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パスカル・パンセより抜粋

■『この犬は、僕のだ』と、あの坊やたちが言っていた。『これは、僕の日向ぼっこの場所だ』ここに全地上の横領の始まりと、縮図とがある。

■《各人は自分のために神を作る》~嫌悪。

■あまりに自由なのは、よくない。~必要なものがみなあるのは、よくない。

■ある宗教がほんとうであるためには、それがわれわれの本性を知っていなければならない。それは、偉大さと卑小さとを、そして双方の理由を、知っていなければならない。

■ある男は、毎日わずかの賭事をして、退屈しないで日を過ごしている。賭事をやらないという条件つきで、毎朝、彼が一日にもうけられる分だけの金を彼にやってみたまえ。そうすれば、君は彼を不幸にすることになる。

■エピクテトス、モンテーニュ、サロモン・ド・テュルティなどの書きぶりは、もっともよく用いられ、最もよく人の心に食い込み、最もよく記憶にのこり、最もよく引用される。というのは、それは日常生活での話題から生まれた思想ばかりから成り立っているからである。

■エピクテトスは、もっと力をこめて問うている。『われわれは、人に頭が痛いでしょうと言われても怒らないのに、われわれが推理を誤っているとか、選択を誤っていると言われると怒るのは、なぜだろうか』

■クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていただろう。

■このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。

■この世の主人は力であって、世論ではない。~しかし、世論は力を用いる主人ではないか。~力が世論を作るのだ。

■すべての人は、幸福になることをさがし求めている。それには例外がない。どんな異なった方法を用いようと、みなこの目的に向かっている。

■すべての人はそれぞれ一つの真理を追求すればするほど、いっそう危険な誤りにおちいる。彼らのあやまちは一つの偽りを追求することにあるのではなく、むしろもう一つの真理を追求しないことにある。

■すべての人は生来たがいに憎みあうものである。人は邪欲を公共の福祉に役立たせようとして、できるだけ利用した。だが、それは見せかけにすぎない。愛の虚像にすぎない。実のところ、それは憎しみにほかならないのだから。

■すべては一つであり、すべては多様である。人間の本性といってもそのなかにいかに多くの本性があることだろう。いかに多くの天職があることだろう。そして人は、普通、どんな偶然から、ある職業がほめられるのを聞いてそれを選ぶことだろう。

■すべて不可解なものは、それでも依然として存在する。

■そして、普通ありがちなことは、対立する二つの真理の関連を理解しえないで一方を容認することは他方を除外することであると信じ、一方に固執して他方を排斥し、われわれを彼らに反するものであると考えることである。

■それにもかかわらず、大昔から、信仰なしにはだれ一人として、このすべての人が絶えず狙っている点に到達したことはない。だれもかれも嘆いている。王侯も臣下も、貴族も平民も、老いた者も若い者も、強者も弱者も、学者も無学な者も、健康な者も病人も...

■だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。

■ところで、この方に賭けることによって、君にどういう悪いことが起こるというのだろう。君は忠実で、正直で、謙虚で、感謝を知り、親切で、友情にあつく、まじめで、誠実な人間になるだろう。

■なぜなら、本物がなかったら、そんなに多くの偽物はありえないだろうし、また偽物をそんなに信用することもありえないだろうからである。

■なぜならそれは、『あなたにそれが必要になった場合には、めんどうなことを喜んでいたしましょう。なぜなら、今だって、あなたのお役に立たないのに、めんどうなことを喜んでしているのですから』と言う訳になる。

■なぜ人は古い法律や古い意見に従うのか。それらが最も健全であるからか。いな、それらが、それぞれ一つしかなく、多様性の根をわれわれから取り除いてくれるからである。

■なぜ人は多数に従うのか。彼らがいっそう多くの道理を持っているからなのか、いな、いっそう多くの力を持っているからなのだ。

■なんという判断の錯乱であろうか、人々が、他のすべての人々の上に出ようとし自分自身の善、自分の幸福と生命との永続を、他のすべての人々のそれらよりも好まずにいられないとは。

■またあわれみのあわれみであるところは、善行をすすめて怠惰とたたかうにある。

■もしも確実なことのためにしか何事もしてはいけないとしたら、宗教のために何もしてはいけないことになろう。なぜなら、それは確実ではないからである。だが人は、どんなに多くのことを不確実なことのためにすることだろう。航海とか、戦争とか。

