やテレビはありません。
「田中角栄は悪者である」という空気が日本を支配した結果、冷静な議論はすべて封じ込められ、デモクラシーの精神は踏みにじられてしまったのです。
これを「デモクラシーの死」と言わずして何と言いましょう。
----何だか分からないけれども、すごい話みたいですね。

魔女狩りと同じだった角栄の逮捕

田中角栄が1976年に逮捕されたとき、世のマスコミは諸手を挙げて「ついに巨悪が捕まった」と大喜びしたわけですが、実は彼を逮捕した検察側は大きな壁にぶち当たることになった。
田中に5億円の賄賂を贈ったとされるのはロッキード社のコーチャン副社長なのですが、そのコーチャンが証言を拒んだのです。日本の法廷にノコノコ出かけていったら、彼自身がロッキード事件の共犯者として起訴されるかもしれないのですから、それは当然のことです。
しかし、彼の証言がなければ、田中を有罪にする決め手がない。かくして検察は手詰まりになってしまった。
しかし、そんなことは実は最初から分かっていたことです。自分が有罪とされるかもしれないのに、わざわざ証言するお人好しがいるでしょうか。
それなのに、日本の検察は見切り発車で、田中を逮捕した。
「世論が味方に付いているんだから、何とかなるだろう」と思ったのでしょうか。
だとしたら恐ろしいことです。
物証も証人も手元に揃っていないのに、テレビや新聞が逮捕しろと言ったら、逮捕する。そんなことが行なわれるようになったら、それだけでも世の中は真っ暗です。
「あいつは悪いやつだ。逮捕しちまえ」と新聞が指させば逮捕されるのでは、もはや近代国家とは言えません。デモクラシーの国とは言えない。それは中世の魔女狩りと同じことです。
----そりゃ、怖いや。たとえ裁判で無罪になったとしても、逮捕されただけで社会的に葬られたも同然ですからねえ。
しかし、本当に恐ろしいのは、これからです。
----え、これだけじゃないんですか。
というのは、このコーチャンが日本から来た検事に対して、前代未聞の条件を出した。それは刑事免責の条件です。つまり、贈賄罪、偽証罪で日本の検察が彼を起訴しないのであれば、証言に応じてもいいというわけです。
もちろん日本の裁判には、刑事免責という制度はありません。アメリカでは、重大な犯罪を起訴する際にしばしば行なわれることだから、コーチャンはそれを要求したのですが、日本の刑事訴訟法にそんなことを許す規定はどこにもない。また、かつて一度も行なわれたことがない。
ところが、それを日本の法廷、この場合は東京地裁は何やかやと理屈を付けて、それを認めてしまったのです。

裁判官と検事がグルになる恐怖

ロッキード裁判を私が「暗黒裁判」と表現する第一の理由は、このコーチャンに対する刑事免責の問題です。
第一章で私は「近代裁判とは検事を裁く裁判である」と述べました。
つまり、裁判官は被告人を裁くのではない。検事が不法な捜査や取り調べをしていないか、そのことを徹底的に調べあげるのが裁判の主たる目的であって、事実を明らかにすることが裁判の目的ではない。
----検事は1回でもミスをしたら即退場で、被告は無罪放免というわけですよね。
権力というのは、無実の人間を罪人にしかねない。そういうことが行なわれていないかを監視するのが裁判官の役目です。
ところが、このロッキード裁判をごらんなさい。裁判所と検事がグルになって、刑事免責などという、法律のどこにも明文化されていない条件を与えた。
裁判所がなぜ刑事免責を認めたのかといえば、そうすることによって検察が助かるからです。
ろくな物証もなければ、証人もいない。これでは裁判にできないから、何とかしてくれと検事は泣きついた。そうしたら、裁判所が「大変だね」と言って、ルールを勝手に変えた。
こんな裁判がどこにありますか。
第二章で述べたとおり、近代刑事裁判の大原則は「罪刑法定主義」にある
裁判官と検察がグルになれば、どんな被告だって有罪になってしまいます。裁判官が検事に同情しているのでは、どこをどうしたって被告が勝てるわけがない。
こんな裁判が許されていいと思いますか。
----僕が被告だったら、すぐ海外に逃亡するね。
そう思うのが当然です。
ところが日本のマスコミは、この刑事免責の特例が出たのを見て、びっくり仰天するどころか、「これで重要証言が揃った」と言って大喜びした。
とにかく角栄を一刻でも早く有罪にしたいものだから、検事と裁判官が結託しても何の批判もしない。
それどころか「刑事免責の特例も、この際だからやむをえない」などという理屈をひねくり出す始末です。「日本の司法制度、ひいてはデモクラシーが死んだ」と書いたマスコミなど、どこにもなかった。
----本当に怖くなってきたなあ。
いや、こんなのは序の口です。
----まだまだ、あるんですか!

裁判所が憲法違反を行なった!

