桜のしべが見つめている-09(小説)

 見上げれば小さな花弁がひらり、ちらり、はらり、枝の先に別れを告げて風に乗って飛んでいく、落ちていく。満開なんて呼べる時期は明日にも、過ぎるんだろうなと分かる。それを過ぎればソレとは会うこともないんだろう、ユウコはなんとなく、知っていた気がした。
 花が美しく散り際を晒すとき、ソレはもう、ユウコの嫌ったなにかではなくなるのだ。眼球の少なくなった姿は、すこし、見てみたいとも思ったけれど。ユウコは首を振って思考を振り払って考え直す。今度はひとつも目がない、なんてことではそれも困るなと思って。
「聞いてもいいですか」
「問答はしないのではなかったかな」
「私が聞く分には平気かなと思うので。靴を隠した子には、あなたはどう見えるんですか」
「背が高くて目のきりりと吊り上がった大人かな」
「木下さん家の旦那さんは?」
「あの子は、ずいぶん昔だけれど初恋の少女のように思ってくれたよ、たったの三日でも。だけどどれもぼく自身には確かめようのないことだから、彼らの目に映ったものを、ぼくは推し量るばかりだ」
 鏡を確かめようもないのに、他人の目の中の自分を想像で補う、それも何かに似ているような。ユウコが逡巡するのをソレは黙って待っていた。ユウコは目を伏せてしばし、足の下に引かれた遊歩道の表面を眺めた。ひらり、またひとつ落ちてきた花びらが、アスファルトと出会う。
 去年だってそこらじゅうに散らばっていたはずの花弁が、いつの間にかどこにも見えなくなって消える。当たり前のことだ。それって幻みたいだ。
「じゃあ」
 フェンスに預けていた体重を自分のもとへ戻す。ユウコは振り返らない。ソレはうん、とだけ小さく返事をして、それが別れの言葉らしいと分かった。
「もうひとついいですか」
「どうぞ?」
「あなたの名前はあるの」
「自分はとうとう教えてくれないのにね、本当に勝手で良いことだよ。あったとして、やっぱり呼びたい人間の都合のものさ。特にきみは知らないほうがいいだろう」
 そこだけ急にきっぱりとした声だった。少年みたいだ、と素直にそのときばかりはユウコも思った。けれど振り返らなかったから、ソレが結局どんな姿をしていたのだか知らない。まともな呼称もなければ、あったこともなかったことになって誰も、何も見ていないことだからだ。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?