■もし私の手紙がローマで有罪になるならば、私がその中で有罪としていることは、天上において有罪になる。

■われわれには、どんな懐疑論もそれを打ち破ることのできない、真理の観念がある。

■われわれの惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは気を紛らすことである。しかしこれこそ、われわれの惨めさの最大なものである。なぜならわれわれが自分自身について考えるのを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは、まさにそれだからである。

■われわれの本性は運動のうちにある。完全な静止は死である。

■われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

■われわれは欠点を指摘してくれる人々に大いに感謝しなければならない。なぜなら、彼らはわれわれを鍛えてくれるからである。

■われわれは事物を別の面から見るばかりではなく、別の目でもって見る。だからそれらの事物が同じように見えるわけがない。

■われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方に置いた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである。

■悪はやさしく、しかも無数にある。善はほとんど一つしかない。だが、ある種の悪は、人が善と名づけるものと同じように見つけるのがむずかしい。そして、人はしばしば、この特殊な悪を、こうしたしるしから善として通用させてしまう。

■異端的なものも、教会の成立当初は、正典的なものを証明するのに役立っている。

■一人の人間の徳に何ができるかは、その努力によってではなく、その日常によって測られなければならない。

■炎は、空気なしには存続しない。したがって、一を知るには、他を知らなければならない。このようにすべての事物は、引きおこされ引きおこし、助けられ助け、間接し直接するのであり、そしてすべてのものは、最も遠く、最も異なるものをもつなぐ、自然で感知されないきずなによって支えあっているので、全体を知らないで各部分を知ることは、個別的に各部分を知らないで全体を知ることと同様に不可能であると、私は思う。

■何を非難するのか、言いたまえ。もし悪い点とそれがなぜ悪いかとを指摘できなければ、何もしたもうな。

■奇跡に反対して合理的に信じることは不可能である。

■気ばらしなしには、喜びはなく、気を紛らすことがあれば、悲しみはない。地位の高い人たちの幸福を成り立たせているのもそれである。すなわち、彼らは気を紛らさせてくれる多くの人々を持ち、その状態にいつづけていることができるからである。

■疑うということは不幸である。しかし疑いのなかにいる場合に、必ず果たさなければならない義務は、求めるということである。したがって、疑いながらも求めないという人は、不幸であると同時に不正である。

■教会が破門とか異端とかいうような語をつくったのは、むだである。人はそれらを用いて教会に反抗している。

■空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。

■敬意とは、『めんどうなことをしなさい』である。それは、一見むなしいようだが、きわめて正しいのである。

■謙虚さについて謙虚に話す人は少なく、貞潔について貞潔に話す人は少なく、懐疑論について疑いながら話す人は少ない。われわれは、嘘、二心、矛盾だらけである。そして、自分に自分を隠し、自分を偽るのである。

■誤りを正すというたぐいの法律ほど、誤りだらけのものはない。法律が正しいという理由で、法律に服従する者は、彼の想像の正義に服従するのであって、法律の本質に服従しているのではない。

■考えが人間の偉大さをつくる。

■高慢は、われわれの悲惨や誤謬などのまんなかで、いとも自然なとらえ方でわれわれをおさえている。われわれは、人の語り草になりさえすれば、喜んで生命までをも捨てる。

■国王は、彼の気を紛らし、彼が自分というものについて考えないようにすることばかりしか考えない人たちによって、とりまかれている。なぜなら、そういうことを考えれば、いくら王であっても、不幸であるからである。

■裁判権は、裁く人のためでなく、裁かれる人のために与えられている。

■思い上がりは、あらゆる惨めさの重みと対抗し、それに打ち勝ってしまう。これこそ異様な怪物であり、きわめて明らかな迷いである。

■思い上がりは、あらゆる惨めさの重みと釣合を保っている。思い上がりは、自分の惨めさを隠すか、あるいはまた、もしこれを現す場合は、それを知っているということで得意になるかのどちらかである。

