嫌いな分には構わなくても(日記)
納豆が苦手だ。
苦手だけれど、家族で納豆を苦手なのはわたしだけだったから、実家では毎朝の食卓に並んでいた。隣の弟も、向かい合った祖母も、両親もみんな納豆を食べる。それが当たり前だと思っているから、自分の好まないものを誰かが好んでいたところで、顔を顰めたり不快感を表明したりはしないし、そもそも、不快には思わない。
給食に出れば級友も皆食べる。教室が納豆の匂いに満たされていたって、そういうものだし、わたしの分の小粒納豆のパックは隣の席の子にあげればwin-winの関係というやつである。元々わたしが、わたしの分だと思っていないモノだから、取り分が減ったような感覚もない。
けれどたとえば、祖母がわたしのどんぶり飯に有無を言わさず納豆を乗せてきたら。
級友が納豆の分と合わせて、わたしの分の白米まで持っていったなら。
はたまた納豆に口があって、目があって手足があって、一粒一粒がねばりけのあるモンスターになってわたしのオムレツや生姜焼きやデザートの小さなフルーツゼリーを飲み込んでしまったら。
そのときはもう戦争だ。
それはもう侵略だ、と感じると思う。
ただの苦手を乗り越えて、きらいになって恨みつらみが募ると思う。
隣のクラスの人気者、オリンピックくんは怪物になってわたしの分の生姜焼きまで食べてしまったのです。
怪物になってしまった原因が外にあったとしても。わたしはオリンピックくんにされたことをきっと忘れられないし、二〇年後の同窓会で会ってもきっと笑えないだろう。きらいになってしまっただけだ。冷静な議論とは別のところで、きらいには、なってしまった。
きらいなものの話をするのは褒められたものではないと思っている。たぶん、無自覚であるよりは、きらいをきらいと認識しておけたほうがちょっとだけ健全な気がするだけ。ほんとに、気がするだけ。
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