角栄裁判の暗黒裁判たる最大の理由は、このコーチャン証言に対して、いっさいの反対尋問が認められなかった点にあります。
裁判所が刑事免責を与えたことで、検察は喜び勇んでアメリカに飛び、コーチャン氏をアメリカの裁判官の前で証言させて、それを記録に取って持ち帰った。いわゆる「嘱託尋問調書」と言われるもので日本で行なわれている裁判なのに、なぜアメリカの裁判官の前で証言したものが正式の証拠として認められるのか――これだけを見ても、いかにこの裁判が異様なものだったかが分かろうというものですが、実はそこから先が大問題。
裁判において検事調書が証拠として提出されることは珍しくありません。目撃者の証言、あるいは共犯者の証言を検事が聞き取り、それをまとめたものが検事調書です。
ところが、検事調書とこの嘱託尋問調書とでは、決定的に違う点がある。
それは、ロッキード裁判においては、この証言を行なったコーチャン氏に対して、被告の側が反対尋問をする機会が一度も与えられなかったということです。
アメリカの裁判所で行なわれた証言では、アメリカの裁判官と日本の検事だけが立ち会った。そこには被告の弁護士はいませんでしたし、その後も被告側はコーチャン氏に反対尋問を行なう機会を与えられなかったのです。
これは紛れもない憲法違反です。
日本国憲法の第37条第二項には、次の規定があります。
「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与えられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する」
つまり、刑事裁判で検察側が被告に不利な証言を持ち出したとします。その場合、被告側はその証人に対して、反対尋問を行なう権利がある。また、その場合は国が証人を強制的に、しかも公費で呼ばなければならないというわけです。
反対尋問は、被告人に与えられている「基本的人権」です。
何も国家が寛大だから、反対尋問の権利を国民に与えたのではありません。
また、ある人には反対尋問の権利があるけれども、ある人には権利がないと言うのでもない。日本国民なら、いや、デモクラシー国家に生きている人間なら、例外なく反対尋問の権利は与えられる。だからこそ、人権なのです。
ところが、その重大な人権が日本で踏みにじられた。しかも、裁判官がみずからその権利を踏みにじったのです。

反対尋問こそ被告の生命線

----先生、そんなに反対尋問って、大事なものなんですか。
大事どころの話ではない。この反対尋問こそが、被告がみずからの身を守る最後の砦。この砦がなければ、どんな人間をも牢屋にぶち込むことが可能になる。
たとえば、私が検事で、あなたに何かの恨みを持っているとする。
もし、反対尋問の権利が被告に与えられなかったとすれば、君を無実の罪に陥れるのは朝飯前。適当な未解決事件を探し、君がその事件の犯人であるというウソの証言をさせればいい。たとえば、こんな具合だ。
「殺人現場にいた男は、このシマジという奴です」
「シマジさんが血だらけの包丁を持っているところを見ました」
もちろん、そんなことはウソ八百だ。そのことを一番知っているのは、君です。
しかし、いくら君が「あいつらはウソつきです」と叫んでも、容疑者である君の主張を裁判官が信じてくれると思いますか。そんなのは、ただの言い逃れだと思われてしまうのがオチです。
その証言がウソであることを証明する、唯一の方法は証人に対して反対尋問を行なうことです。つまり、その証言がウソで固められていること、あるいは証言に矛盾があることを指摘して、証言の信頼性を覆すしか、あなたに残された道はない。
しかし、その反対尋問の権利は君に与えられていない。
となれば、私の思惑どおり、君は裁判所から有罪判決を受けることになる。
----僕を例に出すのはやめてくださいよ、ゾッとしちゃうじゃないですか。
そのゾッとすることが、この日本で行なわれた。それがロッキード裁判です。
何度も繰り返しますが、
近代デモクラシーにおける刑事裁判の鉄則は「デュー・プロセス」、すなわち法にのっとった裁判を行なうことにある
刑事裁判では、権力の側は一つとして法を踏み越えてはならない。この鉄則を破れば、どんなに心証が真っ黒でも、その被告人は無罪になる。
たとえそれによって1000人の犯罪者が無罪になろうとも、無実の罪に泣く人間をけっして出してはならないというのが、近代デモクラシーの精神なのです。
ところが日本の裁判所は法の番人を自称しながら、デュー・プロセスの鉄則をみずから破った。検察官が破るならまだしも、裁判官が破ったのです。
これをデモクラシーの死、憲法の死と言わずして何と言いましょう。戦後日本のデモクラシーは角栄とともに滅び去ったのです。

