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生まれる場所を選ばなかったすべてのモノへ。Vol.1

noteを開いたのはいつぶりだろう…
この前に開いたのはアカウントも忘れてしまうくらい前。
続けるって難しい…

フリーペーパー「生まれる場所を選ばなかったすべてのモノへ。」
順調に気まぐれに不定期に発行していて、現在Vol.4を制作中。
最初は自分たちで印刷していましたが、印刷作業が思いのほか手間なので、Vol.3はとうとう印刷を外注しました。
Vol.1はもう刷り増しせずにWEBで公開してしまえ!ということで、掲載文章(ちょっとしたエッセイみたいな?)をこちらにドドンと載せてしまいます!

2020年7月に発行した「生まれる場所を選ばなかったすべてのモノへ。Vol.1 」お読みください。

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1.アラフォー女子の心のモヤモヤ

 空き腹にワインをグラス2杯と缶ビールを1本飲んだ。いつもは缶ビール1本だけ。この日はワインがプラスされたから気持ちがでかくなった。「よし、今日ならいける!」酔いに任せて決意して、夫の実家に電話をした。お酒の力を借りて好きな人に告白する人の気持ちがわかった気がした。

 夫と結婚して9年、結婚前の1年半は同棲していた。同棲を機に関東にある実家から夫の住む関西に移り住んだ。夫とは実家同士が車で30分の距離。関西に住む関東人カップルだ。
 関東と関西、違うことはちょいちょいある。エスカレーターの立ち場所だったり、電車の乗り方だったり…。部落差別の意識にも衝撃を受けた。

 私は被差別部落に生まれ育った。「西日本の方が部落差別はある」ということは知っていた。知っていたけど、感じたのは初めてだった。同棲を始めた当時、彼氏だった夫には自分が部落出身だと伝えていなかった。自分のアイデンティティでもあるし、どこかで話したいなと思っていたが、ただ機会がなかった。でも部落への差別的な言葉を日常生活で聞くことがあると、伝えないといけないことのような気がしてきた。
 ある日、被差別部落出身であることを伝えた。彼は言った。
「へーこっちの人もよく気にしてるけど、部落ってなに?」
こんなもんだよね、関東人。(うちの夫は。)被差別部落について説明した。「ふーん」……終了。こんなもんなんだよ、関東人。(うちの夫は)

 そして結婚が決まった。夫の父は九州の生まれ、母は東北の生まれ。東北には被差別部落は少ないし、きっと大丈夫。九州は…分からなかった。21世紀の日本でも未だ結婚差別があることは知っていた。もし反対されたら…と怖くなった。そして何より、差別に直面することが怖かった。
 隠すことにしてしまった。実家の両親にも「うちが部落であることは彼の両親には言わないでほしい」とお願いして…

 それから10年。少し前から被差別部落のことを話すイベントやSNSをしたり、今こうして文章を書いたりしている。周囲の人たちにも、今まで自分が部落出身であることは言わずに(言えずに)いたけど、今は特に隠してもいない。いよいよ義両親にも話す時が来たか…。でも「ご報告があります」と話すべきことなのか?でもでも、どこかでSNSを見て知る前に、「こんな活動してるんです」って報告がてら話した方がいいような…

 そんなわけで、お酒の力をお借りして、夫の実家に電話をかけたのだ。
来年小学校に上がる息子のランドセルはどうしたかとか、コロナの状況がどうかとか、マスクが苦しいとか、小さめサイズのマスクが小さいとか、一通りの近況報告をしたところで話を切り出す…はずが、一気に酔いが醒めた。お酒の力を失った私には告白する度胸がなかった。ちーん。電話を切った。無駄酒した。

 そもそも9年前、ちゃんと向き合って話しておけば、今頃こんな言い出しにくくはなっていなかったのだが、でもその時はそうするしかできなかった。怖いものは、怖い。人間だもの。おそらく今、本当のことを打ち明けたとしても、なんてことはないだろう。私の中にあるのは、隠してしまったことの後ろめたさ。親に嘘ついて、なかなか本当のことを言えない子供の気分を味わうアラフォー女である。
 そしていまだ、言えていない…。この文章を誰かが見る頃には報告済みとなっているのだろうか。モヤモヤはしばらく続く…
(Futatsu: 潮﨑 識衣)