■私には、キリスト教をほんとうだと信じることによってまちがうよりも、まちがった上で、キリスト教がほんとうであることを発見するほうが、ずっと恐ろしいだろう。

■私には非難と迫害とが絶えないだろう。だが、私は真理を持っている。どちらが勝利者になるかはやがてわかるだろう。

■私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動きださせるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。

■時は、苦しみや争いを癒す。なぜなら人は変わるからである。もはや同じ人間ではない。侮辱した人も、侮辱された人も、もはや彼ら自身ではないのである。

■自然な文体を見ると、人はすっかり驚いて大喜びする。なぜなら、一人の著者を見るのを期待していたところを、一人の人間を見いだすからである。

■邪悪は、自分の側に道理があるときは、高慢になり、その道理の輝きをそっくりひけらかす。

■若すぎると正しい判断ができない。年をとりすぎても同様である。考えが足りない場合にも、考えすぎる場合にも頑固になり、夢中になる。

■弱者とは、真理を認めはするが、自分の利害がそれに合致するかぎりにおいてのみ、それを支持する人々のことである。そうでないときには彼らは真理を放棄する。

■宗教についても同様に推論すべきである。真の宗教がなかったならば、人が偽りの宗教を多く考え出すことはありえなかったであろうからである。

■宗教を知ることから私を最も遠ざけるように見えた、これらのあらゆる対立は、私を最も速く真の宗教に導いてくれたものである。

■獣に服従して、それを崇めるまでにいたっている人間の卑しさ。

■信仰と善行のあいだには大きな差異があることを、経験はわれわれに知らせてくれる。

■信仰のない人間は、真の善をも正義をも知ることができないということ。

■信仰は互いに矛盾しているように見える多くの真理を含んでいる。

■真の善に実際最も近づいた人たちは次のように考えた。すなわち、すべての人が欲している普遍的な善は、ただ一人によってしか所有されえないような個々の事物の、いずれのなかにも存在しないことが必要である。

■真の雄弁は、雄弁をばかにし、真の道徳は、道徳をばかにする。
(パスカル)
■神なき人間の不幸がどんなものであるかを知らないことほど、人間の精神の極端な弱さをあらわすものはない。

■人がその偉大さを示すのは、一つの極端にいることによってではなく、両極端に同時に届き、その中間を満たすことによってである。

■人が見るのを好むのは、意見がたたかわされるところなのであって、そうして見いだされた真理をうち眺めるのはまっぴらである。その真理を喜んで認めさせるためには、それが論争から生まれ出るところを見せなければならない。

■人が妙薬を持っていると称する多くの虚言者どもに多大の信頼をよせ、ときにはその生命を彼らの手にゆだねるまでになるのはなぜであろうかと考えて、私が気づいたのは、真正の薬のあることがその真因であるということであった。

■人は、たえず期待を裏切られている。ところが、おかしな謙虚さから、それは自分のあやまちのせいであって、心得ていることを常に自分が誇りとしている処世術のせいではないと思っているのだ。

■人は、子供のときにこれこれの職業がほめられ、それ以外のものはすべて軽蔑されるのをさんざん聞かされたために、それにひきずられて選択する。

■人は、船の舵をとるために、船客のなかでいちばん家柄のいい者を選んだりはしない。

■人はふつう、自分自身で見つけた理由によるほうが、他人の精神のなかで生まれた理由によるよりも、いっそうよく納得するものである。

■人は確かさを好む。教皇が信仰において無謬であり、いかめしい神学者たちが道徳において無謬であることを好む。自分が確信を得たいために。

■人は真理を示して、それを信じさせようとはする。しかし、聖職者の不正を示して、それを矯正しようとはしない。偽りを指摘すれば良心は保証されるが、不正を指摘すれば財布は保証されない。

■人は正義に従うことが力であるようにできなかったので、力に従うことが正しいとしたのである。正しいものと強いものとがいっしょになって、至上善である平和がもたらされるために、人は、正義を強力化できないので、力を正当化したのである。

■人は精神が豊かになればなるほど、独特な人間がいっそう多くいることに気がつく。普通の人たちは、人々のあいだに違いのあることに気づかない。
(パスカル)
■人は大まじめに行動し、それぞれ自分の職務に服している。しかも、そういうしきたりなのだから、自分の職務に服すのが実際によいのだという理由からではなく、それぞれ道理と正義とがどこにあるかを確実に知っているかのように、である。