かくして日本国憲法は死んだ

ロッキード裁判において、田中角栄は一審、二審で有罪判決になった。つまり、コーチャンの嘱託尋問調書は認められたわけです。
これに対して、田中角栄の側は最高裁まで争ったわけだけれども、判決を見ることなく田中角栄は平成5年(1993年)に亡くなって、公訴棄却となりました。つまり裁判そのものがなかったことにされた。
ただ、その公訴棄却のときに最高裁は「コーチャン証言には適法性がなかった」旨のことを述べた。
つまり最高裁だって、コーチャン証言は憲法違反だということが分かっていたというわけです。
しかしそれならば、田中側が最高裁に控訴した段階で、ただちに「コーチャン証言は憲法違反だから、この裁判は無効にする」と宣言すればよかった。なのに田中角栄被告が死んだのちに、それを発表した。
巷間、「最高裁は田中角栄が死ぬのを待っていた」と言われるゆえんです。
----何だか、ガックリしちゃうなあ。そこまで日本は駄目になっているんですか。
だが、それより重要なのは、マスコミの姿勢です。
裁判所が身内をかばおうとするのは大問題だが、ある意味では当然の成り行きだとも言える。だが、
それが許されてしまったのは、結局のところ、権力を監視するはずのマスコミまでが「角栄憎し」の風潮に乗ってしまったからに他ならない。もし、マスコミが批判していれば、最高裁だって態度を変えたでしょう。
実際、私は角栄裁判に関する一連の著作を裁判進行中の昭和58年(1983年)に発表し、またその後、渡部昇一(上智大学名誉教授)、石島泰(弁護士)、井上正治(弁護士)の各氏も角栄裁判の違法性を指摘する論文を発表したのですが、これに対するマスメディアの反発、攻撃たるや、すさまじいものがありました。
だから、あのような裁判が行なわれたのは、結局のところ、マスコミの責任であり、ひいては国民の責任であるという結論になる。
----この間の戦争と同じ、というわけですね。ますますガックリ来た。
いや、ある意味では戦前よりなお悪い。
なぜなら、戦前においては「帝国憲法の死」は、軍部の独裁という形で誰の目にも明らかになった。
ところが戦後日本の場合は、そうではない。この講義でも分かるように、日本国憲法はすでに死んでいます。議会も機能していなければ、近代裁判の理念も無視されている。ところが、そのことに気付いている人が、どれだけいるでしょうか。
----みんな「日本は民主主義の国だ」と思ってますものね。
そこが大変な間違いです。日本は民主主義の国ではない。もはや人民が主権者ではないのです。
その何よりの証拠が、例の北朝鮮による日本人の拉致事件です。
北朝鮮の工作機関が日本において、何人もの日本人を強制的に拉致したことは今では疑う余地のない事実です。ところが、これに対して日本政府は何をしたか。連れ去られた人をひとりでも取り返したでしょうか。
答えは言うまでもありません。日本政府は北朝鮮との関係改善を最優先にして、拉致された日本人を取り返す努力さえ放棄しています。政治家たちは何のかのと言い訳をしていますが、これこそ恐るべき憲法違反です。
あらためて述べるまでもなく、憲法の急所は「基本的人権」です。基本的人権が守られていなければ、その憲法は死亡宣告を受ける。中でも最も大切なのが、生命、自由の権利です。
だからこそ、日本国憲法第13条にも国民の「生命、自由、幸福追求に対する権利」が謳われ、この権利こそ「国政の上で、最大の尊重を必要とする」と強調されています。この第13条はアメリカ合衆国の独立宣言に由来して、文章まで同じです。さらにそれを遡れば、ロックの思想に由来する。まさに第13条の規定こそ、憲法の急所、憲法の生命線なのです。
ところが、どうでしょう。国民がいきなり「生命、自由に対する権利」を奪われ、外国人に拉致され、しかも、その被害者がどこにいるかも分かっていながら、日本政府は「国政の上で、最大の尊重」をしていない。これほど明確な、そして悪質な憲法違反はありません。それなのにマスコミも憲法学者も、憲法違反を指摘しないとは奇妙奇天烈としか言いようがない。
こんな国のどこが「人民主権」と言えるでしょう。もはや日本は民主主義国でも、近代国家でもない。
憲法が死んだ結果、日本のデモクラシーは完全に死に絶えてしまった。みなさんは、そんな国に暮らしているのです。残念ですが、それが現実なのです。

※一連の著作:田中角栄の呪い』光文社昭和58年3月)、『田中角栄の大反撃』(同・昭和58年5月)など。また『田中角栄の遺言』(クレスト社・平成6年6月)もご参照いただければ幸いである。


第13章:憲法はよみがえるか(441)

「見えない裁判所」

現代日本は実質的に「憲法が死んだ国」で、デモクラシーの体をなしていない。明治憲法下の戦前日本のデモクラシーが軍部の台頭で消滅したように、今日の日本では霞ヶ関の官僚が議会や内閣を乗っ取り、法律や政策を決定している。彼らは司法権力も掌握しており、実質的に日本の独裁者となっている。日本には「見えない裁判所」が存在する。例えば、地方条例に関する解釈の問題が発生した場合、アメリカやイギリスでは裁判所が最終判断を下すが、日本では市町村役場、県庁、そして中央官庁がそれぞれのレベルで解釈を決定する。これは形式上三審制のように見えるが、実際には全て官僚による解釈であり、法の濫用を防ぐための役割分担がない。
近代デモクラシーでは、法律は議会が定め、政府が行政を行い、裁判所が解釈するが、日本では役人がこれらの全てを行っている。これはヒトラーの全権委任法による立法権の掌握を超え、司法権力まで含む独裁と言える。ヒトラーでさえやらなかったことが日本では行われており、これは独裁政治以外の何ものでもない。

無能な独裁者たち

独裁政治は必ずしも悪いわけではない。ローマ帝国のカエサル、フランスのナポレオン、ヒトラーによるドイツの失業問題の解決など、独裁制には成功例もある。しかし、現代日本の官僚独裁は「百害あって一利なし」だ。平成不況の原因も官僚にある。バブル経済を潰すために大蔵省が出した「総量規制」通達は、法律に基づくものでも首相の指示でもなく、国民の富を奪い経済に深刻なダメージを与えた。これにより、大蔵省の官僚が経済を理解していないことが明らかになった。
彼らは経済学の基礎も理解せず、土地価格の暴騰を抑えようと総量規制を出した。これは市場法則の規制であり、大惨事を招いた。日本人は長らく官僚をエリートと見なしていたが、実際は経済の基本も分からず、近代精神も欠けていた。現代日本の独裁者たちは無能で、その結果として現在の日本は悲劇的な状況にある。

※総量規制:1990年3月22日、土田正顕大蔵省銀行局長が各金融機関に対して出した通達。その内容は実質的に、ノンバンク、ゼネコン、不動産会社などに対する融資を全面ストップさせるものであったので地価はわずか、か3ヵ月で2割も下落し、以後、日本経済は奈落の底に転がり落ちていった。