2.不思議なゴトウ先生と子どもの眼

 夕陽が射し込む教室の隅で、私は一人こみ上げる悔し涙を抑えきれずにいた。
 「ヒロシ、明日もう1回走るごどになったがらな。がんばれよ」
 担任のゴトウ先生からの一言だった。
 毎年秋、地元のS中学校では、地域を巻き込んだ運動会が開かれ、小学校招待対抗リレー競技は花形の一つだった。この対抗リレーの選手選考会において、6年生の生徒が5年生の私の運動着を引っ張ってスタートの妨害をしたため、私は選手に選ばれなかった。この事実を見逃さなかったゴトウ先生は、職員会議に諮り、翌日に改めて選考会が開かれこととなり、私はリレー選手に選ばれた。
 ゴトウ先生はズボン尻に手ぬぐいを下げ、両手には黒色のチョークの粉除けサポーターを付けた、さえない感じの男性教師だったが、この時の先生は全く違って見えた。

 私にはあんま・マッサージをするおじさん(ただよしさん)がいる。実は、この人が自分のおじさんであることを知ったのは小学校5年生になってからだ。両親が激しいけんかをした折、父の差別的暴言に耐え切れず、母が「ただよしさんは、おめの兄さんだべえ。
親戚のみんなでバカにして」と語気を強めて泣きじゃくった。冠婚葬祭の場面でただよしさんと会ったことは一度もなかった。
 後日、ゴトウ先生からこんなことを告げられた。「ヒロシ、おめのおじさんは戦友で、いのちを助けてもらったんだ。大切な命の恩人だ」と言うではないか。
 同じ人間に対するまなざしと言動のこれほどまでの違い。差別の素顔を目の当たりにした出来事だった。

 ゴトウ教室は、図書コーナーあり、金魚などの飼育コーナーあり、こともあろうか犬も同級生であった。ある日、同級生の一人が教室の床下から動物の鳴き声がすることに気づいた。クラス1小さくすばしっこいT君が捜索隊として選ばれ、床下に潜り込み、黒くすすけたガリガリの犬を見つけた。首につけた鎖が絡まり、床下から出てこれなくなったようだ。石鹸で洗い、エサを与え、「シロ」という名をつけ、教室で飼うことになった。子どもたちは、休憩時間や昼休み、放課後には飼い主を探しに、近隣を尋ね歩いた。夜は順番にシロを自宅に連れ帰った。どのくらいの時間を要したのだろうか、飼い主が見つかり、同級生シロは一足早く卒業した。

 当時の生徒数は、1クラス45~50人、1学年6クラスあったと思う。ゴトウ教室の同級生のことは今でも鮮明に覚えている。
 K君の家は、廃品回収業を営み、きょうだいもたくさんいた。つぎあてをした学生服を着たK君は、学校ではあまり話さない穏やかな生徒だったが、家では長男として一家の家計を支えていた。家業を手伝い、新聞配達もしていて、私も時々手伝った。
 学級委員のJ子の家は、燃料屋を営んでいた。私の家は酒・みそ・醤油等の食料品の小売店で、J子の家が得意先だったため、よく配達に行った。彼女の家は独特の匂いがしたので、母にその匂いのことを尋ねたことがある。「ああ、漬物の匂いだ」。極めて簡潔な答えだった。J子にはおじいちゃんがいて、年2回ほど、教室に来て手品を見せてくれた。
とても単純な手技なので、2回目には種が分かった。J子は、おじいちゃんの手品をどんな思いで見ていたのだろう。
 K君も、J子も、在日朝鮮人だ。この事実に気づいたのは私が20歳後半になってからだ。
わが故郷の周辺には戦前からいつかの炭鉱があり、かつて強制連行され強制労働を強いられた朝鮮人が多数いたが、戦後朝鮮半島に戻れずに定住した者も相当数いる。
 N君の家は平屋一間、家の真ん中に太い木が生えていて、それにもたれかかるようにして建っている。母と兄、姉、N君の4人家族。
姉は重度の知的障害を抱え、学校に通っていなかった。晴れた日に赤い浴衣を着て外に出て、母親から髪を解いてもらっていた。
N君一家は小6のとき、転校の挨拶なしで、忽然として消えた。