■人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない。

■人を有益にたしなめ、その人にまちがっていることをしめしてやるには、彼がその物事をどの方面から眺めているかに注意しなければならない。なぜなら、それは通常、その方面からは真なのであるから。
(パスカル)
■人間というものは、どんなに悲しみで満ちていても、もし人が彼を何か気を紛らすことへの引き込みに成功してくれさえすれば、そのあいだだけは幸福になれるものなのである。

■人間にとって、完全な休息のうちにあり、情念もなく、仕事もなく、気ばらしもなく、集中することもなしでいるほど堪えがたいことはない。すると、自己の虚無、孤独、不足、従属、無力、空虚が感じられてくる。

■人間に対して、彼の偉大さを示さないで、彼がどんなに獣に等しいかをあまり見せるのは危険である。卑しさ抜きに彼の偉大さをあまり見せるのもまた危険である。どちらも知らせないのは、また更にもっと危険である。だが、彼にどちらをも提示してやるのはきわめて有益である。

■人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるだけでいい。原因は、『私にはわからない何か』(コルネイユ)であり、その結果は恐るべきものである。

■人間の偉大さと惨めさとはこんなにも明らかであるから、真の宗教はどうしてもわれわれに、人間のなかには何らかの偉大さの大きな原理が存在し、また惨めさの大きな原理が存在することを教えてくれなければならない。

■人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っている点で偉大である。樹木は自分の惨めなことを知らない。だから、自分の惨めなことを知るのは惨めであることであるが、人間が惨めであることを知るのは、偉大であることなのである。

■人間は、おまえはばかだとたびたび言われると、そう思いこみ、またおれはばかだと自分にたびたび言いきかせると、そう思いこむようにできている。人間は一人で自分と内的な会話をするからである。そこでそれをよく調節するのがたいせつである。<悪い交わりは、良いならわしをそこなう>

■人間は、もし気が違っていないとしたら、別の違い方で気が違っていることになりかねないほどに、必然的に気が違っているものである。

■人間は、屋根屋だろうが何だろうが、あらゆる職業に自然に向いている。向かないのは部屋の中にじっとしていることだけ。

■人間は、死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした。

■人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。

■人間は明らかに考えるために作られている。それが彼のすべての尊厳、彼のすべての価値である。そして彼のすべての義務は、正しく考えることである。

■人々が、その言っていることに利害関係を持っていないからといって、その人たちが嘘をついていないと、絶対的に結論するわけにはいかない。なぜなら、ただ嘘をつくために嘘をつく人もあるからである。

■人々は宗教を軽蔑している。それを憎み、それが真実であるのを恐れている。これをなおすためには、まず宗教が理性に反するものでないことを示さなければならない。尊ぶべきものとして、それに対する尊敬の念を起こさせなければならない。

■世から悪人どもを絶やすには、彼らを殺すべきであろうか。それは一方だけでなく、双方を悪人にすることだ。<善をもって悪に勝て>

■世には肉的な偉大にのみ感心して、精神的な偉大などはないかのように思っている人があり、また精神的な偉大にのみ感心して、知恵のうちにさらに無限に高いものはないかのように、思っている人々がある。

■世の中には、あらゆるよい格言がある。人はそれらの適用にあたって、しくじるだけである。たとえば、公共のよいものを守るためには、自分の生命をかけるべきだということを人は疑わない。そして多くの人がそうしている。だが、宗教のためにはそうしない。

■世間では、詩人という看板を掲げなければ、詩の鑑定ができる者として通用しない。数学者その他の場合も同じである。しかし、普遍的な人たちは、看板などまっぴらで、詩人の職業と刺繍師のそれとのあいだに、ほとんど差別をつけない。

■正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強いものに従うのは、必然のことである。力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である。

■正義の正義であるところは、高慢をくじくにある、その行為がどんなに神聖であっても。

■正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。そのために、人は正義に力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だと言ったからである。