官僚制の研究

なぜ、エリートであったはずの官僚たちが、かくも堕落してしまったのか。日本の官僚制度はなぜ、これほどまでに腐りきってしまったのでしょうか。
その疑問を解くカギは、歴史にあります。
名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書いたマックス・ウェーバーは、官僚制の研究においても不朽の業績を残しています。彼は古今東西の官僚制度を徹底的に研究して「官僚とは何か」を明らかにした。
そこで彼が強調しているのは、一口に官僚制と言っても、そこには2種類があるということです。すなわち家産官僚制(patrimonial bureaucracy英語)と、依法官僚制です。
前に述べたことと重なりますが、中世ヨーロッパの王国では国王の権力はひじょうに限られたものでした。領主たちの既得権益の壁は厚く、王といえども領主たちの土地に税金をかけることはできなかった。ところが時代を経るにしたがって、国王の力が増して、最後には絶対王権にまで行き着いたというわけです。
さて、この絶対王権の時代になって発達したのが官僚制です。
それまでの王国では、領主の土地に税金をかけるわけにもいかず、王の収入は直轄地からの上がりだけだったのが、絶対王権の時代になると、国そのものが国王のものになった。したがって、国中に税金をかけることができるようになったのですが、その税金を集めて、管理するには専門の担当者が必要です。そこで王は有能な人間をスカウトして、彼らを役人にした。そこで官僚制が発達したのです。
----今も昔も、お上は税金の取り立てには熱心だったんですねえ。
さて、そこで大切なのは、初期の役人はみな王様の僕であったということです。現代の私たちは「役人は公僕である」と思っていますが、絶対王朝の官僚はそうではない。官僚とはあくまでも王様に仕える、いわばプライベートな召使いだったわけです。
こうした官僚制のことをウェーバーは「家産官僚制」と名付けました。絶対王権の国家とは、結局のところ、国王の所有物です。人民も土地も、すべてが国王の財産、つまり「家産」である。その家産を管理するのが、家産官僚の役割です。
したがって、家産官僚は何もヨーロッパ独自のものではありません。むしろヨーロッパの官僚制の誕生は世界史的に見ると遅いほうで、中国や古代エジプトなどでは紀元前から家産官僚たちがいて、権力者に仕えていたのです

家産官僚の特徴は「公私混同」

ヨーロッパの絶対王権時代に誕生した家産官僚は、立憲制やデモクラシーへの移行と共に依法官僚制へと変化した。家産官僚は、絶対王権下で国王の私的な召使いでありながら公的な役人でもあるという矛盾した存在だった。彼らには公私の区別がなく、税金に関する問題がその最も明確な例だ。家産官僚にとって、国民から徴収した税金は国家、王様、そして自分のものという感覚で区別がなかった。
古代中国の役人は「清官三代」ということわざが示すように、官職に就いている間の収入で代々豊かに暮らすことができた。地方官は割り当てられた上納金を皇帝に納めた後、残りを自分の収入としていた。彼らはしばしば人民から過剰に税を徴収し、口利き料や手数料を巻き上げた。このような家産官僚の行動は中国だけでなく、他の国でも見られた。家産官僚にとっては、「公のものは自分のもの」という考え方が当たり前だった。

※恐るべき財産:清の高宗乾隆帝時代、権力をほしいままにしたのが首席軍機大臣・和だった。彼が後年、嘉慶帝によって自殺を命じられたとき、没収された彼の財産は八億両と評価された。これは清の国家予算10年分に匹敵し、ルイ14世の私有財産の約4倍に相当すると言われている。家産官僚の公私混同、かくのごとし!

役人は「法律マシーン」たれ

国家が絶対王権から立憲君主制、デモクラシーへと変化する中で、官僚も変わらなければならない。官僚は「公僕」となり、依法官僚制においては法に従って行動し、権力を濫用したり税金を横領することは許されない。近代の官僚は法律を実行する「マシーン」のような存在で、法律に従わない官僚は人民に迷惑をかける。現代社会は複雑で多岐にわたるため、官僚は多くの法律をマスターする必要がある。
しかし、現代日本の官僚を見ると、彼らは家産官僚の特徴を持っている。日本の高級官僚は「公のものは俺のもの」という考えを持ち、日本経済全体を自分の所有物のように錯覚している。これは家産官僚の典型例で、彼らは公私の区別がなく、国民にとっては非常に悪質な存在だ。

日本経済を支配したエリート官僚

日本の大蔵省が行っていた「護送船団方式」という銀行行政は、日本の官僚が家産官僚であることの明確な例だ。大蔵省は「一行たりとも銀行を潰さない」という方針のもと、銀行経営の細部に至るまで干渉してきた。預金の利息やカレンダーのデザインまで、大蔵省の許可がなければ銀行は決定できなかった。実質的に大蔵省の役人が銀行を所有しているような状態で、これらの行政指導は法律的な根拠がなく、役人の勝手な裁量で行われていた。
このような官僚の行動は大蔵省に限らず、他の官庁にも見られる。日本の官僚は近代官僚、つまり依法官僚を装っているが、実際には家産官僚であり、司法・行政・立法の三権を独占し、日本経済を私物化している。このため、平成不況からの脱出が困難で、日本経済が改善される見込みはない。官僚の害を除かなければ、日本経済は決して良くならないと断言できる。

※MOF担:MOFとはMinistry of Finance(ミニストリオブファイナンス/大蔵省)の略。日本の銀行マンにとって最重要な仕事は、預金者からのカネを預かることでも、企業家にカネを貸すことでもなかった。銀行の浮沈はひとえに大蔵省銀行局の胸三寸にかかっていた。そこで各銀行では最も有為な人材をMOFの担当者、すなわちMOF担にした。MOF担経験者は出世間違いなしと言われていたものである。

