桜のしべが見つめている-03(小説)

「そう、きみにはコレがそんなふうに見えているのか。そうか」
 ソレはそっと幹を離れて二歩ほどユウコへ近付いてきた。ユウコは咄嗟に、一歩だけ後ずさったところで止まった。一定の距離を保ったまま、ソレは何度も確かめるように、そうかそうか、と口にしてはうんうん頷いた。無数にある眼球のうち、いくつかは伏せられて口と一緒に感慨深そうな表情を作り、いくつかは興味深そうにぎょろりとユウコへ向けられる。
 ユウコはいっそう居心地が悪く、誰か通りかかってはくれまいかと周囲をそっと伺った。けれどもやはり、子供が遊ぶには遅く、大人が帰るには早い頃合いで、遠くにからんからんと転がる空き缶のあるほかは、人の暮らしの気配もない。まるで、そっくり見た目だけ同じの、無人の町へ来たみたいだった。
「それにしては逃げたり怖がったりしないんだ?」
 ソレはこてん、と首を傾げた。こういうのと言葉を交わすものじゃあない気がする、とユウコは必死だったが、頑ななはずの意識と鼓膜をすりぬけて、するりと聞こえてきてしまう不思議な声だった。幼い子供が咎めてくるみたいにも、つやっぽく誘う女みたいにも、なにか、恐ろしい生き物が舌なめずりしているみたいにも聞こえる。そもそもコレって生き物なのかしらとも思った。
「最初は見間違いかと思って」
「よくあることだね」
「でも、その、異形の何かだからって拒絶するのは悪いかと」
「うん?」
「あー……えっと、顔見てすぐ『回れ右』されたら人間同士でも結構嫌なので、ましてや、他種族……種族? わかんないけど、逃げたら失礼かなと思ったし、それでかえって襲われたりしても嫌だし」
「ああ! 人間に拒否されたのを逆恨みして食い殺すとかそういうやつだね? あっはは、そんなことしないよ」
 何を合点がいったのか、ソレは手を叩いて喜ぶような仕草をし、口をにかっと開いて腹を――首から下はまったく人間の子どもと同じに見えるのだ――抱えて笑い出した。笑い声は、これまた腕白な子供が床を転げまわるときのようでもあったし、かしましい年頃の娘が流行のカフェでけたたましく上げるときのそれでもあった。
 ユウコは拍子抜けしたような、しかし自分は身の安全と相手への慮りを瞬時に最低限考えたはずなのにこうまで笑わなくともよいのではないか、という妙に不貞腐れたような、なんとも、ぶつけどころのない気持ちでしばしソレの笑い転げるさまを眺めた。ひとしきり笑ったところで落ち着いたのか、目元に(いくつかの目元のうちの一つに)浮かんだ涙をそっと拭いながら、第一ぼくは肉食じゃないし、と付け加えられたときにはぞっとした。ソレがどうも人間でないのは決まりのようだし、食さないからといって殺さないとは約束されていないのである。


(続きます)

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