■精神は自然に信じ、意志は自然に愛する。したがって、両者とも真の対象がなければ、誤った対象に執着せざるをえない。

■精神的な人々の偉大は、王や富者や将軍やすべて肉において偉大な人々には見えない。

■聖書の意味を解明しようとして、その意味を聖書から引き出さない人は、聖書の敵である。

■川一つで仕切られる滑稽な正義よ。ピレネー山脈のこちら側での真理が、あちら側では誤謬である。

■戦いが続くのを欲しない支配者たちは、彼らの手中にある力が、彼らの気に入る方法で受けつがれていくように制定する。ある者は、それを人民の投票に、他の者は世襲等々にゆだねる。

■戦争をして、あんなに多くの人間を殺すべきかどうか、あんなに多くのスペイン人に死を言い渡すべきかどうか、を判断する問題が起こったとき、その判断をするのはただ一人、しかもそれに利害関係のある人である。この判断には、利害関係のない第三者が当たるべきであろう。

■船の沈没しないことが保証されていたら、暴風に吹きまくられる船に乗っているのは愉快である。教会を悩ます迫害も、このたぐいのものだ。

■想像は途方もない見積もりをして、小さな対象をわれわれの魂を満たすほどまでに拡大し、向こうみずな思い上がりから、大きなものを自分の寸法にまで縮小するのである。ちょうど神について話すときのように。

■多数主義は最善の道である。それはあらわであり、服従させる力を持っているから。とはいえ、これは最も無能な人々の意見である。

■知識には互いに触れあっている二つの極端がある。第一の極端は生まれたてのすべての人間がおかれている自然的な純粋な無知である。他の極端は、人間の知りうるすべてのものを一巡したのち自分が何も知らないことを認め、出発点のあの同じ無知にもどってくる偉大な魂の到達する無知である

■中立を守ろうと思う者こそ、懐疑論者の最たるものであるからである。中立を守るというこのことこそ、この徒党の本質なのである。彼らに反対しない者は、りっぱに彼らの側に立っているのである。

■沈黙は最大の迫害である。

■弟子と『ほんとうの』弟子とのあいだには大きな相違がある。

■篤信の多くのしるしに加えて、彼らは迫害まで受けた。これは篤信のしるしの最善のものだ。

■二つの行き過ぎ。理性を排除すること、理性しか認めないこと。

■反対があるということは、真理を見分けるよいしるしではない。多くの確かなことが反対されている。多くの嘘が、反対なしにまかり通っている。反対のあることが嘘のしるしでもなければ、反対のないことが真理のしるしでもない。

■彼らは、自分たちの側に立つのではない。彼らは、中立で、無関心、すべてについて宙ぶらりんである。彼ら自身に対しても例外ではない。

■彼らは、真の善とは、減少も羨望も伴わず、すべての人が同時に所有することができて、だれも自分の意に反してこれを失うことのできないようなものでなければならないということを、了解した。

■彼らは、日食や月食を不幸の前兆だと言う。それは、不幸は普通にあることだからである。したがって、悪いことはあまりにしばしば起こるので、彼らもしばしば言い当てることになるのである。

■彼らは多数の中に隠れ、自分らの助けとして数を求める。喧騒。権威。

■不公平な審判者たちよ、その場かぎりの法律をつくらずあなたがた自身が定めた既成の法律で裁け。

■不幸な人々に同情するのは、邪欲にさからうことではない。反対に、人はそういう好意のしるしを見せ、何も与えずに、情けぶかいという評判をとりたがるものだ。

■不信者に同情することから始める。彼らはその境遇によってすでに十分不幸なのだ。

■不当な非難をこうむればこうむるほど、また強暴な言論の圧迫を受ければ受けるほど、われわれはますます高く叫ばずにはいられない。

■富の特性は、気前よくくれてやることである。

■普遍的な善は、われわれのうちにあって、われわれ自身であり、しかもわれわれではないものである。

■福音書のうちに引用された預言は、君たちを信じさせるためにしるされていると思うのか。いな、それは君たちを信仰から遠ざけるためだ。

■約束を守らず、信仰を持たず、名誉を重んぜず、真理を持たず、二心であり、二枚舌であり、かつてあなたがたに非難された寓話のなかのあの両棲動物のように、魚と鳥との間で曖昧な位置を占めている人々……

■理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。

■流行が好みを作るように、また正義をもつくる。

■力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は非難される。したがって、正義と力とをいっしょにおかなければならない。そのためには、正しいものが強いか、強いものが正しくなければならない。

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