役人の害をどう防ぐか

官僚の害を防ぐ方法について考える時、官僚が自分の権力を肥大化させ、腐敗するのは避けられない現実だ。官僚は本質的に悪であり、官僚を信じるべきではない。その害を前提に対策を立てる必要がある。この点で、中国の官僚制度の歴史は非常に参考になる。
中国の官僚制度は紀元前の戦国時代に始まり、清国が滅びる1912年まで2000年以上続いた。中国のような巨大な帝国を統治するには官僚が欠かせないが、これは官僚制度の弊害も大きくなることを意味する。中国では王朝の交替が頻繁に起こり、官僚も新しくなるが、多くの王朝は100年以上続いた。日本の近代的官僚制度は1世紀ちょっとで腐敗してしまったが、中国では一つの王朝が3世紀も維持された。ここに官僚の害を抑えるためのヒントがある。

なぜ中華帝国は2000年も続いたか

では、中国の王朝は巨大な官僚組織を持ちながら、どうして長続きしたのか。その最大の理由は、つねに官僚グループに対抗する勢力があったからです。その対抗勢力がつねに官僚組織を監視し、それが腐敗、堕落してくると糾弾した。だからこそ、官僚組織が制度疲労を起こさず、長持ちした。
先ほども述べたように、中国における官僚制度の起源は2000年以上前に遡るのですが、官僚制初期のライバルは、貴族たちでした。
何しろ、中国の皇帝といえば、結局のところ実力でのし上がってきた人物ですから、貴族から見れば、「どこの馬の骨か分からない」ということになる。
だから皇帝にとっては貴族の存在がわずらわしい。そこで貴族以外から人材を登用して、自分の思うがままに使いたいということから官僚制は始まった。
すなわち、官僚とは元々、皇帝が貴族を退治するための武器であったというわけです。
もちろん貴族のほうだって、そうした皇帝の意図はお見通しです。
そこで貴族は、皇帝のスタッフである官僚たちのあら探しをする。また官僚にしても、血筋をひけらかす貴族に対しては敵愾心を燃やしていたというわけです。
ところが、その貴族もヨーロッパと同じで、時代が進むにつれて勢力が衰えてくる。
紀元10世紀の初め、唐王朝が滅びて五代の戦乱が起きると、貴族はほとんど消えてしまいます。そして宋の時代になると貴族は完全に消えた。
となれば、今度は官僚の天下になる。ところが、そうは問屋が卸さない。
というのも、貴族がいなくても官僚にはまだまだライバルがいた。それは宦官です。
※宦官:去勢された男子を宮廷の使用人にすることは、古代エジプトやペルシアでも行なわれたが、それが最も発達したのが中国の歴代王朝であった。
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当初、宦官は被征服民族や罪人がなったものだが、後に宦官勢力が発達してくると「自宮」と言って、みずから志願して宦官になる庶民が増えた。
中国史に多少なりとも興味のある人なら、誰でもご承知のとおり、中国では古来から「宦官の害」があった。宦官というのは、本当の意味での皇帝のプライベートな召使いなのですが、彼ら宦官は皇帝の近くに待っているのをいいことに政治にまで口を出し、それによって起こった政変は数知れない。
それだけ宦官が問題ならば、さっさと廃止してしまえばいいのにと思ってしまうわけですが、実は宦官がいるおかげで、官僚の専横が防げるという効用もある。
宦官が皇帝の私的な召使いとすれば、官僚は皇帝の公的部門に仕える召使い。したがって、両者の仲の悪さたるや、恐るべきものがあった。いずれの側も、何とかして相手を倒そうと虎視眈々。