 人には、固有の歴史・文化・生活がある。
それぞれが悩み、苦労しながら自らの状況を引き受け、必死で生きている。ゴトウ教室の子どもたちは、わずか2年間ではあったが、濃密な出会いを経験し、互いの関係を開き、
事実を見つめ、泣き、笑い、喜び、悲しみをともにした。子どもたちの小さな眼は、記憶の断片を、心の奥深くに焼き付けたに違いない。それぞれの断片が、その後、どんな像となって結晶化しただろうか。ゴトウ先生は、わずか2年間の勤務で他校へ転勤した。

(阿部 寛:山形県新庄市生まれ。64歳。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。)

3.生まれる場所を選ばなかったすべてのモノへ。

コロナウィルス感染症の拡大を受け、各地・分野で大変な被害が出ています。
災害や、天災、感染症など、突如として起こる自然の力に対し、
私たちは余りにも無力です。
科学の進歩により、予測や、予防が進んではいますが、ほとんどは目の前の状況を受け入れ、対応していくしかありません。

みなさんは、この数カ月どのように過ごされましたか?
私の仕事は、障がい者福祉。
家で過ごすことが難しい利用者さんと共に日々を過ごしました。

5月、感染した場合のリスクが高い利用者さんが通所を再開されました。
送ってこられたお父さんは「命がけできました~」と。

福祉の仕事はまず、命を守ることから始まります。
「生きる権利の保障」
しかし、その人は、命の危険を承知で「出勤」しました。

私は、「生きる」を保障するということの本当の意味は、
その人の人生が一人称で輝いていることにあると考えています。

私たちが出勤し利用者と向き合っていることと、
その人が出勤されたこと。
命を守ることを前提とした仕事。

「生きる」という本質には、一見矛盾にも思える瞬(トキ)があってもいいのではないかと思うのです。

生まれ落ちる環境もまた、自分で選ぶことができない自然の力です。
「Futatsu:」はこの「生まれる場所を選ばなかった全てのモノへ」に二つの想いを込めました。

一つは、人権。
マジョリティ、マイノリティではなく、全てのものに想いがあり、人として生きたい道があるということ。そして、この世に生まれ落ちたこと、また、その環境をポジティブにとらえていきたいということ。

二つ目は、私たちが感じてきた経験や想いを伝えることで、生きることにしんどさを覚えていたり、今生きる環境に愁いをもっている人に、寄り添い、共に歩みたいということです。

たくさんの人生の先に、私たちが今ここに在ること。
そのことを大切に、大切に抱きしめて。
今私達にできるかたちで、みんなが互い認めあえる社会づくりに向き合いたい。
歩みはゆっくり。無理をせず。
時には「じれったい」と感じることがあるかもしれません。
そんなこと言いながら熱く叫ぶ時もあるかもしれません。
どうか気長に見守ってやってください。
そのうちじわっと染みてきます。

「生まれる場所を選ばなかったすべてのものへ」発行に際し、ご理解、ご支援いただいた全ての方へ、感謝いたします。この読み物が、手に取られた全ての方にとって、生き抜くしんどさを、少しでもほぐす一助となれましたら幸いです。
(Futatsu: 岩原 勇気)

見開き挿し絵2

Vol.2以降は今のところまだペーパーベースです。
Vol.2以降も読みたいなと思ってくださった方は郵送しますので、futatsu2020@gmail.comにご連絡ください!

さて、Vol.4の制作に励みます…!!



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