「最高の官僚は最悪の政治家である」

しかし、貴族や宦官がいたとしても、それでもなお官僚たちを抑えられるとはかぎらない。そこでさらに中国の歴代王朝が考えたのが、御史台(ぎょしだい)という組織です。この御史台とは、要するに官僚の汚職を捜査する機関です。といっても、御史台の力たるや今日の警察や検事の比にあらず。
なぜなら、この御史台の長官である御史大夫に告発されると、自動的に有罪だと推定される。
つまり、「疑わしきは罰せず」ではなく「疑わしきは罰する」という原則が適用される。
したがって、この御史大夫(ぎょしたいふ)に告発されて助かろうと思えば、被告の側が自分の無罪を完璧に立証する必要があるわけですが、昔の中国においては、そこまでやった人はまずいません。というのも、疑いを持たれた時点で官僚はいさぎよく死ぬものと決まっていた。そこで悪あがきするのは、高級官僚のプライドが許さないというわけです。
たとえば御史大夫の告発を受けた官僚は、皇帝から毒入りの菓子をいただく。それを黙って食べて死ぬ。言い訳したり、妻子ともども夜逃げをしたりしない。
----死刑率100パーセント!史上最も怖い警察ですね。
今の人間から見れば、何という恐怖政治かと思ってしまうでしょうが、そのくらい強大な権力で牽制していないと、官僚組織はかぎりなく肥大し、腐敗していく。そうなると、もはや皇帝でさえどうにもならないというわけです。
この講義で私は何度も「国家権力はリヴァイアサンである」と述べましたが、高級官僚とはそのリヴアイアサンをも食い殺してしまう、恐るべき怪獣、いや寄生虫です。この寄生虫がはびこれば、皇帝でさえ権力を失いかねない。だからこそ、中国の皇帝たちは知恵の限りを絞って、御史台という制度を作った。
日本のマスコミは、官僚の不祥事があるたびに「自浄努力を求める」などと言っていますが、中国の皇帝たちが聞いたら、鼻で笑ったことでしょう。官僚に自浄能力を求めるなんて、ないものねだりもはなはだしい。そんなことは夢物語だというわけです。
実際、これだけいろいろ知恵を絞っても、それでも中国の歴代王朝はすべて滅んだ。
その根底にはいずれも官僚の害があったと考えて間違いない。そのくらい官僚の害は恐ろしいのです。
----だったら、官僚制なんて止めましょう。そうすりゃ、話は簡単ですよ。
いくら何でも、それは暴論というものだ。
いにしえのアテネのように、国家の規模が極端に小さければ役人を国民から抽選で選ぶこともできるだろうが、近代国家を官僚抜きで運営することなど最初から不可能な話です。近代官僚制は近代国家とともに生まれたという事実を忘れてはいけません。
となると、残された道は何か。
いかにエリート教育を受けたとはいえ、しょせん官僚は優秀な「マシーン」にすぎません。偏差値ロボットです。彼らは過去の前例や既存の法律はよく記憶しているかもしれないが、今までに経験したことのない事態に遭遇したときには、何の役にも立たない。学校教育は知識を教えてくれるけれども、発想力や創造力までは与えてくれない。
今の日本経済はデフレに直面しているが、このデフレはまさに官僚にとって未知の事態である。デフレーションが起きたのは何しろ大恐慌の時代以来のことだから、日本のエリート官僚たちはみなお手上げになっているのである。
マックス・ウェーバーは「最高の官僚は最悪の政治家である」と述べています。どれだけ優秀な官僚であっても、彼らには政治家たる資格、指導者たる資質はない。官僚に政治を行なわせるのは、サルに小説を書かせるよりもむずかしい。政治家たちが上手にコントロールして、初めて官僚の力を活かすことができる。その好例が田中角栄です。

もはや日本の運命は決まった

日本の政治家を改善するためには、良い国民が必要だということは明白です。しかし、戦後の日本人は自らデモクラシーを放棄し、憲法を軽視してきました。田中角栄の裁判や官僚の横暴を許したのも、結局日本人自身の責任です。今の日本は行き詰まっており、その証拠は至る所にあります。家庭内の犯罪、学校での学級崩壊やいじめ、街角の暴力など、これら全ては日本人がデモクラシーを放棄した結果と結びついています。現在の日本は指導者のいない飛行機や船のようで、タイタニックのような運命を辿る可能性が高いです。いつ日本が沈没するかは分かりませんが、その時は確実に近づいています。残念ながら、現時点で日本には好ましい要素が見当たらず、これが私の率直な考えです。

……いったい、どうしてここまで悪くなったんでしょう。そのことを考えるとき、どうしても避けて通れないのが「戦後デモクラシーの構造的欠陥」という大問題です。もっとはっきり言うならば、日本国憲法の構造的欠陥です。この事実に向き合わないかぎり、問題の本質は見えてこない。私はそう思います。

日本国憲法が民主主義を殺した!

日本国憲法は1947年5月3日に施行され、その原案はGHQによって作られたことは周知の事実です。アメリカは日本人に民主主義憲法を作る能力がないと判断し、新憲法を作成し、日本政府や議会の抵抗を経て公布されました。この憲法の正当性や合法性には賛否両論があり、未だに決着がついていません。一部には「占領下では主権がなかったため正当性がない」という意見もあれば、「制定過程に問題はあるが受け入れられて半世紀続いたので問題ない」という意見もあります。
しかし、私が問題にしたいのは、この憲法が戦後の日本のデモクラシーに与えた影響です。日本国憲法が民主主義を殺したというのが私の結論です。一見、民主主義の憲法として見えますが、その本質的な問題はアメリカ人が原案を作ったことにあります。これは単なる「押し付け憲法」の問題ではなく、もっと根深いものです。

アメリカ人はデモクラシーも資本主義も知らない

日本国憲法の原案はGHQスタッフによって作られた。その制定は急ごしらえで、スタッフも憲法の専門家ではなかったが、彼らは自分たちが作った憲法に満足していて、「恥ずかしくない憲法を作った」と考えていた。彼らは「善意」を持っていたが、ダンテの言葉にあるように、「地獄への道は善意で舗装されている」ことを忘れてはならない。
アメリカ人は民主主義や資本主義を理解していない。アメリカは確かに民主主義の本場であり、民主主義と資本主義を世界に広めようとしている。しかし、民主主義と資本主義はアメリカでは当たり前の存在であり、その研究は遅れている。アメリカ民主主義に関する名著はアメリカ人以外の人間が書いており、フランス人のトックヴィルの『アメリカのデモクラシー』がその代表例。資本主義の研究においても、基礎はドイツの学者によるもの。

憲法学者の西修氏によれば、日本国憲法を作ったアメリカ人たちは自分の仕事を今でも誇りにしているが、その一方で彼らの大半は、自分たちが書いた「速成憲法」がそのまま今でも通用していると聞いてひじょうに驚いたそうである(『日本国憲法はこうして生まれた』文春文庫174ページ)。

アメリカ民主主義は予定説である

日本国憲法はアメリカの占領下で、民主主義や資本主義が自然に機能すると信じるアメリカ人によって書かれた。彼らは、民主主義がどこにでも簡単に実現すると考えていた。しかし、アメリカでの民主主義の確立も時間がかかった事実を考慮する必要がある。アメリカ人は「デモクラシー予定説」を信じており、困難があろうとも世界中が最終的にはデモクラシーになると信じている。
しかし、民主主義の実現は簡単ではない。伊藤博文がヨーロッパでの憲法研究を通じて日本での憲法制定の難しさを理解したように、民主主義を確立するのは大変な努力が必要。アメリカ人には日本人のこのような苦労が理解できない。彼らにとって民主主義は当然のもので、その実現が難しいとは思っていない。これは、空を飛ぶ鳥から見れば、地上を歩くニワトリが空を飛べないことが不思議に思えるのと同じ。ニワトリにはニワトリの事情があるのです。

天皇教は崩壊した

アメリカが日本を占領した時、大正時代の日本の民主主義の芽生えに気付いたが、民主主義が完全に根付かなかった理由を天皇制に求めた。天皇を現人神とする信仰を日本の民主主義発展の妨げと見なし、天皇教を排除する方針を定めた。
この結果、昭和天皇の「人間宣言」により伊藤博文の設立した天皇教は崩壊した。多くの日本の憲法学者や政治家は、明治憲法の修正だけで十分だと考え、軍部の制限と国民の権利保障、議会の強化を提案した。しかし、GHQはこれに不満を持ち、自らの憲法案を作成し、それが現在の日本国憲法の基礎となった。

「平等」の誤解はここに始まる

戦後日本はアメリカ人が言う「真の民主主義国」にはなれなかった。これは、現在の日本の状況がはっきりと示している。明治憲法を作った伊藤博文は、憲法には「機軸」が必要と考え、「神の前の平等」に代わる「天皇の前の平等」を日本に根付かせようとした。しかし、戦後憲法ではこの考えは排除され、「平等」だけが与えられた。結果、戦後の日本では「機会の平等」ではなく「結果の平等」という誤解が生じ、特に教育現場で顕著になっている。「みんな同じでなければならない」という思想は民主主義の本質とは異なる。
真のデモクラシーにおける平等は「身分からの平等」である。法の前の平等とは、身分に関係なく、誰もが同じように富を追求できることを意味する。しかし、平等という言葉が「誰も彼もが同じにならなければならない」という「結果の平等」へと誤解された。これは悪平等であり、本来の平等の概念を歪めている。

真の自由主義とは何か

戦後の日本では「自由」が「何でもやっていい」と誤解されている。これは本来のデモクラシーにおける自由の意味とは異なる。自由主義はもともと専制君主や絶対君主の権力を制限することから始まり、この原則を守るための砦が議会だった。しかし、日本では「自由」と「放埒」が同義語となり、これは大きな誤解だ。
自由や平等は与えられるものではなく、欧米人は自らこれらを勝ち取った。それは権力との戦いが前提にある。しかし、戦後の日本では、このプロセスが欠けていたため、いきなり与えられた自由や平等が変質してしまった。戦後日本人は権力を監視することを忘れ、結果として官僚の独裁につながってしまった。民主主義は本来、国家権力との戦いであるが、これが忘れられると自由も平等も変わってしまう。
この誤解の根本原因は、アメリカ人が戦後にアメリカ流の民主主義憲法を日本に与えたことにある。

「社会の病気」アノミー

天皇を機軸として失った後、アメリカ人から憲法を与えられた日本は「急性アノミー」という状況に陥った。アノミーは「社会の病気」であり、これにより健全な人でも異常行動をとるようになる。アノミーの概念は、エミール・デュルケムというフランスの社会学者が自殺の研究中に発見した。
デュルケムは、経済が活況を呈して生活水準が急上昇するときも自殺が増えることを発見した。彼はこれを「連帯の喪失」と説明する。豊かになり生活スタイルが変わると、以前の友人たちとの連帯が失われ、新しい友人も得られず、孤独感に苛まれ自殺に至ることがある。アノミーは、自分の居場所を見失うときに起こる。「アイデンティティの喪失」とも言えるが、これは心の病ではなく、社会的な原因による。他人との連帯を失い、自己認識が不明瞭になったときに、人は絶望し孤独感を感じ、死を選ぶこともある。

※デュルケム(1858-1917):ユダヤ系フランス人としてロレーヌ地方に生まれる。パリの高等師範学校を卒業後、ドイツに留学。のちにパリ大学教授となる。1897年に発表された「自殺論』において、アノミー現象を解明した。

権威がなくなると、秩序は消える

デュルケムが発見した「単純アノミー」以外にも、世の中の「権威」が否定されることによって起こる「急性アノミー」がある。権威とは何が正しく何が正しくないかを決める存在で、規範を定めるもの。人間が人を殺さないのは、権威が殺人は正しくないという規範を定めているからだ。
精神分析学によれば、家庭では父が権威の役割を果たし、子どもは父親に権威を感じる。フロイトによると、この父親の存在が心の中で「上位自我」になり、本能を制御する。しかし、子どもが成長すると、父親が全知全能ではないことに気付き、家庭の外で権威を求める。キリスト教社会ではこの役割を神が果たす。
権威が否定されると、社会は無秩序になる。何が正しく、何が悪いのかが分からなくなり、人々は暴力的になったり、無気力になったりする。これが急性アノミーの状態だ。

「父なき社会」だった戦前のドイツ

戦前のドイツは「父なき社会」の典型であった。第一次大戦後、ドイツは権威を完全に失い、社会は混乱に陥った。既存の権威が崩壊し、皇帝は逃亡し、宗教は力を失った。この無秩序の中で、若者たちは無法者になり、異常な娯楽が流行した。一方で、大人たちは無気力に陥り、経済も悪化した。この空白を埋めたのがヒトラーで、彼はナチズムを新たな権威として提示し、多くのドイツ人がこれに飛びついた。エーリッヒ・フロムは、この「父なき社会」がヒトラーの台頭を引き起こしたと指摘する。
人間はしばしば、自由意志によって行動していると錯覚するが、実際は権威と規範が必要である。権威が失われると、人は獣か植物のようになり、人間らしく生きることが難しくなる。これが急性アノミーの状態だ。戦後の日本も同様の現象を経験した。天皇教の喪失と家族制度の解体により、日本もまた「父なき社会」になったのである。

戦後日本を襲った急性アノミー

戦後の日本では、権威が失われ、高度成長と受験戦争が象徴する「父なき社会」が生まれた。権威がなくなり、唯一の尺度となったのはお金だ。豊かさを求める高度成長が始まり、親は子どもに「いい学校に入ればいい生活ができる」と受験勉強を強いた。しかし、これは単なる損得勘定で、モラルではない。結果として、子どもたちは両親を尊敬しなくなった。
金属バットで殴るような行動も、親に対する恐怖の欠如から起こる。連帯感がないアノミー社会では、友達をいじめたり、学校に行かなくなることもある。学校はもはや連帯感を与える場所ではなくなっている。子どもたちはモラルを失い、理由なき殺人を犯すようになった。これはアノミーの結果だ。現代の日本社会は戦前のドイツよりも深刻なアノミー社会になっている。
そして、このアノミーの原因を辿ると、すべては新憲法に行き着く。

三島由紀夫の「予言」

戦後の日本の行き着く先が、今のようなアノミー社会であることを早くから予見していたのは、三島由紀夫でしょう。
新憲法が制定され、明治憲法にあった天皇の権威が否定されたとき、それに危機感を持った人は三島以外にもいます。
たとえば、新憲法が施行された昭和22年の9月25日、熱海の錦ヶ浦で自決し、「明治憲法に殉じた」と報じられた憲法学者の清水澄(しみずとおる)博士も、そのひとりでしょう。
----明治憲法に殉じた!そんな学者がいたんですか。
この清水博士は戦前の憲法学における第一人者であった人物です。最後の枢密院議長を務め、また戦幣原内閣が作った憲法問題調査会でも顧問になっていますが、最後まで新憲法に反対であった。
そこで彼が「われ自決し国体を守らん」(遺書)と自死したときには「明治憲法に殉じた」と言われた。戦争責任を感じて自決した軍人や政治家は当時たくさんいましたが、新憲法に反対して死んだのは、おそらくこの清水博士ひとりだけではないでしょうか。
その清水博士の死から25年後の昭和45年(1970年)11月25日、三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決するわけですが、彼の行動の根底にあったのは天皇の「人間宣言」に対する抗議でした。
彼は自分の小説(『英霊の声』)の中で、こう記しています。
「日本の敗れたるはよし/農地の改革せられたるはよし/社会主義的改革も行なわれるがよし(中略)されど、ただ一つ、ただ一つ/いかなる強制、いかなる弾圧/いかなる脅迫ありとても/陛下は人間なりと仰せらるべからざりし」
三島は、戦後の民主主義的改革はすべて肯定したうえで、天皇の「人間宣言」だけはすべきではなかったと考えた。「なぜ陛下は人間となってしまわれたのか(などて、すめろぎは人間となりたまいし)」と彼は嘆いてやみません。
彼はデュルケムのアノミー論など知らなかったはずですが、天皇という権威が失われた日本がアノミーになることを予言していたのではないでしょうか。
しかし、彼の自決もむなしく、日本はとうとうこのような状態になってしまった。デモクラシーは死に、憲法も死に、残ったのはアノミーだけというわけです。

日本復活の処方箋はあるか

日本の将来について、現状では暗い展望しかない。アノミーに陥った日本は、方向性を失った巨大な船のようだ。このまま進めば、沈没は避けられない。しかし、憲法や民主主義は簡単に手に入るものではない。戦後日本の失敗は、アメリカが与えた憲法に頼って民主主義が実現すると考えたことにある。繰り返してはいけない。
日本復活のためには、現実を直視することから始めなければならない。亡国の縁に立つ日本の現状を認識し、そこから何をすべきかを考えるべきだ。簡単な解決策は存在しないが、現実を見据えることが最初の一歩となる。

第二の明治維新を!

150年前、日本人は浦賀沖に現れたペリーの黒船を見て、「このままでは日本は滅びる」と現実を直視した。西洋人が他の有色人種を征服し奴隷化していることを認識し、明治維新へと進んだ。現代の日本も同じ状況にある。このままでは日本の滅亡は避けられない。だが、明治維新のような変革が可能だと信じている。今の日本は憲法も民主主義も失っているが、明治維新を成功させた先人と比べて、われわれは遥かに有利な立場にある。食料や住まいに困っておらず、皆殺しの危機もない。
覚悟を決めたら、自分で考えて行動を起こすべきだ。講義の中にヒントが隠れている。正しいか間違っているかは重要ではない。大事なのは行動を起こすことだ。それが日本を再び憲法の国、民主主義の国へと導く道である。

最後に君に、丸山眞男教授の言葉をはなむけに贈りましょう。
「民主主義をめざして日々の努力の中に、はじめて民主主義は見いだされる」
民主主義にも憲法にもゴールはない。それを求める努力こそが、本当の民主主義です。
そのことを胆に銘じて、「行動的禁欲」でひた走るしかないのです。
今さら心配しても始まらない。私たちには失うものは何もないみなさんに私が伝えたいことはそれだけです。

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